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ファントム・スレッド

「ブギー・ナイツ」、「マグノリア」、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」、「インヒアレント・ヴァイス」など好きな作品が多いポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作「ファントム・スレッド」の感想なんですが、えーと、いくつか他の人の感想とかレビューを読んだんですけど、これ、言葉にすると途端につまらなくなるというか、映像から受け取る情報がもの凄く多いので、ただストーリー上で起こっていることを話しただけでは説明しきれてない感じがするんですね。それで、今度は、その受け取った感覚を踏まえて言葉にしようとすると、どんどん観念的で理屈っぽくなっていって、「これ、なんの話なの?」ってことになって。うーん、ほんとはシンプルで下世話な話なのに、なんだかアート映画の感想みたいになっていくんです。(後からよくよく考えたら、この「ほんとは下世話な話なのにアート映画みたいな…」っていうのが、正しくこの映画そのものではありますね。)で、単純に面白かったのかどうかっていうのを聞かれれば、それはもちろん面白かったんですけど、では、「何が面白かったのか?」って言われるとですね、「うーん、恋愛における男女の感じ方の違いと言うか、その攻防と言うか…。いや、そこか???そこがこの映画の主題だったか?」ってなるんですよ。観てて、この面白さ知ってるなって感じたんですけど、それが、何のどこで観た面白さなのかが分からなくてですね。(この映画が表面上で伝えてる物語の面白さとは違ってる気がして。)結局、何だか難しい映画の様な印象を与えてしまうってことになるんですよね。(そういう意味では複雑な映画ではあります。)

だから、ストーリーを説明しろって言われたら簡単なんです。単純な話なので。1950年代のロンドンで活躍するドレス・デザイナーのレイノルズ・ウッドコックって人がいて、このウッドコックに目染められた若いウエイトレスのアルマ。彼女とウッドコックの恋愛の駆け引き(この駆け引きが、まぁ、普通じゃないんですけど。)を中心にして、アルマの人生で初めて触れるファッションの世界。そこでいかに自分の居場所を作っていくかって話になっていて。だから、若い女性の成長物語でもあり、アーティストの独特な生活を描く話でもあるんですけど、大前提は恋愛なんです。つまり、全ての恋をしたことのある大人ならば誰でも共感出来てしまう、映画としてはもの凄い強いカードなわけなんですね。なんですけど、それを、なぜこんなにも感情移入し辛い変な物語にするかっていう。あ、まぁ、そこですね。そこのところがポール・トーマス・アンダーソンと言えばそうなんですね。では、何がそんなに感情移入し辛いのかというと、出て来る人たちの性格が、まぁ、複雑なんですよ。

複雑というより特殊(普通ではない)って言った方が近いですかね。(各々、本人たちの中では筋が通ってそうなので。だから、その人の中ではシンプルということで、"複雑ではなくて特殊"なんです。これも、そのまま、この映画そのものを表してる様な言葉になりました。)で、その対人関係に特殊な傾向を持つふたりが出会うんですけど、どっちも譲らないというか、自分の生きやすい様に相手を変えようとする(というか、自分は普通で相手が異常だと思っている)ので、どっちがマウントを取るかっていう技の掛け合いみたいな話になって行くんです。なので、恋愛物として観てると(恋愛物なんですけどね、プロットというかストーリーは。さっきも書いた様にアルマがいかにウッドコックを振り向かせるかっていうのを延々やるので。)、この面白さはちょっと恋愛物の面白さとは違うなと感じるんですね 。アルマが段々とミッションをクリアしていってラスボス、ウッドコックを落とすまでを描く、例えば、ブルース・リーの「死亡遊戯」なんかを観てるみたいな気分になって来るんです。で、この主人公のウッドコックって人が、まず、問題ありなんですけど。この人がものっ凄い超〜繊細な人なんですね。(まぁ、アーティストと呼ばれる人には得てしてありますよね。感性が豊かなので。)で、+"俗物としての女性"に興味がないという。えーと、つまり、ウッドコックが女性のどこに惹かれているかというと女性としてのフォルムの美しさなんです。(と言っても、一般的に言われる様なモデル体型というよりは、自分の感性に合う美しさというか、もうちょっとフェティッシュな趣向なんですね。)なので、自分の理想の女性=自分のファッションのモデルということになるんですけど、ここなんです、恋愛対象としての異性とモデルっていうのが彼の中で分離してないからややこしいことになるんですよね。私生活と仕事が分離してないので。つまり、仕事上の"好き"と私生活の"好き"を同じニュアンスで使ってしまうんです。(でも、これはアート界では特に珍しいことではなくて、)そういう立ち位置にいる女の人のことをミューズというってことなんですよね。だから、そのミューズを見つけたかもしてないってことでウッドコックは熱心にアプローチするんですけど、いざ、その女性と暮らし始めるとどんどんその女性の俗物的なところが見えて来て、(食事の時に必要以上に音を立てるとか。普通の人にとっては別になんてことないことなんですけど、)とにかくウッドコックはクッソ繊細なので、ちょっとでも気に障ると、すぐに「もう、無理!」ってなるわけなんですよ。

