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ブラック・クランズマン

アフリカ系黒人とユダヤ系の刑事がKKK(クー・クラックス・クラン 白人至上主義団体)に潜入捜査を行うというマンガの様な実話をほんとにマンガの様に描いたスパイク・リー監督のブラック・コメディ「ブラック・クランズマン」の感想です。

一昨年公開されたジョーダン・ピール監督(今回の「ブラック・クランズマン」では製作で参加してますね。)の「ゲット・アウト」、差別される側の恐怖をホラーとして描いた傑作で、コメディの要素もあるんですが、じつは、個人的には今まで観て来たどの映画よりも差別される側の感じてる理不尽さや恐怖感なんかをダイレクトに感じられた映画だったんですね。ともすれば差別の問題をホラーにするなんてと意識の高い人には怒られそうですが、これこそ文化の成熟だと思うし、かなり好きな作品だったんです。で、この「ブラック・クランズマン」も予告を観る限りそういう話だろうなと。だって、そもそもスパイク・リーという人は、この手のテーマが流行るずっと前から差別や貧困をコメディとして描いてきたわけですし、いよいよ大本命という気持ちもあったわけなんです。で、あの、今年のアカデミー賞で「グリーンブック」が作品賞を獲ったじゃないですか。「グリーンブック」も差別がテーマの実話の映画化で黒人と白人のバディ物でもあるし、「ブラック・クランズマン」と対になる様な(ぶっちゃけ、「グリーンブック」が作品賞候補であるなら「ブラック・クランズマン」もその土俵に上げるべき)映画なんですね。(「グリーンブック」の感想は次で書きます。)で、観てみて、「いや、作品賞は『ブラック・クランズマン』だろう。」というのと、「ああ、これはアカデミー作品賞は無理だわ。」っていうのの両方を感じたんですね。(ただ、まぁ、どっちにしても無難な方に作品賞獲らせたなとは思うんですけどね。この無難というのは思想的にという意味ではなく映画の作りとしてという意味です。思想的には同じ様なことを言ってる映画だと思いました。)

えーとですね、「ブラック・クランズマン」、ブラック・コメディとして完璧だと思ったんです。KKKとブラックパンサー(黒人解放を掲げる政治組織)ていう差別する側される側の両方の主張を見せながら、その真ん中にロンとフリップというある意味中立(というかあまり現実を分かってない)ふたりを置いて、そのふたりを各々の組織に潜入させることでその主張のおかしさ(" 笑える "ってのと" 変 "ていうのの両方ですね。)を浮き彫りにしつつ、でも、それが現実なんだぜってことまでをきちんと感じさせるっていう。で、最後は笑いに着地させながらちょっとした不穏な空気も漂わせて。しかも、それがちゃんと今の時代へのメッセージにもなってるんですよね。めちゃくちゃ高度じゃないですか。最高だなと思いながら観てたんです。そしたらですね、最後の最後にそれらをあえてぶち壊すかの様なあるシーケンスが入って来たんですよね。

ただ、そのシーケンスが入ることによってリー監督が言いたかったことが嫌と言うほど、ほんとに目を背けたくなるくらい明確に分かるってことになっていてですね。つまり、この挿入されたラスト・シーケンスこそが映画そのものだっていうメッセージだと思うんですけど。そこ以外の部分があまりにも良く出来ているのでぶっちゃけそれがなくても、いや、むしろない方が映画としての完成度は高いんじゃないかと。そう言う人の意見はもの凄く分かるんです。だから、それでも入れたのはなぜかってことなんですよ。個人的にはそのシーケンスを観た時に、それまでのストーリーを全部忘れてしまうくらいの衝撃を受けたので(まぁ、だから賛否両論なんだと思うんですけど、)肯定派ではあるんです。極端なこと言えば、これがあるからこそスパイク・リーの映画になってると思うんですね。(今回の映画化の話、もともとジョーダン・ピールに来た話を、ジョーダン・ピール自身がスパイク・リーのほうが相応しいと言ってスパイク・リーに振ったらしいんですね。もちろん、その判断は正しかったと思いますし、そういう意味でも徹底的にスパイク・リー作品たらねばならなかったんだと思うんですよね。きっと。)

