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Tribe Called Discord:Documentary of GEZAN

バンドに関する全てのことをメンバーだけで決定する(日本では珍しい)本当の意味でのインディーズを体現するロックバンドGEZANのアメリカ・ツアーを追った映画なんですが、ライブの評判や(Shellac、Big Blackなどのメンバーであり、NIRVANAの「イン・ユーテロ」などのレコーディング・エンジニアとしても有名な)スティーヴ・アルビニとのレコーディング(これもメンバーが個人的にアルビニにメールを送り実現したとのことです。)等のトピックを排除し、とある出会いに焦点を当てて作られた音楽ドキュメンタリー映画「Tribe Called Discord:Documentary of GEZAN」の感想です。

えー、ありがたいことに試写会に招待してもらって公開前に観ることが出来てたんですが、いよいよ一般公開ということで、このタイミングで感想を書いてみようと思います(と思ってたんですが、だいぶ時間が掛かってしまいました。すいません。)。あの、まずGEZANを知らないという人、特に音楽(というか、パンクとかハードコアとか、アンダーグラウンドで活動しているバンド)に興味がない人は知らない人も多いと思うんですけど、そういう人が観たら凄く面白いと思うんですよね。全くの未知の世界を覗けるというか、ディストピアSFを観てる様な気分で観られるんじゃないかと思うんです。あの、僕もバンドをやっていて海外ツアーにも行ったことがあるので、ある程度こんな感じのことが描かれるんだろうという予想はしていたし、彼等の前回のアメリカ・ツアー時の(正に、その真っ只中にSNSを使って流れて来る)ツアーの道中の動画も観ていたし、今回のツアー中に書かれた(ボーカル)マヒトゥ・ザ・ピーポーのブログなども見ていたので(しかも、今回はスティーヴ・アルビニとのレコーディングという特大トピックもあるわけですから。)、いわゆるバンドの海外ツアーの道行を描くっていうだけでそれなりに面白いものにはなってたと思うんですね。で、僕も試写会の時はそういうものを期待して観に行ったわけです(あのアルビニとGEZANのメンバーがどういうやりとりをしてレコーディングに挑んだのかみたいなことを。)。そしたら映画は、そういう、なんて言うか、GEZANていう今イケイケの若手ロックバンドの勢いに乗っかって一緒に夢見させてもらおうとか思っていたこちらの期待というか願いみたいなものを完全に無視して、ほんとに思いもよらない方向に進んで行ったんですよね(ただ、だからこそ、これは映画になったと思うんですけど。)。

もちろん、最初は日本を飛び立つGEZANのメンバーが映り、アメリカの地に着き、レンタカーを借りて会場まで行きライブをするっていうね、よくあるインディーズ・バンドのライブ・ドキュメンタリー的な空気感で始まるんですね。で、最初のライブ会場がいきなり完全なひとんちの庭だったりして(こういうのもアンダーグラウンドのバンド事情を知らない人が観たら面白いと思うんです。)、海外ツアーによく行ってる友達の話や向こうのバンドのライブビデオなんか観てると出て来る光景ではあるので「ああ、ほんとに普通の家でライブしてるんだな。」みたいに思って観てるわけですよ。「しかし、単なるバンドマンが庭付きの家に住んで、そこで爆音のライブしても苦情も来ないって(実際には警察が来てましたけどね。)、海外と日本の文化水準とお家賃事情の違いに驚愕するな。」とかね。思って観てるわけです。で、GEZANのメンバー達も、その自分たちが憧れてやってる音楽がほんとに地域に根ざした形で日常として鳴らされてることに感動してたりして。観てる僕らも「ああ、バンドマン憧れの生活がここにはあるんだな。」と思って、ちょっとほっこりしたりもするんです。ただですね、なんかちょっと違和感があるわけですよ。んー、何ていうか、まぁ、知ってるわけですよ。こういう光景は。ぶっちゃけ、別に特別なバンドじゃなくても普通に海外ツアー(いや、日本国内だったとしても違う土地にライブし)に行ったら、例えば、東京じゃ考えられない様な仕様のライブハウスがあったり、その土地のバンドとの触れ合いの中でそういう文化の違いみたいなものは感じたりするもんなんですね。だから、そんなに珍しいことではなくて。つまり、バンドが違う土地にライブしにいったら感じる普通のことを見せられてるわけなんですね。ここでは。で、そうなると、そこで引っ掛かってくるのが映画のコピーなんです。「出会ってしまった意味を知りたい」っていう。

