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2024.3.1愚痴聞き屋まとめ

2024年3月1日(金)
愚痴聞き屋を開店しました。

夜の気温は0〜3℃。路上に座りしばらくすると雨あられが降りはじめます。寒さが一層厳しさを増す中、見に来てくれた方やお客さんからいただいたホッカイロ+お茶(温)+コーヒー(熱)に心と身体をあたためてもらい、23時すぎまで愚痴を聞きました。

①卒業式終わりJK
・彼氏の気持ちが離れてしまった
②二度目の遭遇兄やん
・仙台出張岡山出張 
③かつての職場上司Tさんと仕事仲間Iさん
・お世話になった二人と感動の再開
④飲み帰りお姉さん
・最短6秒の男
⑤所持金21円マン
・須坂の食堂のご飯無料オヤジ
⑥日の出営業王子
・風営法を守れ!
⑦芋焼酎マブ
・お前の人生失敗しかないんだから
etc.

Photo by satoshiさん

【バイアスを乗り越える】
三人組の30代ぐらいの男が通りかかり、そのうちの一人が我々の前で足を止める。
男『俺は愚痴は無いっ!』
愚痴聞き屋「あ、はぁ。。」
一瞬で面倒くさそうな空気を感じ取るが、そこで終わってしまっては愚痴聞き屋のメンツが保てない。僕らに足を止めた時点で、この男には他の人とは違う何かがあるのだ。
彼と一緒にいた別の二人は彼を置いてどこかへ行ってしまった。
男『聞いてなんかあんの?メリットとか』
愚痴聞き屋「特にないですけど、楽しいので」
男『楽しいの?俺はいま話してて楽しくないよ』
愚痴聞き屋「俺らは、今あなたとのこの、何とも言えない空気を楽しんでるので、俺らの勝ちっすね」
男『はぁ、深いねえ』
そこから彼は少しずつ自分の話をするようになる。
男『無料でやってんの』
愚痴聞き屋「無料ですけど、金くれてもいいっすよ」
男『だってさ、見る?俺の財布、ほら全財産21円だわ』
愚痴聞き屋「ギャグ漫画でしか見たこと無いような状況すね」
男『あ、そうだ、この店知ってる?』
男は財布からどこかの店の名刺を取り出す。
男『須坂と小布施の境にある定食屋でさ、ここ、めっちゃうめえから。レバニラが』
愚痴聞き屋「へえ」
男『でさ、ここのオヤジが半端じゃねえから。おかずの味濃くて、ご飯が足んなくなる。するとオヤジが気を利かして「(おかわり)いくか?」ってくるから、「いきますぅ」って。おかわり何倍でも無料なわけ』
『なのによ?オヤジ最初注文のとき、「ごはん大盛りか?普通か?」「ほんとにいいんか?」ってしつこく聞いてくんの。おかわり無料ならどっちでもいいんじゃねえの!!』
愚痴聞き屋「!!!」
結局僕らより楽しそうに話しまくったあと、見失った仲間を探しに旅立った。
最初はツンツンしていた彼であったが、向き合い続けていると、面白おかしく自分の話をたくさんしてくれて、我々も愉快な気持ちになっていた。構成を練ったかのような異様に惹き込まれる話し方で、日常における観察眼の鋭さを感じさせる人物。こういう人は、愚痴聞き屋をしているとたまに出会う。
コミュニケーションにおいて、一番始めの、取っ掛かりの印象は重要である。通常、始めに「嫌だな」と思わせてしまうと、それ以降の話の内容がどうであれ相手はまともに聞いてはくれない。
なんちゃらの法則でも、言語情報(会話そのものの内容)よりも、視覚情報(見た目やしぐさ)や聴覚情報(口調や声の質や大きさ)で9割が決まると言われている。
それがゆえに、じっくり話をしないと、その人の“らしさ”が出る「ものを見る視点」や「考え方」を捉えることが出来ない。
職場でも、ネットでも、世の中は何を言うかよりも誰が言うかで決まってしまうことが多い。言葉を捉え自分なりに咀嚼するよりも、分かりやすい指標に従い脳に負担をかけずに判断をするほうが、コスパ・タイパがいいのだろうか。
愚痴聞き屋はそれでも、どんな見た目でもどんな態度であっても、どんな肩書でもどんな地位の人でも、その人の語ることに注目するために、話を聞き続けたい。なぜなら、そこに、本当の意味での人と人との違いが現れ、それこそがいろんな人と話す醍醐味だからである。

【人生に失敗はあるのか】
20歳の仲良し二人組の男が、我々の前にやってきた。
風貌はヤンチャに見えるが、話し始めると驚くほど丁寧で、上記で書いた「見た目」のバイアスに結局自分も支配されていることに気付く。
二人で冗談を言い合いながら話す軽い愚痴をいくつか聞いたあと、片方の男がふと真面目な顔になり話してくれた。
男『自分は姉が二人いて、どちらも頭が良くて進路もしっかりしてて、親も安心してるんです。一方、自分は頭も悪いし、意思も弱いし、いろんなことでよく失敗する。姉と比べて、できることが少ないの分かってるから、自分なりに気をつけて生きているんです』
愚痴聞き屋「そなんですね」
男『ある日、家の鍵を失くしてしまったことがあって、そのとき母に「お前の人生失敗しかないんだから、もっと気をつけて行動しろよ」と言われたんです。ショックだった』
愚痴聞き屋「そうかぁ」
男『あとまあ、母の失敗談もよく聞いてたから、お前の血継いでんぞ!と言い返しそうになったけど、傷付けると思うからやめました(笑)』
人生における失敗とは。
つい先日、東京の文京区に住んでいた知人が話していたことを思い出した。「この地区の子どもたちは小さい頃から競争ばかり。親にとって、子どもがいい学校に行くことがステータスで、失敗は許されない。ちなみに、お受験が原因で殺人が起きたことがあるよ」
親も子も、本来、お互いに願っていることは同じだと思っている。
それは、失敗のない完璧な人生を送って欲しいということではなく、不完全だとしても楽しそうに生きていて欲しいということだ。
失敗のない人生を子どもにいくら求めても、そもそも失敗が何であったのか、親は知り得ない。死ぬ直前に人生を清算して振り返ってみた本人のみにしか、その答えを出すことができない。
他人の失敗や成功を考える時点で、自分の人生を生きていないのである。それは親であっても子であってもである。
親が子のために、子が親のためにできることは、自分の人生を生きることであり、楽しそうに生きることである。それしかないと思っている。
目の前の彼は今、息ぴったりの高校からの友人と、お互いに笑い合いながら、週末の夜に楽しそうに生きているではないか。その姿があるだけで、この人たちの人生には、失敗・成功なんて概念を遥かに超えた尊さがあるんだ。そう思いながら、このお客さんたちを最後に、この日の愚痴聞き屋を畳んだ。

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