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バーニング 劇場版

韓国映画界の巨匠イ・チャンドン監督の最新作で村上春樹さんの短編「納屋を焼く」をアレンジしまくって、2時間28分の大長編にした「バーニング 劇場版」の感想です。(なぜ劇場版とついているのかというと、NHKで放映された95分の短縮版というのがあるからなんですが、こちらはヘミの部屋でパソコンに向かうジョンスのあのシーンで終わってるらしいです。確かに、あそこで一回終わってる様なカットなんですよね。いや、物語としてもあそこで終わってるのか。)

はい、ということでイ・チャンドン監督なんですが、「ペパーミント・キャンディー」の時も、「オアシス」の時も、「シークレット・サンシャイン」の時も、「ポエトリー アグネスの詩」の時もかなり気になっていて、毎回観たいと思っていながらなぜかスルーしてしまっていたんです。恐らくそれは、観るのにもの凄く体力がいりそうなのが予告とかその評判から分かるからで。後日、DVDで観ようと思っても、「今日、これを受け止める体力があるのか?」って考えてしまうと踏み込めずにいたんですね。なので、次、劇場公開されたら必ず観ようと決めていたんです。村上春樹さん原作ということもあり、ある程度内容的にも予想がつくというか、それほど予想外のところからの精神的ダメージを食らうこともないだろうというのもあり観に行ったんですが。いや、精神的に来るとか、いろいろ考えさせられるとか(そういうのももちろんあるんですが、それ)よりも、めちゃくちゃ先鋭的で、不穏で、キャッチーで、ウズウズするし、モヤモヤするし、映画として全方位的に、尖がってるとこも含めてちょうどいいというか、めちゃくちゃ面白かったんです。(これが村上春樹原作だったからなのか、他の作品でもそうなのか分かりませんが、もし、これがイ・チャンドン監督の資質であるならば、なぜ、もっとそこのところを強固に誰か教えてくれなかったのかと。)えーと、つまり、監督が言いたいことっていうのがまず第一にあって、それを言う為に原作が選ばれていて、映画としてどういう表現で見せるかっていう時のバランスの良さですよね。ストーリーは謎で話が進む程どんどん困惑して行くんですけど、そうなればなるほど映画としてはワクワクして来るんです。

で、それがどういう話なのかというと、大学卒業後兵役を経てアルバイトしながら小説家を目指しているジョンス(とはいえ、普段はあまり小説も書かず実家住みでふらふらしてる様な状態なんです。)が、偶然ソウルの街で幼馴染みのヘミと再開して、ヘミに誘われるままに飲みにいってそのまま惰性でセックスまでしちゃったみたいな感じになるんです。ヘミは妙な人懐っこさと奔放さがあってそこが魅力的なんですが、それだけにちょっと不安定というか、危なっかしいところがある様な女性なんですね(要するに何も持ってないジョンスみたいな若者が惹かれてしまうのはとてもよく分かるタイプの女性なんです。)。で、この後ヘミがアフリカ旅行に行くので、その間部屋に来て飼い猫の世話をしてくれないかと頼むんです。で、ジョンスは猫の世話をしにヘミの部屋へ通うんですがいるはずの猫は全く姿を表さないし、ジョンスはヘミの部屋に来てはオナニーしてるし。ようやくアフリカから帰って来たヘミを迎えに行ったら旅行中に知り合ったベンという男と一緒なんですね。ベンは若いのにそうとうな金持ちで、ソウルに家持ってるし、ポルシェ乗り回してるしなんですけど、特に何してるってわけでもない、毎日、パリピの友達呼んでパーティーして遊んで暮らしてる様なやつなんです。要するにジョンスが持ってないものを全部持ってる様な男で。そのベンと、一度だけセックスはしたけれどもっていうジョンスとでヘミを挟んで三角関係みたいになるんですが、それはもうフリーターで小説家志望なんてスペックのジョンスは気後れしてしまうわけじゃないですか。で、そんなある日、ベンがジョンスに向かって「2ヶ月に一度くらいのペースでビニールハウスを燃やしてる。」っていう犯罪の告白をするんですね。そしたら、その直後にヘミと連絡が取れなくなって、ジョンスがヘミを探すって話になって行くんですけど…。あの、まあ、ストーリーの概要だけを話すとこういうことになるんです。ただ、これだと、この映画のことほとんど何も言ってないのと同じなんですよね。つまり、ストーリーはこの話をベースにして語られるんですが、その真意というか本当に言いたいことっていうのは別のところにあるんです。で、この映画がほんとに言いたいことは何なのかっていうのをですね、探っていくミステリーになるんですね。要するに。(宣伝コピーの " 究極のミステリー " っていうのはこのことを言ってるんじゃないかと思ってます。)

