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オープニング、朴訥とした男が立っていて、何かを見ている。(いきなりの顔のアップでその男が置かれている状況が分からない。)唐突に歩き出して(その歩き方が確固たる目的を持ってる様にも、考えなしにも見えるので行方が気になっていると、)道の反対側で何か落し物をした人がいて、それを拾って渡してあげる。落し物をした人がお礼を言っているが、男は特に何の反応もせずに(同じ様に無感情に見える歩き方で)戻って来て、そのまま(恐らく、その男が働いている)工場に入って行く。と、いうプロット。この特に何も起こらずに何だかよく分からない緊張感だけが支配するオープニングを見た時に「あ、北野映画。」と思ったんですよ。何を考えてるのかよく分からない表情や、身体のバランスが悪そうな歩き方とか、ボンヤリした表情のアップから唐突に歩き出して事が始まる感じとか、北野映画っぽいなと。で、この主人公を(ある意味)北野映画的な記号を配した、いわゆる"そういうキャラクター"として見せておいて、その後、展開する事件に絡ませていこうってことなら、それは単なる二番煎じだし、「ああ、そういう映画か。」って思ってたと思うんです。(なんとなく先が読めるなっていうちょっと落胆した気持ちだったんですね。)そしたら、いつになっても事件は起きないし、この男の考えてることが一向に見えてこないので、これは一体何を言おうとしている映画なのかって思ったんですが、これって、要するに、この主人公の男(監督自ら主演していて、役名も監督本人と同じ名前なんですけど。)が一体どういう人間なのかっていうのを延々2時間見せられるって映画だったんですよね。(つまり、オープニングで僕が感じた「北野映画に出て来そうな男。」が、なぜ、そんな風に見えるのかを解明していく様な。)で、それって、じつはひとりの男を掘り下げていっている様に見せた"人間とは=自分とは=個とは(こんなものだ)"っていう人間観察映画(そういう意味で、本質的に北野映画的ではあると思います。)なのではないかなと思いました。二ノ宮隆太郎監督主演「枝葉のこと」の感想です。

北野映画以外にも、真利子哲也監督の「ディストラクション・ベイビーズ」や、韓国のヤン・イクチュン監督の「息もできない」など、思い出した映画はいくつかあったんですが、この映画には、そのどれとも違ってたところがあって、(ていうか、最終的には全く今までに観たことないタイプの映画でしたけどね。)それは、主人公を初めとした登場人物全員が全く魅力的じゃないってところなんですね。それまでに観た映画は、いくらダメな男を描いていたとしても、どこか惹かれるところがあるというか、例えば、自分が出来ない様なことをやってみせてくれるとか、居れない様な環境にいるとか、ある意味超人だったわけです。でも、この「枝葉のこと」の隆太郎は徹頭徹尾普通なんです。うーんと、だから、ダメっていうほどダメでもないダメさと言いますかね。自分がやりたい仕事ではないけど仕事も持ってるし、飲みに誘ってくれる同僚もいる、いまだにお互いの家を行き来している幼馴染みだっているし、セックスする相手だって、声掛けたら乗ってくる女の子だっているんですよ。でも、本人は納得していないんです。"俺は、ほんとは小説が書ける位頭がいいんだ。お前等とは違うんだ。"って思っているんですね。ただ、それを証明する為に何か行動を起こすってことをしないんです。ね、普通のダメさでしょ?たぶん、時が経てば諦めがつく位の自意識なんです。で、この徹底的な"普通さ"がこの映画の最大の魅力で。僕は今までに、これほどまでにリアルに等身大の人間が描かれている映画は観たことないです。だから、僕が映画冒頭で感じた「北野映画みたい」っていう違和感はそこにあったんです。北野映画に出て来る様なキャラクターなんて実際の日常にはじつはいなくて。そこには、"自分は北野映画に出て来そうなやつだと思っている普通のやつ"がいるだけなんですよ。(だから、そのいない様なキャラクターを一体誰なのか分からない人を描いてるインディー映画で見せたって説得力ないじゃんていう違和感です。)で、その後、この普通のやつがいかに普通なのかっていうのを淡々と見せられるんですけど、(何か事件的なことが起こるとすれば、小さい頃から世話してくれたおばちゃんがもうすぐ亡くなるかもしれないってことで、そのことがずーっと影の様にくっついて回るんですが、これだって、誰にでも起こりうる日常の中にある普通の事案ですよ。)普通さが暴かれていけばいくほど、何だか隆太郎のことが好きになっていくし、映画としてめちゃくちゃ面白くなっていくんです。不思議なんですけど、映画的なエンタメ性から離れていけばいくほど面白さが増していくんですよね。えー、だから、映画冒頭が一番ミステリアスで狂気的な空気を感じるんですけど、映画が進んで行くごとにこいつダメだなっていうのが段々分かっていって、そうすると普通はトーンダウンすると思うんですね。でも、この映画の場合は、逆に興味が湧いていって楽しくなっていくんです。共感ではないんです。そういう安易な感情じゃなくて、「隆太郎がダメなやつで良かった。」みたいな安堵感というか、なんか、その未完成さに希望を感じるというか。全く意味不明のわけの分かんないやつでなくて良かったってことなんでしょうかね。これ、ちょっと、ほんとに今まで映画で感じたことない感覚だったんでよく分からないんですけど。

