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元気になるまで応援するよ!という人が、元気になれない原因を作り出しているかも。

仕事がうまくいかなかったり身内に不幸が起きたりして、心身ともに疲れて病んでしまった人。心や身体が弱かったとか特殊な理由じゃなく、いつでも誰でも起こり得ることだと思います。

自信を失ってしまった友人にやさしい言葉をかけるのも、そっと手を握るのも大きな応援になると思います。それと同じくらい、やさしく見守ることも。

あれやこれや世話を焼いて励ましの言葉をかける人から見れば、少し離れて見守る人は「なにもしない冷たい人たち」に見えるかもしれません。でも、応援の方法はひとつじゃないと思うんです。

身近な人を癒したい救いたい。誰もがそう思い、それができると思っています。でも実際はどんなに自分がそう思ったところで、相手にその気が無ければ癒すことも救うこともできません。癒されたり救われたり、そう感じるのはあくまで本人なんです。


つらいことがあったとき。人は集まり、声を掛け、手を握って励まします。弱った人はとても励まされます。でもそこからは自分のターン。自分の足で立ち上がり、一人で歩き始める。悲しくても理不尽でも自分の人生は自分で歩む。そこは誰も助けてくれないし助けられない。

自分で立とう、自分で歩こうとするとき。支えてくれるととても助かります。でも、常に手を握っているとどうでしょう。ひとりで立つことも歩くこともできないでしょう。

弱っている人の支援をすることは、とても尊いことだと思います。でも、それが応援者の自己満足では意味が無い。本人の自立意欲を削ぐような結果になってしまっては本末転倒です。


立ち上がって歩き出せるようになるまで、少し離れたところで見守る。なにかあればすぐ駆けつけられる距離で、あたたかく見守る。近すぎると頼ろうとするから。落ちこんだ人は元気な人と較べて自己嫌悪になりがちだから。弱気になった相手に対し「そんなことないよ!」周囲が励まして、励ましが無いと落ち込み続ける人になり、また励まされて...壊れたレコードのようにいつまでも繰り返す。

毎日の愚痴に付き合い、励ましの「いいね」を毎日押し続ける心やさしい人たちからすれば、「励ましの言葉ひとつないあいつら本当の友達じゃない」そう見えるかもしれません。実際言われたこともあります。

でもね。「元気になるまでずっと応援しているよ!」全力で応援する人たちは、なかなか自立しようとしない原因を自ら作り出していることに気付かない。離れて見れば依存関係を作り出している。そんな見方もできるんです。


実は数年前、とても落ちこむことがありました。こんなひどいことがあるだろうかという事態。友達が集まってくれて、励ましてくれたんです。とてもうれしかった。そこでつい頼ろうとしたんですね。でも「その先は自分で」はっきり示してくれたんです。少し寂しかったけど、おかげでつらくても自分で立ち上がることができました。もしあのときかわいそうにと親身になってくれていたら。すっかり甘えて依存して、復帰がずいぶん遅れたと思います。

どっちが正しいという話ではなく、それぞれ考えがあってのこと。人って自分の理屈をそのまま他人に当てはめて決めつけがちじゃないですか。そうした思いこみ行動って、人を差別する第一歩になると思うんです。どちらの立場も経験した自分は、これからも気をつけたいと思っています。


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