そもそも、映画を観る前からバンドのツアー・ドキュメンタリーで「出会ってしまった意味を知りたい」はセンチメンタル過ぎるだろと思っていたんですね。ツアーに出てライブをするというのはバンドにとっては日常のひとつなわけだし。しかも、自分たちがやりたいからやっているわけで。嫌だったらやらなきゃいいだけの話なんです。その中で出会いがあったり別れがあったりするのは当然で。やもすれば、それは自分たちが望んでやってることだったりするわけです。だから、特別な出会いがあるとすれば、それはレコーディング・エンジニアのアルビニとの出会いなんですけど、アルビニとはビジネスで会うわけだし、メンバーとは同じ目的を遂行する為に出会っているのだから出会う意味ははっきりしてるわけですよね。そう考えるとどの出会いに対しても「出会いの意味を知りたい」っていうのは大げさじゃないかなと。ちょっと訝しい気持ちになるんですね。で、もうひとつ、神谷亮祐監督本人のナレーションで映画が進んで行くんですけど、これも僕は、見てたら分かるツアーの映像に監督のひとり語りいるかな?と思ってたんです。そしたらですね、これが計算なのか何かに引寄せられる様にそうなって行ったのかは分からないんですが(いや、これ、偶然そうなってる様に見えるのが秀逸だって話で。計算して構成してるからこの映画が言いたいことが誰にでも伝わる様になってるわけで。えー、つまり、ここが正しく映画だなって思ったとこなんですけど、これ)、全部、このあと起こることへのフリになってるんですよね。しかも、映画はこのあと(バンドのドキュメンタリーなのに)どんどん音楽から離れて行くことになるんです(これがとても刺激的で面白かったんです。)。

えー、なぜ音楽から離れて行くのかっていうとですね、このツアーでGEZANのメンバーは泊まるところを特に決めずに行くんですね。それでどうするかというと、その日、ライブ会場などで知り合った人の家に頼んで泊めてもらおうとするんです。日本国内のツアーであれば、まぁ、ない話ではないんです。打ち上げなんかして朝方にその日対バンしたバンドのメンバーの家に転がりこむとかね。割とそれで何とかなったりするんです。ただ、それがアメリカで通用するのかと思っていたら、結構すんなり泊めてくれるんですよね。みんな。で、これって、GEZANのライブを観てその音楽を共有したことでそうなってる様に感じるんですね(はい、ここもフリになってますよ。)。だから(特に音楽のそういう側面というか共有する何かがあるっていうのを実際に感じたことがない人は理解するの難しいかもしれないですけど)、こういうとこ見てると「ああ、いいな。」って感じるんですね。音楽は国境を越えるじゃないけど、言葉ではない何か通じるものがここにはあるんだなって思うんです。つまり、なぜ映画が音楽から離れて行くかというと、ツアー先で出会った人たちの生活を中心に描く様になって行くんからなんです。で、ある時ライブをブッキングしてくれた人の音楽仲間が集まっているスケートパーク(スケボーやインラインスケートなんかが出来る場所です。)に行くんですけど、そこは、まぁ、言ってしまえばいわゆる底辺にいる人たちが集っている様な場所で、貧困に喘いだりドラッグに身を落としてしまっている人なんかもいて、かなり、鬱々とした気分になるシーンなんですね。観てても。ただ、ここの人たちは音楽とスケボーで繋がってるみたいなところがあって、それが彼等の救いになっている様なんですね。GEZANのメンバーも、この場所でアメリカの知らなかった一端を見て何とも言えない気持ちになるんですけど、このシーンのすぐあとに挿入されるその日のライブのGEZANの音楽はとても力強く希望に満ちて聴こえるんです。音楽で救われることがあるってことを音楽を鳴らすことで体現してる様な感じです。つまり、GEZANのメンバーたちが、自分たちが音楽をやる意味を確信するってシーンになっていて、観てる僕たちも非常に解放されるシーンなんです。で、こういう瞬間が撮れたら音楽ドキュメンタリーとしてはそこで終わりでもいいと思うんですよね。音楽が存在する理由が証明出来てるわけなんで。ただ、この映画ここで半分くらいなんですよ。しかも、この映画が言いたいことっていうのが、実際はこのシーンで語られてることとは間逆のことだったりするわけなんです。