でですね、この映画は、そういうこれまでの映画や小説などで語られて来た"芸術家"っていうやつを、アルマという視点を通して普通の感性で見てみるっていう事をやっていてですね。で、そういう特殊な暮らしぶりを普通の視点から見るっていうのは、コメディ映画的でもあるわけなんですね。このアルマって娘が、全然そういう芸術とか権威みたいなものに卑屈にならないので、あまり悲壮感がないというか、(さっき、「死亡遊戯」を例にあげて書いた様に)アルマの冒険物語の様に見えてくるわけなんです。で、ああ、そうか、そういう映画なのかって思って観てたんですけど、じつはこの後、(まぁ、これはネタバレになるので書きませんが、)今度はアルマの異常さが表面化して来るんですよ。だから、なんていうんでしょう、オシャレ映画だと思って観始めたら、途中からコメディになって、最終的にはホラーになっていくというか。で、なんですけど、このアルマの行動自体が怖いわけではなくてですね。えーと、アルマのこの行動を(それまでの恋愛の経験値から)何となく理解してしまっている自分が怖いというか。(見せられてるのは狂気の沙汰なのに理解出来ないことはないって感じです。)だから、アート映画とか、コメディとか、ホラーとか色々書きましたけど、最終的にはやっぱり恋愛の映画だったんだなということになるんですね。恋愛ありきの怖さというか、もっと言ってしまえば、"愛のある生活の怖さ(a.k.a 面白さ)"の映画だと思うので。

だって、これ、ファッション業界の奇才とか、その人に見初められたミューズみたいなシチュエーションで描かれているから、特殊な人たちのある特定のシチュエーションでしか起こらない悲劇みたいに見えてますけど、(そのふり幅の差こそあれ、)全然普通の家庭でも行われている夫婦の攻防だと思うんですよね。(だから、もの凄く狂ったことしてるのに、あんまり狂った様に見えないんです。特にアルマなんか。それぞれ異なる考え方で生きてきたふたりが、お互いの生き方を受け入れつつ一緒に生活するというのが恋愛のひとつの終着点なら、これって凄く普遍的な話だと思うんですよね。)そういう一般的な話をなぜこのシチュエーションにしたのかって言われたら、まぁ、それがポール・トーマス・アンダーソンだからってことになるんですよ。つまり、これが芸術家の感性ってやつです。(←こういうとこも自分で笑いながら作ってるんじゃないかなって気さえしてきますよね。)

あと、もうひとつ。この映画、名前というか名称が引っ掛かる映画だなと思ったんですね。ウッドコックとかアルマとかシリルって名前とか、ウッドコックの店名のハウス・オブ・ウッドコックとか、オートクチュールって言葉とか、タイトルの「ファントム・スレッド」も。その名前に物語が引っ張られるというか。ウッドコックの変態っぽさも、アルマの奔放さも、その名前に引っ張られてると思うんです。そう考えると、この映画にずーっと漂ってる儚さとか不穏さって「ファントム・スレッド」ってタイトルから来てるんじゃないかなと思うんです。つまり、ウッドコック(木で出来た男性器)とアルマ(アルマはラテン語では「滋養」、スペイン語では「魂」、イタリア語では「武器」を意味するそうです。つまり、形だけは完璧なものに魂を与えたり、それだけでは使えないものに滋養を与えたりするのがミューズの役割ってことですね。)の物語を「ファントム・スレッド(幽霊の糸)」で紡いだって話なんじゃないかと思うんです。(恋愛物を幽霊譚としてまとめましたみたいな。)恋愛っていう、好意が憎悪から呪いに変わって行く様が、概念としての幽霊のそれに近いと言いますか。この映画の登場人物たちが、その心の変化に気づいていないというのも、本人が死んだことに気づいていない幽霊って存在と似ていると思うんですよね。

http://www.phantomthread.jp/

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