第19話 誕生日

 その日、お風呂から上がっても、わたしの体はまだ震えていて、お父さんに付き添われながら自室へ戻った。
 入口にある電灯のスイッチを押す指は震えていたし、スイッチを付けた感覚を指に感じても部屋の明るさが判らないくらい視界が狭くなっている。
 心臓ははっきり判るくらい早鐘を打っていて、閉じなくなった口からはずっと息が切れる音が聞こえていた。

 苦しい。苦しい。

 足取りも重く、這うようにしてベッドに横になってようやく、自分の意思で息を吐くことができた。
 ゆっくり、なるべくゆっくりを意識して息を吸って、吐く。
 足を伸ばし、仰向けになって目を開けても、まだ室内は暗いままだ。
 常夜灯のオレンジの薄い光は、わたしの目に届かないくらい弱かった。

 わたしはベッドの端に丸くなって布団を頭からかぶった。
 わたしは、今日――

 その先を思い浮かべたくなくて必死に頭を振る。
 自分の中が空っぽになったような感覚があって、空洞が揺れるたびに、ごうん、ごうん、と不思議な音が頭の中で鳴った。

 分厚いカーテンに仕切られたわたしの部屋は、夜は何の音も聞こえないはずだったのに。
 その音は外には広がっていかず、頭の中だけで何十にも反響していく。

「あぁ、あぁ、ああああ」

 布団を強く耳に押し付けて、自分で小さく声を出して、その音を聞かないようにした。
 その音が何かは判らない。それでも、それを聞きたくないということだけは明確だった。

「あぁ、あー、あー、あーあーあー、あぁぁぁぁぁぁああああああああ」

 胸の真ん中が小さくなって、空いた空間に黒い空気が入り込んでどんどん重くなっていく。
 息は詰まって、背中は丸まる。
 黒い空気が回った身体はどんどん重くなっていく。
 身体の真ん中から黒い染みが少しづつ広がっていき、まず内臓がその動きを止めた。息苦しさが増していく。
 左手が真っ黒に染まり、その重さに耐えられなくなって膝が落ちる。両ひざが曲がったまま固まってしまって、わたしはそのまま倒れてしまう。

 柔らかな地面にずしりと額がついたけど、その痛みはもう感じなかった。
 最後まで動いていたのは右手で、握ったり開いたりを繰り返していたそれも黒い空気に染められていく。
 ひどくゆっくりだけど止めることはできなくて、目も動かせなくなったわたしはそれを見ていることしかできなかった。
 指一本動かせなくなったそれはただの重りでしかなくて、わたしは――

 気付いたとき、頭の中の音は鳴り止んでいた。
 薄い布団の感触を手と頭に感じるけど、丸くなっていたせいか足が変に痺れている。

「あ、い」
 痛みに上げようとした声が擦れていた。

「大丈夫?」

 頭まで被った布団の上から声がかけられる。
 お父さんの声だ。

「何か、いる?」

 その優しい声は布団越しなのに耳にスッと入ってくる。ささくれだった心は、それにも過剰に反応してしまう。
 それは、今までも何度か思っていて、言わずにいた言葉だった。その言葉を言えばお父さんが傷つくのは判っていた。それでもそれを止めることはできなくて、

「なんでお父さんなの」

 最初の一言が、奥底にあった想いを引っ張り出す。
 かすれた声が、嗚咽と一緒に漏れ出した。

「なんでお母さんは来てくれないの」

 一度漏れ出した声は止まらず、自らの内の黒い感情をそのまま吐き出し続ける。

「わたしはお母さんみたいになりたい。絵が好きでずっと好きで、それを描いてるのが楽しくて、それで、それで生きていくんだってずっと思って、お母さんみたいになりたいって、ずっと思って、ずっとずっと絵を描いて、お母さんと同じ応募して、模写もして、真似して、なんでもやってるのに、なんで、なんで、なんでなんで、なんでぇげほっ、うえっ」

 それが止まったのは、流れた涙が口に入ってむせたからだった。それがなければ、もっとずっと吐き出し続けていたかもしれない。

「なんで、わたしはダメなの」

 布団の中のわたしのかすれた声は、お父さんには聴こえなかったんだと思う。
 泣き疲れて意識を失うまで、布団の上から、優しい手がずっと頭を撫でてくれていた。

 そうしてわたしは、お母さんの記録に追いつけないまま、歳を一つ重ねた。

 夏目こころの足跡を一つ一つ追いかけてきた。
 努力もした。
 お母さんに追いつけるように。
 お母さんみたいになれるように。
 お母さんが受賞した賞に片っ端から応募して、時には大賞も取ったけれど、その数はちっとも及ばない。

 それは、十歳の誕生日。
 わたしはその日、絵を描くのをやめた。

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