はい、ということで、まずはその黒人とユダヤ人の刑事がKKKに潜入するっていうありえない(けど実話の)潜入捜査物サスペンスの部分なんですけど、例えば70年代の刑事物とかでこういう荒唐無稽(実話だけど)でコメディ・タッチのドラマってありましたよね。作りとしてはあれに近いんですね(だから、どっちかというとファンタジーな作りなんですよね。劇中でブラックスプロイテーション映画のことを「あれはファンタジーだ。」って言うところがあるんですけど、正にこの映画も差別っていう圧倒的な現実を描くって上ではファンタジー的ではあるんです。)。だから、普通だったら"実話"ってところを強調すると思うんですよね。こういう「え、これって実話なの?」って話の場合。それを架空のストーリーの様に描いていて。そういう意味で「ゲット・アウト」とか、例えば「ゾンビ」みたいな裏に社会問題を併せ持つファンタジーの様に見えて来るんです。で、それが現実を炙り出す為の装置の様にもなっていて。これってB級映画の作劇法を使った現実の描き方なんだなと思ったんです。

なので、コメディとしては、ロンとフリップ(このユダヤ系の刑事をアダム・ドライバーが演じてるんですけど、アダム・ドライバーいつも良いですけど、今回特に良いです。)といういわゆるダメ刑事を真ん中に置いて、それと対比させてKKKとブラックパンサーの熱さというか真剣さを笑うって構図になってるんですね。こういうただでさえシリアスな問題を笑いのネタにしてる(個人的にはシリアスな問題を笑いものにするの好きなのでかなり面白かったんですが)ところに時々、(差別してる側されてる側両方の行き過ぎな思想によって発生する)本気の狂気(例えば、あの男性上位のKKKの中で自分もなんとか認められようと暴走するおばさんとか。)があぶり出されて来て、(その爆弾事件自体は映画用に作ったフィクションらしいんですが、そこへ至る思考がですね。)「あ、これ現実じゃん。」てなってマジで怖くなるんですけど。そのリアルなエグさ(ノンフィクション)とゆるい笑い(フィクション)の両方に振れながら物語が進んで行って、ラストでKKKとブラックパンサーっていう点として描かれて来たものがロンとフリップによって繫がるっていう(しかも、そのシーンが超サスペンスフル。)ほんとに見事な構成になっていて、映画としては最高にスカッとする大団円を迎えるんですけど、この後に例の全てをなかったことにする身も蓋もないシーケンスが入って来ることになるんです。で、ここまではこの映画って、(冒頭の「風と共に去りぬ」とか「國民の創生」なんかも含めて)フィクションの中の真実を描こうとしてたと思うんですよ。たぶん、スパイク・リー監督もその構造で描いて来たんだと思うんです。なんですけど、最後にあのシーケンスを入れるってことは、その構造を頭からなかったことにする様な行為なんですよね。つまり、自分で作り上げてきたものへの否定ですよ。それを最も作品のことを分かってる監督自身がやったってことは?ってことだと思うんです。

なんというか、映画の冒頭で「これはマジの実話だぜ」って言ったじゃんてことだと。いくらコメディに仕立て上げたって現実はこんなに絶望的じゃないかと。無類に面白いもの見せられて笑ってたら「はい、今、笑った人。」って言われてる様な。「簡単に見せられたもの信用するなよ。」って言われてる様な。うーん、黒人の差別に対する現実っていうのを正に身を切る様な思いで、映画自体(これは今回の「ブラック・クランズマン」だけではなくて、これまでのアメリカ映画の全て)を破壊することによって見せてくれたんだと思うんです。で、同時にそれでもめちゃくちゃ面白くてワクワクするコメディでもあるっていう。正に映画ってこういうもののことを言うんじゃないかって思ったんですよね。

https://bkm-movie.jp/

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