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カンヌ、パルムドールを受賞した「万引き家族」です。様々な社会問題(貧困やそれに伴う格差であったり、そういう人たちがどうやって暮らしていけばいいのかっていうことなど)を扱っているということや、それに対する倫理的な考え方の議論などいろいろありますが、あの、まずは映画として単純にもの凄く面白かったんですよね。ありえない設定に説得力を持たせる演出、自然ともちょっと違う演技の凄み、子供たちの普通っぽさ、時間経過を人間関係の距離の縮まり方で見せる感じとか、あと、あの家、舞台になる家の迫力。(映画中盤で、その家の縁側に隅田川の花火の音が聞こえてきた時、それまで森の中の一軒家かの様にファンタジーとして見ていたその家が、急にリアリティーを帯びて来て、ちょっと怖かったんですよね。)そういうのひっくるめて「映画観たな〜」っていう満足度がとても高かったんです。是枝監督って、キャリアもあるしとても多作ですけど、ここへ来て、また初期の傑作、「誰も知らない」で受けた様な衝動を感じる映画を撮れるって、やっぱり、ちょっと凄いなと思いました。

どちかというと僕は現実主義者なので、物を考える時に重要なのは事実なんです。事実が積み重なったところに真実があると思っているんですね。僕が映画が好きなのは、いろんな事実の重ね合わせ方を見せてくれるからで。ひとつひとつの事実の重ね合わせ方でそれが奇跡の様に見えたりもする。だから、奇跡が起こったことに気持ちがアガるのではなく、それぞれは単なる事実だった物の積み重ね方が奇跡の様に見えるのが面白い。人は生まれて生きた果てに当然死ぬし、それとは何の因果関係もなく新しい命は生まれてくる。それだけだってことを教えてくれたのが映画だったんです。例えば、奇跡としか言いようがない事が実際に起こって、それを映画にする場合、奇跡を奇跡としか捉えずに単純に魔法が掛かった様な描き方をしたら、それはもう僕らの世界の話ではなくなってしまいますね。(実際にあったことを飛躍させて、本当に魔法に掛かった様な体験として表現するっていう映画的手法もありますけどね。SFやファンタジーがそれですが、それにしたって、最終的に真実に辿り着く時に事実をどうやって描くのかっていう問題で。そこに現実、事実が含まれてない物には共感出来ないですよね。大事なのは、奇跡の様に見える瞬間にたどり着くまでをいかに積み上げていくか。見る人を納得させるのはその緻密さなんじゃないかと思うんです。)で、是枝監督の映画の作り方って正にこれだなと思っていて。一見するとドラマがない様に見えるんですが、その1カット1カットが積み重なって行った時に、通底する意味とかテーマみたいなものが浮かび上がって来て、「ああ、そうか、僕らの生きている世界にこんなことが起こるのか。」っていう切実さを持つと思うんです。

で、是枝監督の場合、(というか、僕が好きな監督の中では他にもダルデンヌ兄弟やミヒャエル・ハネケなんかもそうなんですが、)事実を積み重ねることで浮かび上がってくるドラマで一体何を描くのかというと、(ここからちょっと複雑になりますよ。)"いくら、現実にドラマを見出したところで、そこにはやっぱり何もなくて、あるのは、どうすることも出来ない現実だけ。" っていうことだと思うんですね。えーと、つまり、映画でいくら奇跡を描いたところで現実を変えることは出来ないってことを、本来はただ目を背けたり知らないふりしてやり過ごしてる様な事実を使って、それをわざわざ奇跡の様に美しく描くことにより(それよりも汚い本当に忌むべきものは何なのかっていうのを)、見せているんだと思うんです。(だから、「映画は夢を見せてくれる物。常に解決作があっていい感じのところに落ち着く。映画でわざわざ辛い現実なんか描くわけがない。」なんて夢見がちなことを考えてる人には、「犯罪を描いてる映画は犯罪を推奨している。」なんてトンチンカンな考えが浮かんで来てしまうんだと思うんですね。まぁ、ちゃんと観れば分かることなんですけど。)

