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ハッピーエンド

狂気ってどういうものなんだろうって考えた時に、"理解不能なエモーション"というのに思い至ったんですが、最近、一般的に言われているエモーショナルって言葉。感情的とか、何か熱いものを秘めた衝動とか、そこに愛情みたいなものが含まれるニュアンスがあると思うんですけど、そのエモーショナルの"理由が分からないバージョン"。これが狂気なんじゃないかと思うんです。(つまり、愛情や優しさや好意の意味不明な表現のし方と言いましょうか。)で、ミヒャエル・ハネケという人は、その人間の狂気をずーっと描いて来た人だと思うんですね。ということで、今回の作品なんですが、観終わった時にとうとう誰もが分かるシチュエーションで狂気を描いて来たなと思ったんです。なぜなら、この映画に出て来るお爺さんと孫娘の間には、確実に愛と友情が介在しているって描かれ方がされてるからなんですよ。ミヒャエル・ハネケ監督の最新作「ハッピーエンド」の感想です。

今までのハネケ作品に比べたら分かりにくいってことになるんですかね。狂気って観点で言うと。いや、でも、誰もが分かるシチュエーションで描かれてるってことは分かりやすいんでしようか。もう、僕の中では凄くキャッチーな映画ってことになってるので分かりやすいのか分かりにくいのかよく分からないんですが、要するに「ファニーゲーム」みたいな、シチュエーションからしてこれは人間の狂気の部分を描いてますよ〜みたいなサービス精神はないんですよ。(オープニングにネイキッドシティーの曲掛けて、いかにも「今から頭のおかしい話しますね。」みたいなエンターテイメント性はないんです。)つまり、どういう話なのかというと、「狂気というのは日常の至るところに混在していて、ただの日常を定点カメラで撮影しておけば一日にいくつかの狂気は写り込んで来るもんなんだ。」と。で、「それをあなたたちは気づいていないと思っているか、気づいていながらスルーしているかのどっちかだろう。」って言ってくるんです。なので、「いや、そんな、人間の狂気に気づいていながらスルーするなんて、いくらなんでもそんなに神経図太くないですよ。」って思うんですが、「じゃあ、SNSっていう人間が今まで見せてこなかった本心の部分をうかつにも曝け出してしまう悪魔の様なツールがあるから、それと併せてある家族の日常を見てみなよ。観たら分かるから。」っていう、そういう映画なんですよ。確かに今までのハネケ作品だったら、狂気の理由までは言及しなかったんですよね。 「なんでこんなことしちゃうの?」とか、「なんでこんなもの見せるの?」って時に、「それは人間の狂気の部分なんですよ。」ってそこで終わりだったんです。で、それを見せられた僕らの方も狂気っていうものが一体何なのか分かってないので、「なんだか人間がよく分からない恐ろしい状態になっているね。怖いね。」で済ましていたんですね。ただ、こういう時代になって、SNSを通して世の中を見てみたら「狂気なんて至るところにあるじゃん。」と。で、「そういうの、そろそろ気づいてるでしょ?みんな。」ていうのを問うてるのが、今回の「ハッピーエンド」なんだと思うんです。

えーと、例えばですね。この映画、少女がひとり登場するんですが、この子の両親は離婚していて、女の子は母親の方に引き取られているんですね。で、母親が精神薬を多量摂取して自殺を図るんです。一命を取り留めた母親は緊急入院するんですが、その間に別れた父親の家に引き取られることになるんですね。父親の家は裕福で、しかも、再婚して新しい妻との間に子供もいるんですが、それでも、その家では女の子を受け入れてくれるんです。でも、女の子は母親の飲んでいた精神薬を同じ様に多量摂取して自殺未遂を図るんです。でね、この流れは映画としてよく分かるんですよ。女の子が生きる事に絶望するのも一応理由があるんです。(だから、ちゃんと映画のストーリーとして成立しているんです。)で、この子がやってるSNSが出てくるんですけど、これもこれで分かるんです。こういうことをSNSで発信してる人いるよね(こういうことで精神の安定を保ってる人いるね)って感じなんです。だだですね、この子の実生活とSNSで発信していることを併せて見るみると、急に狂気じみてくるんですよ。今までのハネケ作品だったらここで終わってると思うんです。人の狂気が噴出したところで。(「人間ってよく分からないわ」っていうのを狂気のせいにしてたと言いますか。)で、じつはここから更に一歩踏み込んでるのがこの映画だと思っていて。

