蒲生氏郷

「掲げし槍の矛先に、天下が見える!」

 学生時代、ゲームセンターで稼働していたアーケードカードゲーム「戦国大戦」にハマり、そこで得た知識を基礎に戦国時代の日本史に多少なり明るくなりました。

 戦国時代。日本の歴史の中でも動乱の激しい時代の一つで、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑をはじめ、多くの人物が割拠しその名を歴史に刻みました。さまざまな制度や文化基盤が著しく変化・発展し、日本史の中でも特に人気のある時代の一つです。
 その中でも私が特に好きな人物が、蒲生氏郷です。織田信長と豊臣秀吉に仕えた人物ですが、戦国武将全体でみると有名な方ではないでしょう。大河ドラマでの出番も多くはないと思います。この人物、武功の面でも非常に優秀で、将(上司)としても素晴らしく、人間性もできたもの。忠義深く、思慮深く、茶湯にも造詣深い、文武両道抜け目なしのパーフェクト人間です。茶湯に関しては千利休の弟子の中でも「利休七哲」の筆頭に数えられるほどで、利休が秀吉の怒りに触れて自害を命じられた際にはその子・千少庵を保護し、茶道流派「千家」の継続に一役買いました。敬虔なキリシタンでもあり、宣教師がローマ教皇に「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」と報告したなどという話もあります。
 その他、多すぎる武功や逸話はWikipediaや書籍をご参考ください。

 そんなパーフェクト人間・蒲生氏郷が、その武功や忠義や文武両道具合や信頼の厚さにも関わらず有名になれていないのには理由があります。氏郷は、40歳の若さで病死してしまうのです。数多くの戦いに臣従し豊臣秀吉の天下統一を支え、執政に励んで会津藩の発展の礎を築いていたその時、病魔が氏郷を襲います。直腸癌あるいは肝臓癌だったと言われていますが、当時の医療技術では治療はままならず、天下に名のある医師団の派遣もむなしく三年の闘病を経て伏見の屋敷で没します。氏郷が壮健のままであれば、秀吉の死後の歴史も大きく変わっていたことと思います。
 今回紹介したいのは、そんな蒲生氏郷が遺した「辞世の句」です。

限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき 春の山風

 口語訳は必要ないかと思います。それほどに明快な歌です。そしてそれゆえに、この歌に込められた想いを読み取ることもまた容易いと思います。
 氏郷は、将として存分に働こうと思っている矢先、病に蝕まれこの世を去ります。一五九五年三月。春の山、散り行く花を見ながら自らの短命を嘆き、この歌を詠じたのです。初めてこの歌を知った時、この歌に込められた想いの大きさを感じ、心が震えました。
 文字の上では一切自分については話していないのです。ただ春の山の風景を切り取り、それを綺麗に描いているだけなのに、これほど的確に自分の想いを表現することができるその言葉選びの力量はまさしく白眉です。蒲生氏郷という人物の持った才に、その不幸な境遇が重なった結果生まれたこの三十二音。そこに和歌という日本文化の奥深さを感じました。これは、私がもっとも好きな和歌の一つです。
 ちなみに、この歌には返歌があります。

降ると見ば 積らぬさきに払へかし 雪には折れぬ青柳の枝

 この返歌は、過去の創作であるともされています。その読み手は、氏郷の庇護を受けた、千少庵。氏郷のとりなしで命を救われ千家を興した天下の茶人が、今度は病床の氏郷を返歌で励ました。そんなエピソードが創作されるくらい、蒲生氏郷の生き様は多くの人を惹き付けたのです。

「天高くこの槍を掲げよう、我が大望とともに!」

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