はい、で、正に「万引き家族」もそういう映画で、万引きをすること(つまり、貧困)で繋がっている家族の話で、血の繋がりのない人通しを繋げるものとして万引きというのが存在しているんですね(だから、この万引きというのがファンタジーであり奇跡の部分で、本当に見せたい現実っていうのはここじゃなくて、その裏側というか表側にあるんです。で、それが何なのかっていうのがこの映画が本当に言いたいことなんですよね。)。是枝作品は基本的にいつも家族の話なんですが、特に今回はこれまでの是枝作品の集大成的な作りなので、(これまで、「誰も知らない」に始まり、特に最近の3作「そして父になる」、「海街ダイアリー」、「三度目の殺人」と、様々ないわゆる"普通じゃない家族"を描いて来ましたが、)いよいよ犯罪で繋がっている家族っていうとこまで来たと言いますか、えーと、要するに、正論で届かない地平を描いてると言うか、正論(社会通念とも言えるかもですね。)からこぼれ落ちた人たちの話なんですよね。

僕はどちらかと言えば、法律というのは人間が生きて行く中で、それぞれが生きやすい様に作られて来たものなのだから、守っていれば、そりゃ、その方が生きやすいんでしょうよという考え方なのですが、そこからこぼれ落ちてしまう人というのが確実に存在していて。この映画を観ていると、「法律さえなかったら、この人たちのこういう生活の方が、人間として正しい生き方なんじゃないかな。」とも思えて来てしまうんですね。確かに万引きは犯罪で犯罪はダメなことです。(もちろん、この映画でもそう描かれています。)誘拐も犯罪で、それももちろんダメです。じゃあ、この映画のラストでリンちゃん(というこの家族の一員になる少女がいて、彼女は母親に折檻されて、真冬にベランダに追い出されているところを万引き家族の家に連れて行かれるんです。)が、ひとりで家の前の通路で遊んでるカットを見て、「これで良かった。」と言えるのかってことなんですよね(ここ、ほんとに近年稀に見る複雑な心境になるカットでしたね。悪いのは誰なのかっていうのが明確に言えないんです。)。そういう風に安易には答えが出ないことを禅問答の様に見せられ続ける映画なんですが、今回の作品で唯一ハッキリしていることがあって、それは、この万引きで繋がっていた家族よりも、血の繋がりはあるにせよ、子供に暴力を振るう様な家族の方が、日本の司法では正しいとされるってことなんです。それだけはハッキリしているというか、これが現実ってことなんです(この現実をじわじわと突きつけられるシーンが映画の後半にあるんですけど、ここの安藤サクラさんと池脇千鶴さんの攻防がほんと凄かったんですよね。そりゃ、ケイト・ブランシェットがパクリたいと言ったのも分かるって程のスペクタクル・シーンでした。)。血で繋がっていない人たちが万引きっていう犯罪で家族になるという奇跡を描きながら、法律っていう大正論で現実を見せつけられるという、まぁ、相変わらずの是枝節なんですけど、この家族は決して自分たちから遠いところにいる人たちではないというのも含めて、(ちゃんと働いてて全治一ヶ月のケガをしたのに労災も降りないんじゃ、「万引きくらいしなきゃ生きていけないわ。」って思う気持ちも分からないことないですよ。)優しい様でいてめちゃくちゃシニカルで、観終わった後に一生消えない傷を残される様な映画でしたが、奇跡の様に美しいけど現実の様に恐ろしいという、そういう2面性を映画も現実の社会も持っているっていうことなんじゃないでしょうか。

私事ではありますが、つい最近子供が生まれて、なんていうか、名前をつけるってことがとても重要な行為だなと感じたんです。「この子に、○○という名前の持つ意味を背負わせてしまった。」って(ちょっと怖くも)感じたと言いますか。で、そのことによって人の親になるという責任を感じたんです。そう考えたら、この映画、お互いをなんて呼ぶかっていうことに凄くこだわっていたなと思って。子供を自分たちの呼び名で呼ぶって決めることは、それはもう親としての責任を全うしようとする行為なんじゃないかと思うんです。だから、この万引きで繋がった親子は、そういう意味でやっぱり家族だったんじゃないかなと思うんですよね。

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