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映画冒頭から宇宙空間へ投げ出されるまでの17分間をワンカットで撮影したSF映画「ゼロ・グラビティ」のアルフォンソ・キュアロン監督が、メキシコのローマ地区を舞台に自らの幼少期を半自伝的に描いたヒューマン・ドラマ(って言うとちょっと違和感ありますね。もっとフラットな印象だったんですよね。純ドラマというか。)「ROMA / ローマ」の感想です。

個人的には実質アカデミー作品賞はこれじゃないか(というくらい好きな映画になりました。)と思ってるんですが、もともとはネット配信サービスのNetflixのオリジナルドラマなんですね。だから、まぁ、劇場公開されてないって経緯があってのノミネートってことで。監督賞と撮影賞を獲ってて外国語映画賞っていうお茶の濁し方にしてるってことは、まぁ、推して知るべしなんですけど。更に、製作も脚本も撮影も編集も自分でやって、ごくごく個人的な家族の話を映画にして沢山の人から共感を得てるということは、これはもうキュアロンが凄いってことじゃないですか。なんですけど、そう言われると「あれ、キュアロンてそんなに作家性のある監督だったかな?」と思うんですよね。確かにクセは強いんですけど、どちらかというと、撮影の仕方とか映像のインパクトの方のいわゆる映像の人ってイメージで。キュアロンの名を一躍有名にした「ゼロ・グラビティ」だって、ワンカットで描かれた宇宙空間のインパクト(あと、地獄から蘇った様なラストシーンのサンドラ・ブロック。)は凄まじかったんですけど、「ストーリーは?」ってなると映像のインパクトに引っ張られてよく思い出せないみたいな。そういう印象の監督ではなかったかなと思ったんです。(キュアロン監督の作品全部観てるわけではないのでなんとも言えないんですが、僕が観たいくつかの印象ではそうだったんです。)

だから、一体どんなバランスの映画なんだろうと思っていて。映像主導型のイメージと手放しで賞賛されてる感じがあまり一致しなかったんですね。で、観たんですけど、なるほど、確かにキュアロンというのはこういう監督だったなと。えーと、なんて言うか、ほんとはもの凄く色々なことが起こっていて、それに呼応する様に伏線なんかもめちゃくちゃ張られたストーリーがあるんですけど、それをそう見せないと言いますか。登場人物同士の関係性とか、その中の誰かに寄り添って物語を展開したりってことをしないんですね。(それは映像上でもそうで。登場人物をアップにして表情で話を展開するみたいなことをほとんどしないんです。)いや、してはいるんですけど、それよりも強調して描かれてることがあって、例えば画面の中の人物の位置関係とか、風景の中に映り込む建物の空気感とか、あと、画面の外側(カメラが撮っていないところ)で行われることへの想像の余地とか、そういうことがストーリーを紡いでいってるんだと思うんです。(この映画のオープニングとエンディングが正にそれで。オープニングでは床に撒かれた水に映ることで見えていた空とそこに飛ぶ飛行機が、エンディングではどういう見え方をしていたかとかってことです。)で、それは登場人物の誰かひとりに感情移入をさせないってことなんですけど、そうすることで、その家族に起こる事案と社会的な事件を等価値に見せてるんだと思うんですよ。えー、つまり、物語世界を引いた目線で見ることで映画を観てる僕らもローマの街のどこかに存在してる様な、(登場人物に共感するのではなく)傍観者として映画の中に参加してる様な気分になるんですね。で、それを更に斬新なアングルとか計算された長回しで見せられることによって、単にリアルっていうのとも違う、現実の記憶と夢の記憶が混ざってるみたいな、ドキュメンタリーとファンタジーを併せて観てるみたない感じになるんですね。(例えば、家政婦のクレオが逃げた恋人に会いに行った時に訪れる空手の練習場所、あんなところ絶対自分の記憶の中にあるわけないんですけど、あそこの空気感とか、あと、父親が仕事から帰って来て狭いガレージに車を停める、執拗にカット割ってやってるあのシーンあるじゃないですか。ああいうのが、なんか、家族の儀式化してるみたいな感じとか。「あ、お父さん帰って来た。車停めるまでちょっと時間掛かるぞ。」っていう、その車庫入れの上手さが家での父親の権威になってる感じなんかも、「ああ、この感じ知ってるな〜。」ってなるんですよね。)で、この辺がキュアロン・マジックだと思うんですけど、それが共感(というか自分事ですね。)と畏怖(その「知ってるぞ、この感じ。」の中で起こると怖いこと。人が死ぬとか、信頼している人が自分から離れて行ってしまうとか。)の両方を感じることになって。それってもう人生じゃんみたいなね。感覚になるんですよね。だから、映画観終わって思い返してみるといろんなことが起こっているんですけど、それは人生のいろんな場面で起こったその時々の想い出みたいな記憶の残り方をしていて、あまり、何かひとつの物語を観たって感じにならないんです。で、そう考えると、確かに「ゼロ・グラビティ」もそういう作りの映画だったなと思うんですよね。