例えば、僕が最初にここの隆太郎は好きかもって思ったシーンが、身体目当てで寝てた女性がいるんですけど、行為の後に話す女性の会話の貧困さに腹が立って、その女性をめちゃくちゃに罵倒するってところでがあるんですね。そこで、「あ、やっと本音言った。」と思ったんです。要するに、こんな話の面白くないバカな女にしか相手にしてもらえない自分に腹を立てているんですよね、隆太郎は。「俺はこんなやつらとは違う。」と思っているから。でも、やる事はやりたいから、やった後に腹が立ってくるわけなんです。ダメですね。ダメだけど、実際はそうですよ。ハードボイルドにも、非情にも、もしくは最初から自分をダメだと認めちゃう様なバカにもなりきれないですよ。人間てそういうもんだってことです。そういう中途半端なところがもの凄くリアルだと思ったし、今まで観たどんな映画よりも誠実?、いや、誠実とも違うか。ありのままですかね。ありのままに人間を描いてるなと思うんです。で、翌日、その女性が働いてる飲み屋に行って、何事もなかった様に「今日、仕事何時まで?」とか聞いて、その女性にボコボコにされて追い返されるんですけど、(そりゃ、そうですよ。)隆太郎はこういうの分かっててやってると思うんですよね。なぜなら、(おばちゃんのこととか色々あって)かまってもらいたいから。だけど、かまってはもらいたいけど、こんなやつ相手にしたくないとも思ってるんです。(こうやって書くとほんと最低ですね。)だから、殴られてもやり返さないんです。やり返したらマジで相手したことになっちゃうから。(でも、映画の後半である人に対して殴り返す場面があるんですよね。その場面はここと対になっていると思うんですけど、その相手っていうのが、恐らくこの映画の中で隆太郎が最も下に見ている相手なんですよね。)隆太郎がこういう状況でも常に無表情なのって、そうしていれば負けたことにならないと思っているからだと思うんです。(これさぁ、ほんと嫌なんだけどよーく分かるんですよね。感情を出さないことで土俵にも立ってないからって思っているんだと思うんです。)で、その後に、店に忘れたタバコを持って追い掛けて来てくれた別の女の子を遊びに誘うんですけど、これも、なんでこんなことするかというと、自分が傷つけた女に追い返されたことでプラマイゼロになっちゃった自尊心を、この娘と遊ぶのを担保にプラスに持っていってるんですよね。(もしくは、"おばちゃんの死の悲しさを担保に女の子と遊んでるオレ"への怒りですね。こういうとこまで隆太郎は分かっててやってるんじゃないかなって気がしてくるんですよねぇ。)とりあえず、このクソみたいな環境の中でオレは勝ち越してる(やることやってる)と思いたいんですね。(クソはお前だってことなんですけど。)これって思春期の感情ですよ。中二ですよ中二。つまり、それを27歳の最早いい大人でやってるってことなんですけど、それでも、この映画が観てる人を嫌な気分にさせないのは、「正直、腹の底まで曝け出したら僕はそうですよ。」って言いきっているからだと思うんです。で、そこまで曝け出すなら言うけど、(観てる側の)オレもそうだよ。っていう。なんていうか、同朋意識みたいなものが芽生えて来るんですね。映画観ながら。

