見出し画像

Diner ダイナー

エグい残酷描写と人間の闇の部分をエンターテイメントとして描かせたら一番じゃないでしょうか。(怖いというよりは)厭な話の第一人者、「メルキオールの惨劇」や「独白するユニバーサル横メルカトル」の平山夢明さんの(比較的ポップめな)原作を、「ヘルタースケルター」の蜷川実花監督が映画化した「Diner ダイナー」の感想です。

えー、蜷川実花監督の映画は前作の「ヘルタースケルター」を観てまして(「さくらん」も観たかもしれませんが忘れました。)、拘りというかそうとうクセが強い監督だということは知っていたので(良いか悪いかは別として)、恐らく平山夢明さんの原作を蜷川監督が撮ったらこんな感じになるんだろうなというのは(テレビの情報番組に監督自ら出演してバンバン宣伝してたことや、あれだけの原作なのにR指定がひとつもないことなどからも)ある程度予想はついてたんですね。で、観たら、まぁ、想像通りだったわけなんですが。もの凄く雑に言えば、人間の本質的なエグさを描いたホラー小説が、少女漫画的妄想と荒唐無稽なアクションによる少女の成長物語になってたってことなんですけど(エンターテイメントに寄せたって言われればそうなんですが。)、では、それが原作と全く別物なのかと言われればそういうわけでもなくて。確かに主人公カナコの成長物語という要素はあるんです。ただですね、原作にはあったカナコが成長する(というか変わる)為に必要な要素っていうのが映画ではなくなってしまってるんですよね。だから、映画の中のカナコはなんで変わったのかがイマイチ見えてこないんです。

では、映画がなくしてしまった部分ていうのが何かってことなんですけど、その前にストーリーの話をしますね。玉城ティナさん演じるオオバカナコっていう女性が主人公で、闇サイトで見つけた運転手のアルバイト(日給30万円)に応募して犯罪に巻き込まれることになるんですね(そりゃそうだろって金額ですが、カナコは半ば生きることに絶望してるというのが前提としてあるので、ある意味何か変化を求めて応募したというのもあるんです。)。で、捕まって拷問されるんですけど、殺されるか誰かに身売りされるかってことになるんですね。生きることに絶望していたカナコだったんですが、犯罪の首謀者のふたり(カウボーイとディー・ディー)がメチャクチャな殺され方をされるのを見て、「死ぬのは構わないけど、こんな殺され方で死ぬのは嫌だ。」って思うんです。それで、助かりたい一心で言った「料理が出来ます。」という一言であるダイナー(食堂)にウエイトレスとして買われることになるんですが、そのダイナーというのが客が全員殺し屋の人殺し専用のダイナーだったんです。しかも、店主で料理人の(藤原竜也さん演じる)ボンベロは更にヤバイ、伝説と言われる殺し屋だったという。つまり、カナコは拷問で殺されることからは免れたものの、ここでもまた死の圧迫感に付きまとわれることになるって話なんです。だから、この物語で描かれている恐怖って"死の恐怖"なんですね。で、"死の恐怖"っていうのは、自分が誰からも必要とされなくなる(つまり、生きている意味がなくなる)"喪失の恐怖"でもあると思うんですけど、それを食事を提供するという人間の根源的な"生の象徴"としてのダイナーと対比させて描いてるのがこの物語だと思うんですね。で、"喪失の恐怖"っていうのは普段の生活の中でも(失恋とか仕事クビになるとかで)普通に経験することなので、そういうことで容易に想像出来るなとも思うんですけど、その"死"そのものの残酷性とか痛みを出来る限り詳細に現実のものとして描くことで、本来の意味での自分自身が無くなるっていう恐怖、それを描いてるのが原作の面白いとこだと思うんですね。カナコが最初の拷問シーンで「死にたくない。」と思うは、要するに「"死"舐めてました。」ってことなんですよね。本来の意味での"喪失"がどれだけ恐ろしいかっていう。そこに気づくっていう場面なんです。で、映画がカットしてしまっているのは正にここだと思うんですよね。" 喪失することの恐怖 "。映画でも(殺し屋の話なので)もちろん人はバンバン死ぬんですけど、その " 死 " というものがほんとに惨たらしくて怖いこととして描かれているかというと、そういう風には描かれてないんですよね(まぁ、R指定なしなんで正直絵として怖いところはひとつもないです。)。