で、こういうミニマルな視点から社会とか人生を描いてる映画他にもあったなと思いながら観てたんですけど、あの、あれですね、台湾映画の「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」(これも大好きな映画です。)。あの映画の登場人物への寄り添わなさ加減というか、ちょっと離れたところから見てる感じとか似てるなと思いました。「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」ではプレスリーの音楽が時代の象徴として出て来るんですけど、音楽の陽気さと対比して暗い時代を描くってやり方も、「ROMA / ローマ」の1970年代に流行ってた能天気なメキシカン・ポップス(これが70年代の日本の歌謡曲と割と親和性があって、僕は’70年生まれなのでこういうとこでもより記憶の混乱が起きたんですよね。)と学生運動っていう時代のリンクしなさ加減がなんか近いものを感じるなと思いました。あと、個人の人生が社会の流れに否応なく巻き込まれて行く感じ(死を描くことで生きるってことを感じさせてるの)とかもそうですよね。登場人物に寄らないで長回しとか変なアングルのカットを多用するってなるともうひとり、日本の相米慎二監督を思い出すんですけど、(まさか、キュアロンが相米監督と繋がるとは思いませんでした。)「ROMA / ローマ」も「牯嶺街(クーリンチェ)」も家族の崩壊を描いてる(あ、「ROMA / ローマ」はそこからの再生もですね。)と思うんですけど、相米監督も後年は崩壊する家族の話ばかり撮ってましたね。

で、人生を描きながら人に寄り添わないで何を中心にして映画を構築しているのかと思ったんですけど、これ、たぶん、あの「家」ですよね。家族じゃなくて。だから、主人公を一緒に暮らしていながら家族ではない家政婦のクレオにしたんだと思うんです。基本的にはクレオの人生を描く映画なんですけど、ただ、クレオ自身も傍観者としてしか描かれないんですね。常に中心にいるのはあの「家」で。で、その「家」を中心にして家の前の通りとか、近くの映画館とか、家具屋とか、ちょっと離れた親戚の家とか(つまり生活)が描かれるんですけど、あの「家」も街も何かほっとする様な居心地の良さを感じるんです。普段の生活からちょっと抜けたところにあるというか。それって、たぶん『実家感』なんだと思うんですよね。今、大人になって時々帰る実家ではなくて、子供の頃家族と一緒に暮らしていたあの実家の感じなんです。だから、家族を再編しようっていう時にその「家」から離れるんですけど、そこで唯一クレオの本音が吐露されて、クレオも家族なんだって話になるんです。(何か感情を揺さぶる様なことが起こる時はいつもあの「家」の外なんですよね。「家」の中はいつも平穏なんです。その守られてる感じが『実家感』に繋がってると思うんですけど。)つまり、何が言いたいかというと、この「ROMA / ローマ」って映画は究極の"実家映画"だなってことです。(子供の頃に過ごしていたあの実家に帰りたくなったらまた観ると思います。)

「家」の外では主人公のクレオの視点で描かれるんですけど、「家」の中では子供たち(特に末っ子のペペ)の視点で描かれてるんじゃないかと思ったんですけど、それって、たぶん、ペペがキュアロン監督本人だからなんじゃないかと思うんです。優しくも厳しくもない不思議な平温感のある映画でした。

https://www.netflix.com/jp/title/80240715

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