だから、この映画でやたら主人公の裸(裸っていうより"フルチン"って言った方がしっくりくる様な晒し方でしたけどね。)や、(ほんと何も官能的じゃない)セックス・シーンや、自慰のシーンが出て来るのは、隆太郎がそういうところじゃないと己を晒さないからだと思うんです。そこを映画は執拗に責めていくんです。(凄く主人公に対して厳しい映画だなと思いました。全然優しくない。だから、優しい見方になるのかもしれないですけどね。こちら側が。)で、個人的に最も良かったというか感動したのが自慰のシーンなんですけど。こうやって、表面上は隆太郎のモラトリアムでダメなところをただ見せられてる様な映画なんですけど、じつは、ちゃんと葛藤と成長が描かれていて。その成長の描き方のひとつがですね、最愛の人を失うかもしれないっていう悲しみとか恐怖とか、そういうものをずーっと抱えて隆太郎は過ごしてるんですけど、いよいよダメだって時にオナニーしようとするんですね。でも、出来ないんです。つまり、その悲しさや不安や辛さをオナニーでごまかせなかったってことなんです。(パソコンでAV流しながらチンコ握ってるのにもの凄く切ないんですよ。でもですね、そんなことそれまでにも経験していたはずなんです。大人なんだし。それでも、また、これで逃げられるかもしれないと思ってチンコ握ってるんですね。だけど、やっぱりダメで。要するに、この時に隆太郎は諦めて受け入れたんだと思うんです。世の中にはオナニーで逃げられない辛さっていうのがあるんだっていうのを。これって成長ですよね。)だから、オナニーを通してモラトリアムからの脱却を描いてるんですね。ここ、ほんと秀逸だと思いました。(グザビエ・ドランとかはこういうとこまで描かないですからね。ズルいですよね。)

つまり、この映画が描いてるのって、人生でずーっとごまかしてたものを受け入れる(もしくは諦める)までの話なんです。その後、隆太郎がどうなるかは分かりませんし興味もありませんが、人生にはそういう瞬間が誰にでも訪れるって映画なんです。だから、後から思い返してみると、誰にも心を開いてなかった隆太郎がだんだんと本音を吐露していくって構成になっていて。その中で、大好きなおばちゃんに優しく出来たのと、ダメな父親に意見出来たってことが隆太郎にとってもの凄く大事な経験になっていて。(だから、この映画はあそこで終わるんだと思います。)で、その大事な経験に至るキッカケになる気づきの瞬間を"ダメだ。オナニー出来ないわ…。"で描くという。ああ、なんて愛おしい映画なんでしょうか。

あ、そして、ひとつだけ。この映画のとても印象的な部分を担っている揺れる手持ちカメラなんですけど、結構酔います。隆太郎の不安感とか落ち着かない感じとかを表す要因(あと、即興性が高いですよね。手持ちだと。)にもなってるとは思うんですけど、ちょっと揺れすぎかなと。個人的には、フィックスでパキっとした画面の二ノ宮映画も観てみたいなと思いました。いや、フィックスな画面でもあの不穏さとか不安定さは絶対減少しないと思うし、そっちの方がもしかしたらよりヤバイかもしれないです。

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