では、この映画で"死"がどう描かれているかというと、"美しいもの"として描かれるているんですね(いや、ていうか全てが美しいものとして描かれていて、"死"もその美しい世界のオプションみたいな扱われ方なんです。)。あの、平山夢明さん原作の映画で2016年に公開された「無垢の祈り」って映画があるんですけど(これもとにかく厭な話なんですが。)、その中に殺した相手の遺体から背骨を抜き取るっていう、ちょっとほんとに常人では思いもつかない様な殺し方(このアイデアだけでそうとうアガりますけど。)をする殺人犯が出て来るんですね。で、この話はこういう目を背けたくなる様なシーンの連続なんですけど、その中でこの殺人犯の場面だけが何か推敲なものとして描かれていてですね(タイトルの「無垢の祈り」っていうのはこの殺人犯のことを指してるんじゃないかと思ったくらいで。)。見た目にはもの凄くグロいし倫理的にもありえないんですけど、それを美しいと感じてしまうという。平山夢明さんの話にはこうやって価値観が反転してしまうっていう恐怖がよく出て来るんですが(今回の「ダイナー」もそういう話だと思います。)、その反転を自分の中で認めてしまった(人が殺されることが美しいと感じてしまったりということです。)時にもの凄くハッとするんですよ。自分の中にないと思っていた感情を引き出されるので。で、そういうところが今回の映画には描かれてないと思うんですよね。例えば、今回の映画で人が死ぬ時に血しぶきではなくて花びらが舞うんですけど、これって「無垢の祈り」の殺人犯の美しさとは真逆の表現だと思うんです。じつは厳然と存在する人間の残酷性とかグロテスクさを見つめるのではなく、それを端から無いものとして単純に美しいものと差し替えてしまう。もちろん、何でもかんでもそのまま描くことが正解だとは思わないですけど、死を現実として描くことで成り立っている物語を映像化するのにそれを現実として描かないというのは、やっぱり作品世界の矮小化じゃないかなと思うんですよね(特に今回の「ダイナー」なんかは死のリアルさってところの一点で現実と繋がってる様な話なので。正にそここそがスリリングなとこだと思うんですけどね。)。

「無垢の祈り」の中にも、主人公の少女が義父に悪戯されるってシーンがあって、そこはさすがにそのまま表現するには辛過ぎて、監督の倫理感としてどうしても描けないってなったらしいんですけど、少女の代わりに黒子が操る人形が陵辱されるのを少女本人が部屋の隅から俯瞰的に見るって演出に変えられたんですね。要するに表現がソフトになってるんですけど、このシーン、こうやって改変されたことによって事実としての義父の気持ち悪さや残酷性が増してるのに加えて、陵辱されてる間は無意識的に感情をシャットアウトしているっていう少女の悲しみまでをも掬い上げることになっていて、事実をそのまま描写するよりも表現の幅が広がったものになっていたんです。だから、死を直接描かなくてもそれと同等(もしくはそれ以上)の表現をすることは出来たと思うんですよね(もしかすると蜷川監督は事実とか真実ってことに興味がないのかも知れませんが。)。

ということで、割とボロカス書いてる様に見えますが、(オチにガクッと来たくらいで)観てる間は割と楽しかったんですよね。良かったとこいくつかあります。まず、玉城ティナさんかわいかったですね。じつは原作のオオバカナコって30歳のバツイチ女なんですね(もちろん、である事にちゃんと意味はあるんですけど。)。映画的な惹きとしては玉城さんがヒロイン的役割をするのはアリだと思いましたし、それが映画の世界観を壊さずにちゃんと成立してると思いました(玉城さん自身の存在感も凄いなと思いました。)。あと窪田正孝さんが演じたスキンっていう殺し屋、これが(男性の僕から見ても)とにかく美しくてですね。ほんとに2次元の世界のキャラクターみたいで。殺し屋専門のダイナーっていう荒唐無稽な世界に入り込む為の説得力のひとつになってたと思うんです。で、もうひとつはダイナーの装飾。これなんかは、要するに蜷川監督のいつもの美術と言われればそうなんですけど、意外とハマってたというか、ゴージャスでありつつアンダーグラウンドさもあり、虚構と現実の狭間にいる様な気分にさせられたんですよね(あ、一点だけ。扉が「悪魔のいけにえ」に出て来た様な鉄製の重そうな扉だったら好みとして完璧でした。)。えー、だからつまり、蜷川監督のもともと持ってるセンスとか趣味的にハマったところは良かったってことなんです。そう考えれば、みんなが思う藤原竜也さんだったし、みんなが思う真矢みきさんだったし、そこからハミ出さないいつも通りの蜷川映画が好きって人にとっては満足の行く作品だったってことなんじゃないかなと思います(それならば、蜷川監督は原作のどこにグッと来て映画化したいと思ったのかという疑問は残りますが。)。

http://wwws.warnerbros.co.jp/diner-movie/

#映画 #映画レビュー #映画感想 #映画コラム #ダイナー #平山夢明 #蜷川実花 #藤原竜也 #玉城ティナ #窪田正孝 #厭な話

サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。