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1 初めてのシェアハウス


「別れたくない」

「俺はもう無理だよ」


ここは五反田
古びたマンションの玄関前、少し汗ばむ22時。季節はこの瞬間にも確実に真夏に向かっている。私は、大好きな彼の突然の決断に動揺していた。


「勝手に決めないで」

「別れよう」


目黒川を見下ろす14階建、築30年。

私はここをmixiで見つけた。

ここの一室こそ、私が今日から住む場所だ。今夜、正にこの直後、扉を開けた奥にいる11人と「はじめまして」を交わすのだ。彼はその緊張をほぐすため、ここまで自転車に乗せてくれた。はずだった。予定は覆り今、私は年季の入ったエントランスで泣きじゃくり、すっかり目を腫らし、もうすぐひとりぼっちになろうとしている。

初めての実家離れ。今日から家族と別の家。
その記念すべき日に、私はもう一つ望んでもいない記念を加えられようとしているのだ。


「もう別れたいんだ」

「どうして?いやだ、絶対にいやだ」


都心にある高校で出会った彼は、実家も都心だった。
そこから1時間ほどのところに生まれ育った私は、なんとなく流れていたその場の流れになんとなく乗って都心にある大学に入った。そしてなんとなく最初の数日を過ごし、このまま続いていくであろうなんともない日々に、なんとなく嫌気がさしていた。

もっと都心で私生活を送りたい。もう満員電車に乗りたくない。それに、彼に会う時間だってもっともっと欲しい。

それが実家を出ると決めた理由だった。なんとなく母に伝え、なんとなくOKが出た。

ここは、私がピンク色のガラケーで探し出したシェアハウス。mixiに転がっていた私の新居。


「ごめん。もう俺行くね。」

「………わかった」


自転車を押して歩き始める彼。もう戻ってきてはくれない。このまま振り返ってもくれないかもしれない。なんでも望みを叶えてくれた優しい彼。最後のわがままは届かなかった。彼の意思は固い。私が諦めるしか道はない。私は去っていく彼の背中と、さっきまで私が乗っていた自転車のうしろをじっと見つめて、残りの涙をぼろぼろ落とした。


私は彼を最後まで見送らず、玄関に飛び込んだ。エレベーターのボタンを押した。早く、早く、お願い、早く。私は古めかしいそのボタンを連打した。

目的階の数字が光り、音もなく扉があく。

玄関横の鉄柵には、見たことのない数のビニール傘がかかっていた。かかりすぎて、傘の先がほとんど全てこちらを向くように傾いていた。銃口を向けられているみたい。「いっそ撃ってくれ」そう思った。


初めて使う鍵をゆっくり回す。ドアは既に開いていた。

入ってすぐの狭すぎるリビングには数人の男女が座って談笑していた。ドアが開く音で、みんなが一斉にこちらを向く。


「はじめまして」

「…あ、はじめまして」

「今日からここに入る赤澤です。えるって呼んでください。下の名前がえるです。」

「……えっと、大丈夫?」

「名前がですか」

「いやそうじゃなくて。何かありましたか?」

私の顔は、人間が崩れるほど大泣きした後のそれだった。

「いや…」


喋ろうとするとまた涙が溢れてくる。そこにいる全員の視線を感じる。

「ちょっと、あの、荷物だけ置いて良いですか」


椅子をひいてもらわないと通れない。すみません、ごめんなさい、壁にごつごつと荷物と体をぶつけながら一歩ずつ入る。気まずい。

狭すぎる玄関、狭すぎるリビング、これまた狭すぎる奥の部屋。わずかな足の踏み場を三歩進み、二段ベッドの上段、今日から私に割り当てられたそこに荷物を置く。上段の薄いカーテンの隙間から、眠たそうに女性が見下ろし私を見た。目が合った途端、リビングにいる人たちに向けてだろうか、その女の口から韓国語が大きめに飛び出した。

私は持ってきたもの全てから手を離した。
その瞬間、迷わずもう五歩ほど奥に進んだ。

一番端、体を斜めにしないと開けられない窓を開け、人ひとりがやっと出られるそこからよいしょと表に出る。狭すぎるベランダ、錆びた竿にかかっている湿った洗濯物をかき分け、目黒川に向けて身を乗り出す。

腫れた瞼を大きく開き、まっすぐに伸びた長すぎる川沿いの道、その終わりのほうに愛おしい背中を見つけた。


「ありがとーーーーーー!!!」

私は精一杯の声を張り上げた。

声は届いた。振り返り、きょろきょろしているように見えた。

「ここだよーーー!ここにいるよーーーー!!」

あっ と言っているような動きの後、こちらに向かって大きく手を振る。私はその倍くらい、大きく振り返す。

「ありがとーーー!
ほんとに!!ありがとーーーーー!!!」

別に何もありがたくない。本当は引き止めたい。もう一度だけでいい、やり直したい。スイッチを押したかのように、簡単に目から溢れでる。絞り始めの雑巾みたいだ。

既に豆粒ほどの愛おしい姿が、自転車にまたがるのが見えた。さらに加速して、どんどん小さくなる。向こうの橋を渡る。もうすぐ見えなくなる。もう一度手を振るのが見えた。私の姿が遠くからでもよくわかるよう、落ちてしまいそうなほどに大きく大きく手を振った。ビルの群れに向かってペダルを踏むのが見える。遠すぎて霞む横顔が先に吸い込まれ、もう私を乗せてはくれないうしろが後に続いた。

私の恋は、蒸した五反田に飲み込まれた。


(つづく)

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私もスキです…
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赤色とボブとワンピース。この冬、19軒目の家に引っ越します

コメント2件

五反田ぁぁぁぁ!
精一杯な感じが好き!
あ、、はじめましてです。。
私も五反田には個人的な思い出が沢山あります。。思い出した、、
文章が好きです。可愛いくて、柔らかくてリズミカルで面白くて大好きです。女性独特の甘やかな感じが、、、!いいねだけで伝えられなかったのでコメントしました。
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