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セクシュアリティ(クィア)、コンテンポラリーアートについての人類学。フィールドはラオス…

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セクシュアリティ(クィア)、コンテンポラリーアートについての人類学。フィールドはラオス。都市空間と人間の身体的振る舞い・感覚との連動への関心。 「大」きな「村」の「優」しい「介」護 お笑いも好き

最近の記事

読んだものの感想

最近読んだものの感想(あくまで自分用に書いたものです) 碇陽子 2018 『「ファット」の民族誌 : 現代アメリカにおける肥満問題と生の多様性 』明石書店  概念分析的アプローチを取り入れつつ、「肥満」や「ファット」などの概念が政策や社会運動の実践の中でどう生き、人々を突き動かし人々によって動かされていてるのかを丹念に追う。ファット・アクセプタンス運動とフェミニズム運動との「ぎこちない」関係を、「ファット」概念の特殊性に注目して論じる章、そして人類学が「多様性」をいかに論じ

    • 何をしてきたのか、何をしているのか、何をするのか、全くよく分からない(一次帰国に当たってのとりあえずの記録)

      現在、ラオスでの2か月弱の予備調査(いや、準備作業)を終えて東京に一時帰国中なのだが、帰国直後の一週間はほとんどなにもせずに過ごしていた。直接的には帰国直前に発熱してからの体調不良が理由で、食欲4割減、全身だるさに包まれた状態で寝そべって過ごしていた。 「一時帰国」なのでこちらでやるべきこともそれなりにあるのだが、今はとにかく何もしたくない。いつラオスに戻るのかも決めていない。この文章もそんな気分で書いているので、何のまとまりもない。しかし、その状態を保存してある程度さらして

      • ニューヨーク大学教授のアヴィタル・ロネルが院生へのハラスメントで告発された一件から

        ニューヨーク大学教授のアヴィタル・ロネルが指導する院生からハラスメントで告発された一件について、 記事を読んだり、関連する情報、反応を調べたりしていると、アカデミアの世界の問題が見えてくる。 特に、周辺の一部の研究者、クィア・スタディーズの有名どころとも言える学者たちの対応が批判されている。 例えば、後に撤回、謝罪したものの、ハラスメントの告発を封じ込めるような書簡の草稿(結局送られる前にリークされた)にジュディス・バトラーが名を連ねていたり、 また、リサ・ドゥガンはブログ

        • 研究室の個人ページを更新しました

          修士課程を卒業し、一つ区切りがつきました。 とりあえず修士論文では「性」というものへの自分としての向き合い方について、だいたい整理、提示することができたように思います。(質はともかく)やっと自分のやりたいことを、意識することができたなと思います。 自分の、そして人間の「性」というものへの分からなさが私の研究の起点になっています。その分からなさは時に不安や苦しみを伴うのかもしれませんが、研究としては、非常に幸福なことでもあるのだと思います。 現在、長期調査と博士論文執筆へ

        読んだものの感想

        • 何をしてきたのか、何をしているのか、何をするのか、全くよく分からない(一次帰国に当たってのとりあえずの記録)

        • ニューヨーク大学教授のアヴィタル・ロネルが院生へのハラスメントで告発された一件から

        • 研究室の個人ページを更新しました

          研究室の自分のページを更新しました

          修士2年になりました。色々自分の研究を見つめなおし、いろいろな場面で言葉にする必要が増してきたこともあり、研究室の院生用の個人ページを更新しました。 今の私の研究関心を書きました。 https://sites.google.com/a/anthro.c.u-tokyo.ac.jp/insei/inseilist_m/omura-yusuke

          研究室の自分のページを更新しました

          繰り返し繰り返し、君たちと学んでいたい

          今年は研究室の追い出しコンパの幹事として卒業生を送り出す立場で、自分が卒業する時は一切泣かなかったのに(進学して残るので、むしろ気が引き締まる思いだった)、同期の学生が軒並み卒業する今年は涙が抑えきれなかった。 名残惜しむように酒の勢いもあって色々話したけど、まだまだ話し足りず、言葉が身体の中に渦巻いたままだ。 大学院の後輩になるやつも、卒業するやつもいる。僕は今年修論を書き、博士課程進学を目指す。時間はどんどん過ぎて、何かを生み出していかなくてはならないというプレッシャ

          繰り返し繰り返し、君たちと学んでいたい

          彼らと演劇をやっていた、やっているということ

          先日、かつて所属していた演劇サークルの同期たちが主体となってやっている、ゴリラゴリラゴリラという奇怪な名前の付いた集団の公演打ち上げで時間を過ごしてきた。僕はもう既に演劇をやらなくなって久しいのだが、その場にいないことなど考えられない、とでもいうように僕はその打ち上げの場に収まっていた。夜通しの打ち上げを終え、なかなか来ない始発をひたすら眠気と戦いながら待つ頭には、感傷的なものはまだあまりなかった。 しかし、それ以降、夜寝る前に新人公演の映像を見ることがあった。数日間毎日、

          彼らと演劇をやっていた、やっているということ

          クィア人類学についてのメモ

          去年Cultural AnthropologyでQueer Anthropologyの特集がされたが、その中のMargot Wiess(SM実践の民族誌を出している)が分析視角としての「クィア」(クィア・スタディーズ)の可能性と、人類学が持つ可能性とを架橋するような議論を展開していた。これはインドネシアのゲイについて書いたTom Boellstorffが2007年の著作で人類学とクィア・スタディーズとの"coincidence"を指摘した流れを汲んでいる。従来の非異性愛者につ

          クィア人類学についてのメモ

          「カープファン」であることについて

          「カープファン」であることについて 広島東洋カープ25年ぶりのセ・リーグ優勝の瞬間はタイのお好み焼き屋でのテレビ観戦で迎えた。旅行しているのにわざわざお好み焼き屋に行き、そこでタイ在住カープファンの方々とともに喜びを分かち合った。決まった瞬間は、ガッツポーズしてはじけるでもなく、よしっと一つ手をたたくのでもなく、ただただ静かに泣いた。不安でしょうがなかったのが、ふっと解き放たれたようだった。思い思いに喜びを噛み締める選手、スタッフの姿を見ながら、低迷期のカープにいた人びとの

          「カープファン」であることについて