はい、というわけで、このあとどんな出会いがあって何が起こって映画が音楽から離れなくてはいけなくなるのかは実際に映画を観てもらった方がいいと思うんですけど、ひとつだけ言っておきますと、映画はこのあと音楽の完全なる敗北を描くんです(ここを描いてるから、これは映画になってるんだと思うし、スケートパークの日のライブを喜々として映していた監督が、この日のライブはマヒトがステージに倒れてる1カットだけを使って、曲を全く流さないという編集にしてるのも凄く良かったです。)。で、その敗北を背負ったまま日本に帰って来て(GEZANが主催している音楽フェスの)「全感覚際」のシーンになるんですけど、ここは観る人によってどう感じるかはそれぞれの様な気がするんですよね(たぶん、どっちにも取れる様に作ってるんじゃないかと思います。)。GEZAN以外の出演者のライブはとてもさわやかで、とにかくGEZANが用意してくれたステージが最高でそこで演奏することが至上の喜びっていう感じに見えるんですね。だから、抱えて来た全ての悩みや傷を音楽で内包してこのまま先に進むぞという風にもとれると思うんです。ただ、最後に出て来たGEZANのライブに僕は全くさわやかさを感じなかったんですよね。何か不満というかやり切れなさを感じて。あの、僕は東京のライブハウスで働いていて、そこに、まだ大阪から遠征に来てた頃のGEZAN(当事は”下山”ですね。)が出てたんですけど(彼等とはその時に知り合ったんですけど。)、その頃のGEZANのライブっていうのが、自分たちの目指すところはまだまだ上にあるんだけど、そこに届いていないっていうジレンマをそのまま音に変換した様な(いや、音に変換さえも出来てなかったのかな。何度か途中でメンバー同士でケンカになってライブ中断、そのまま終了なんてこともありました。)ライブだったんですけど、じつは、この「全感覚際」でのライブ映像を観ていて、その時のことを思い出していたんですよ。もちろん、ケンカになって中断なんてことにはならないんですけど、あの頃のジリジリした感じ、メンバーひとりひとりが「まだ、ここじゃない。」ていうか、「ここまでは届くんだけどな。」って思いながら演奏してる様に見えたんです(だから、あの頃「もっと上へ。」と思っていたことが、今は「もっと遠くへ。」に変わったんじゃないかと思うんです。)。で、僕はこの“感じたことに安易に答えを出さない”終わり方が凄く良かったなと思うんです。

はい、ということで、単なる日本のオルタナバンドのツアー・ドキュメンタリーだと思って行ったら、若者がある出会いから世界の一端を知ることになり、それによって信じてたものが一度無になるという。うーん、青春というには重過ぎて、人が生きるうえでの哲学を問われてる様な、そういう、やっぱりディストピアSFの様な映画でしたね。ただ、ちゃんと音楽映画でもあったと思います。「音楽は無意味だ。」ということを受け止めた上で、それでも「なぜ、やるのか。」ってことを考える。そんな映画でした。(で、じつはあえて外してたんですけど、ここに書いたことと併走して神谷監督を軸にしたストーリーもあるんですね。それは是非映画で観て貰いたいんですけど。この監督側の流れを観てると、いろんな偶然が重なってあのラストに偶然辿り着いた様に見えるんですよね。そこがやっぱり凄いなと思うんです。)


http://gezan-film.com/

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