だから、えーと、映画前半は結構な青春モノなんですよ。ヘミがベンを連れて来て初対面のジョンスに一緒に食事に行こうって誘って三人で食事するシーンがあるんですけど、その時のジョンスの特に何も言いはしないけど「いや、そりゃ別にちゃんと付き合おうってことにはなってなかったけども、一回セックスしたし、旅行中猫の世話もしてたし、いきなり男連れて来て一緒に食事って。ただ、まぁ、怒って帰るってほど確信的な何かがあるわけでもないけど」感。それで表面的にはへらへらするしかないって感じ。こういうとこがほんとに上手くて。なので、僕なんかは最初のヘミと偶然再会して飲みに行くところから完全にジョンスに感情移入してましたもん。「あ、これ、いけるんじゃね?」ってリアルに思ってました。ただ、そうやってジョンスと一緒になって恋愛未満みたいなのを楽しんでる時から、その後にジョンスが辿ることになる不穏な道筋みたいなのはそうとうハッキリ見せられてるんですよね。その不穏さが映画全体を通してずっと張り詰めた緊張感になっていて。例えば、ヘミが最初の夜に話すパントマイムをやる時の心得だという「ない物をあると思うのではなくて、ないということを忘れればいい。」という言葉と、ヘミの部屋にいるはずの猫がジョンスの前には一向に姿を表さないことの妙なリンクだったりとか、ヘミが幼い頃に枯れ井戸に落ちた話(それを他の誰も知らない)とか、ジョンスの家に掛かってくる無言電話とか、リトルハンガーとグレートハンガーの話とか。

で、中でもちょっと直接的過ぎて違和感すらあったのが、ベンが"メタファー"という言葉の意味をヘミに聞かれた時に「その意味はジョンスに聞け。」と言ったことで。この映画が何かのメタファーになっているのはこの言葉を聞くまでもなく分かっていることで。特にこんなセリフ入れて印象づけなくても、ベンが「ビニールハウスを燃やす」話をした後にヘミが忽然と消えて。しかも、ビニールハウスが燃やされた形跡はなく。「それは犯罪じゃないのか?」って言ったジョンスに対して、「使われてない汚れたビニールハウスが2ヶ月に一回燃やされて消えたって韓国警察は気にしない。」とか言っていたら、ビニールハウスを燃やすっていうことを何のメタファーとして使っているのかは問い正すまでもないじゃないですか。(ジョンスもそれに気づいてヘミの行方を探るのにベンを尾行したりするわけですから。)なので、こうなって来ると逆に、「ビニールハウスを燃やす」って話はメタファーじゃないって可能性もあるわけですよ。つまり、ヘミの失踪とベンは無関係ってことです。じゃあ、この話って何の話なの?ってことになるんですが、僕は存在するってこととそれが消失していくってことに対するジョンスの妄想の話だと思ってます。実際にジョンスの前から沢山の人がいなくなって行く話なんですよね。で、最後にジョンスは自分自身の理想とか憧れみたいなものさえも消し去ったってことなのかなと。

ということで、(前半「寝ても覚めても」の様な)不穏な空気を湛えた青春映画から(後半は「アンダー・ザ・シルバーレイク」の様な)メタファーだらけの世界で消えた彼女を探すノワールへとシームレスに移行していくのがかなりスリリングなんですが、その中でも最高にスリリングなのは、原作から " 文学 " っていう曖昧さを剥ぎ取って、その全てに現代的で共感性の高い新解釈をして分かりやすくしといてから、それをまた大量のメタファーでいくらでも違う解釈が出来る話にしてるっていうイ・チャンドン監督の映画的手法のヤバさですよね。

http://burning-movie.jp/

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