何が踏み込んでるのかというと、女の子のおじいさんが出て来るんですけど、このおじいさんは既にボケてるのかわざとなのか、(女の子の存在もなかなか認識しないし、)あんまり、もう、周りで起こってることに興味がない感じなんですね。これはどういうことかというと、おじいさんは既に生きてることよりも、死に対しての方に興味がある様なんですよ。(簡単に言ったら、早く死にたいと思っているんです。あ、で、これ、監督の前作「愛、アムール」のそこはかとない続編になっているので、「愛、アムール」観ておくと、おじいさんに対しての理解度がそうとうアップします。あ、でも、この映画観てから「愛、アムール」観るという順番でもいいかもです。)で、そのおじいさんにですね、さっきの女の子が出会うことによってですね、女の子の中にあった狂気としか言い様がなかった”何か”が一体何を発端に湧き上がって来てるのかが何となく分かってくるんです。(明確な答えのないことの話をしているので僕自身あいまいなんですが、僕はそう思ったんです。)つまり、この子にとっても死は生よりも価値があるものとして成立しているってことなんですね。(この子にとって、なぜ死は生よりも価値があるものになってしまったのかっていうのは、そっちの解釈でストーリーを読み進めていけば理解出来ることなんでしょうけど、この映画の中ではそれはどうでもいいことになってるんですね。つまり、そっちに行かないのがハネケなんです。)で、その死の方がいいじゃんていうのを理解してくれる相手としておじいさんが登場したと思っていたんですが、じつはこれも逆で、もう死にたいということを分かってくれた上で、ただ見送ってくれる相手にやっと出会えたおじいさんという視点の話だったんですね。(この視点の逆転はとてもスリリングでした。)だから、最後に愛ある(いわゆる)同士に出会えて物語が終わるという意味での「ハッピーエンド」であり、また、もうひとつ。「幸福な死」という意味での「ハッピーエンド」なんじゃないかと思うんですよね。(ハネケ監督のつけるタイトル、いつも皮肉だと言われてますけど、個人的には「ファニーゲーム」にしたって、「愛、アムール」にしたって、そうとう直接的なタイトルだと思います。)だから、僕はラストシーンそうとう爽やかな気分で観ました。(ちょっと泣きそうなくらい。で、それを全く理解出来ない他の人々というのを、ラストカットでおじいさんの命を救おうとする息子たちっていうので表してるんですけど、あの時の女の子を見るイザベル・ユペールの正に困惑って表情最高でしたね。)

女の子のいとこでピエールって人が出てきて、そのピエールがいわゆる他人がスルー出来る狂気とスルー出来ない狂気を越境する(つまり、だんだん狂っていく様を見せてくれる)役なんですけど、スルー出来る狂気のぎりぎりの境界線が、カラオケで周りが引くくらい熱唱するっていうの、あれ、めちゃくちゃ良かったですね。(最初笑って見てるんだけど、途中から「あ、やばい。」っていうのにみんなが気づいて行くっていうのをワンカットで見せてくれるんですよ。)で、そのピエールの母親(つまり、女の子の父親の姉です。)役が、 去年の個人的ナンバー1映画だった「ELLE」のイザベル・ユペールさんなんですが、みんな狂ってる中でひとりだけまともなこと言う人っていう「ELLE」と全く同じ様な役どころで、これももの凄く良かったです。

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