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ハウス・ジャック・ビルト

はい、胸糞映画監督第一人者のラース・フォン・トリアーの最新作。強迫性障害(潔癖症)の殺人鬼が自分の家を建てるまでの12年間を5つの殺人エピソードで綴って行く「ハウス・ジャック・ビルト」の感想です。

まずはマット・ディロンですよ。どう俯瞰で見ても倫理的に全く許されないことをしてるのに、もの凄い(映画鑑賞後にはそこはかとない爽やかささえ感じてしまう程に。)興味を惹かれるんですよね。マット・ディロン演じるジャックっていうシリアルキラーに。いや、絶対ダメなんですよ。こんなヤツ。だから、ほぼ映画を観てる間に考えてることって、このジャックがどれだけ許せないヤツかってことなんですけど(ていうか、ほぼ全編ジャックがいかに狂ってるかってことを伝えるだけの映画です。)、それを淡々とぎこちなく、哲学的でありながらバカっぽくも表現出来るマット・ディロン(しかも、今だイケメン)に俳優としての凄みを感じました(大好きな「ドラックストア・カウボーイ」のボブがドラッグやり続けてたら現在こういうおっさんになっててもおかしくないななんて想像しながら観てました。)。なので、マット・ディロンはちょっと凄いなと思ってしまっていたので、この映画の不快なところは全部トリアーのせいってことで、そのいつも通りの人を不快にさせる悪行の数々をと思って観てたんですが、今回、冷静というかロジカルというか。例えば、ジャックの人間性の見せ方なんかも、最初はまともそうに見せるんですね。第1エピソードなんて、被害者のユマ・サーマンの方が人間的にヤバそうで。ジャックもそうとう我慢してるし、これは殺されてもしょうがないかなってなるんです(ジャッキで殴り殺されるんですけど、グロさも、まぁ、こんなもんかって感じで。)。要するに、そういう、血も涙もない変態でキ◯ガイのクソ殺人鬼と言えども、さすがに何の理由もなく人なんか殺しませんよというか、ちゃんとそういうドラマがありますよってところを描くんですね。だから、「ああ、トリアーの映画にしては理路整然としてて、ちゃんと理解出来る人として殺人鬼が描かれてる。」と思わされるんですけど、そう思ってたら、いきなり第2エピソードで、因果関係も殺す理由も何にもない、ましてや殺しても特に(不謹慎なこと言います。)面白くもない普通のおばさんをターゲットにするんです。じゃあ、この何の関わりもないおばさんは何の為に登場したのかという。ね、これ、単純にジャックの異常性を示す為に使われたんですよね。首を絞めて殺されるんですけど、息絶えたと思ってたら、じつはまだ生きててっていう下りがあるんですけど、それにジャックが気づくんですよ。で、介抱し始めるんです。自分でやったのに。「あ、辛い?水飲む?」なんてやるんです。で、何だよ、やっぱりそういうワケ分かんねぇヤツかと思うんですけど、でも、まぁ、あんまり変質的な殺し方はしないんですね(ていうか、映画的にそれ程面白い様な殺し方はしないんです。)。衝動的に殴ったり首絞めたりって位で(って言ってる時点で、既にこっちの倫理感も結構おかしくなってるんですけど。)。だから、まぁ、そういう風に思ってちょっと安心してたんです(トリアー×殺人鬼なんていう最悪コラボ、そうとうトラウマな殺し方するんだろうなって思ってたので。)。そしたら、ここのタイミングで「あ、マジか」っていう…。いや、ムカつく女をジャッキで殴るとか、百歩譲って理由なき殺人なんかにも(こんなところで引っ掛かってたら話進まないからと思って)目瞑ってたんですけど、これちょっと意味不明だわってことが起こるんですよ。え、ホントにこんなことして殺人隠す気あるの?というか、一体何がやりたいのかっていう。グロさも予想を越えて来るし、意味も分からないしっていう。(一応、ジャックが潔癖症だっていうことの流れの中から起こることなんですけど。)だから、これ、誰が殺されたとか、どんな殺され方したとか関係ないんですよね(重要なのは殺し方ではなくて死体そのものだったってことが後に分かって来るんですけど。)。単にジャックが異常っていう、そういうギャグなんですよ。このシーン。人間の生に対する尊厳なさ過ぎっていうギャグをやってるだけなんですよね。で、この " 人間への尊厳の無さと笑い " っていうのが今回の映画の軸になっていて。これって、前作の「ニンフォマニアック」もそうだったなと思ったんです(あの、つまり、恐らくジャックの中では、この理由なき殺人というのはアートの一環なんですけど、それを客観視するとギャグになるっていう。で、これはトリアー自身の心の叫びでもあり、気づきなんじゃないかと思うんですよね。)。

ということで、「ニンフォマニアック」なんですけど。(なんだかんだトリアー作品はほとんど観てます。)この作品からそれまでの作品とは描き方のモードが変わったと思うんですね。開き直ったと言いますか。それまでのトリアー作品っていうと陰々鬱々としてて、個人的には鬱病とか精神障害ってことに媚びてる様なところが苦手ではあったんです。ただ、「ニンフォマニアック」からはそれらも含めて俯瞰で見るみたいな視点に変わっていて。つまり、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のセルマも、「アンチクライスト」の夫婦も、俯瞰で見たらギャグじゃんていう。で、今回の「ハウス・ジャック・ビルト」はそこから更に突っ込んで、もっとワケ分かんないやつに言及してみようってことだと思うんですよ。えーと、つまり、これまでの作品でもトリアー映画の主人公たちというのはトリアー自身を投影して来たと思うんですけど、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」とか「ドッグヴィル」なんかではなるべく映画を観る観客側に寄せて描いていたと思うんですね。それが「ニンフォマニアック」で色情狂の女性という、これは明らかに普通の人とは違いますっていう主人公にしたら、トリアー自身の内面というか闇の部分をより出しやすくなったってことなんじゃないかと思うんです。色情狂っていうワードをひとつ入れたら何でもアリになったみたいな(ただ、まだ、この時は主人公も女性だし、客観的に自分を投影しようとはしてるとは思うんですよ。)。で、その分岐点というか、区切りになったのが、その前の作品の「メランコリア」で。「メランコリア」は、ある富裕層の女性が結婚してみんなに祝ってもらって、普通だったら幸せの絶頂にいる様な時なのに、鬱病から来る落ち込みでやりたい放題やったあげく、惑星直撃で地球ごと破壊してしまうという(言われてもピンと来ないと思いますけど、そういう話なんです。)ほんとに鬱映画の最高峰と言いますか。" リア充死ね " をもっと拡大解釈した " 世界死ね " を実現した鬱の夢の極北の様な映画だったんですね。で、あれで夢叶っちゃったから、もう観客に媚びる必要なくなったというか。「アンチクライスト」と「メランコリア」と「ニンフォマニアック」で鬱三部作と言われてるんですけど、ある意味「メランコリア」で(鬱という意味では)やり切っちゃったと思うんですよね。地球破壊しちゃってるんで。で、もっとパーソナルなものをって特殊な癖を持つ人を描いてみたら、めっちゃ楽しくて前後編併せて5時間25分もある大作になってしまったってことなんじゃないかと思うんです。要するにそれまでは、普通の人に寄せて描いたキャラクターに投影した自分を否定し続ける映画を撮って来たわけなんですけど、(色情狂っていう)特殊な癖を持つキャラクターに自分を投影することで始めて自分自身を肯定的に描けたってことなんじゃないかと思うんです。で、そうなると調子に乗ってきて、今度はそんな自分自身を笑い飛ばす映画を作ろうってことなんではないかなと思うんですね(あと、理由のもうひとつがあるとすれば、トリアーは、「メランコリア」が上映された時のカンヌ映画際のスピーチで、「ナチス擁護」とも取れる発言をして出禁になり謝罪撤回してるんですけど、それへの回答と言いますか。つまり、こんなの全部ギャグじゃんかってことかと。まぁ、だから、謝罪はしたけど反省はしてないってことです。)。

ということで、「ハウス・ジャック・ビルト」はトリアー流の壮大なギャグ映画ってことになるんですけど、ただ(さすがトリアーと言いますか)、そのほとんどが大反則技なんですよ。上であげた潔癖症から連なるギャグを筆頭に、死体にポーズをつけて遊ぶギャグ、まともな人間とサイコパスの噛み合わない会話ギャグ、「ダンテの小舟」コスプレギャグ(からのこの話自体が「ダンテの神曲」でしたっていうネタばらしギャグ)とか。中でも最もシンプルに笑えたのはラストカットからのエンディング曲で「二度と戻って来るなジャック」と歌われる瞬間なんですけど、緊張と緩和の付け方が最高で思わず吹き出してしまいました。あと、この映画、ジャックが事の顛末を説明するナレーションが入るんですけど、そこに、聞き役としてもうひとりバージっていう「ベルリン・天使の詩」で天使役を演じてたブルーノ・ガンツが演じてる役がいるんですけど(ブルーノ・ガンツは2004年に公開された「ヒトラー〜最後の12日間〜」でヒトラー役を演じていて、その彼がジャックを導く役をやってるっていうのは、さてはカンヌの件、やっぱり反省してねぇなっていうね。まぁ、これもギャグですよね。)、これなんか、ジャックが自分の殺人にアート性と正当性を持たせようとしてする話にツッコミを入れていくっていう、完全に漫才の構図なんですよね。だから、とにかくギャグ映画として観れば納得が行くと言いますか(終章のあの展開もギャグ映画として観たらあの位のぶっ飛び展開あって然るべきですしね。)。で、じゃあ、これだけギャグ入ってたら、笑って観られるのかって言われたら、そんなワケないんですよ。トリアーなんで。「ニンフォマニアック」の時は色情狂をマジメに描いたらギャグになってしまったってことだと思うんですけど、その逆に、殺人鬼をギャグとして描いてったらどんどんそのヤバさがヒートアップしていってしまったってことになっているんですよね。

あの、ギャグの持つ宿命として、常識のラインからどれだけ遠くに飛べるかってことが面白さの基準だったりするじゃないですか。だから、もともとお笑いというのは倫理的であったり常識的であったりすることへの反発から生まれて来るものなんですね(まぁ、なので、ずっと倫理的だったり常識的だったりすることに反発してきたトリアーがこっちに行くのも必然だとは思うんです。)。なんですけど、この映画は、シリアルキラーの常識のラインでギャグをやっちゃってるから、そりゃ笑えないんですよ。普通の人は。だけど、それを152分間も見せられ続けると段々とそっちの常識でものを考える様になっていって、「ん、これってもしかして面白いんじゃないだろうか?」って思考になって行くんですね。ほんとにそこが一番危険だと思うんですけど。ただ、シリアルキラーの常識でものを考えるなんて、まず、映画以外じゃ出来ない体験ですから。危険な一方、やっぱり、これがトリアー映画の最大の面白さでもあるんですよね(で、今回、そういう意味では過去一で、その思考のヤバさにワクワク出来る内容ではあります。)。

あの、「ヘレディタリー」にあった最悪な食事シーンあるじゃないですか。ある事件が起こったあとに家族が集まって思ってたことを言い合うあのシーン。その最悪な食事シーンをほんとに軽々と越えて行く完全にアウトな食事シーン(まず、間違いなくアメリカでカットされたのはここですよね。)があるので耐性のない人はほんと要注意です(さすがに僕もそのシーンは観てて気持ち悪くなりました。)。ただ、めちゃくちゃ面白いんですよ。面白いと不謹慎の両方共が予想を超えて来るので、本当に観ながら自分の中の倫理観というか常識と戦うハメになって来るんですけど。あと、劇中でデヴィッド・ボウイとジョン・レノンが競作した「フェイム」っていう曲がしつこいくらいに何度も流れるんですね。あれの意味ってジャックが殺しをしてたのは名声の為ってことなんだと思うんですけど(新聞社に撮った死体写真を送ったりしてましたし)、こういうとこの深みのなさというか、ネタバラシみたいなのを割とあからさまにやってるのって、どうも、考察とかしても意味ないよってことなのかもなと思うんですよね。あんたらに頭のおかしいやつのことなんか分かるわけないじゃんてことなのかと。

http://housejackbuilt.jp

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