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「才能」の定義

先日、とあるコピーライターさんとお話しする機会があった。その話の中で、「ある若手の面倒を何年かみているが、どう考えてもコピーライターの才能がない。でも本人に自覚がなく、どうしたものか考えあぐねている」という話を聞いた。

最初こそ「才能がないのではなくまだ未熟なだけなのでは?」「1人の師匠がダメ出ししたからといってその人に才能がないとも限らないのでは?」と思ったのだが、いくつかの「ダメだと思った」というエピソードを聞いて納得がいった。

要は、コピーライターというのは本来、他のどんな職業の人よりも言葉の持つ意味や微妙なニュアンスの違いに敏感でなければならないのに、そこに鈍感なのだ。たとえば「タウリン1000mgと1gは同じことだからどっちでもいいですよね」と言ってしまうような人は、コピーライターには向いていないと言っていいだろう。

才能とは「違和感」に気づけること

コピーライターのような、特殊な感性がなければ成立しづらい職業でなくても、仕事を通して「向いている」「向いていない」というのを感じることはある。その境目が何なのか今まであまり意識して来なかったが、突き詰めて考えると、才能とはつまり一般的なプロであれば見逃さない「違和感」に気づけるかどうかなのではないかと思う。

たとえば、わかりやすい例でいうと、歌手や音楽家は伴奏の音階が外れていることにすぐ気づく。ライターや作家であれば、段落のおかしな区切りや文末の重複にすぐに気づく。経理マンでもプログラマでも調理師でも美容師でも写真家でも医療従事者でも、プロであれば絶対やらないミスは瞬時に違和感を察知する。

このような間違いに気づいたときにプロはどう感じるのかというと、ざっくり言うと「気持ちが悪い」のだ。ところが、プロになって何年経ってもこの「気持ち悪さ」を感じられない人がいる。

これが「才能がない」ということなのではないかと思う。

ちなみに、いわゆる「天才」はセオリーに対して型破りな人が多いが、これは違和感を感知できずに型を破っているわけではなく、多くの場合は違和感は認識しつつもあえて型を破っている。だから、そもそも違和感を感知できない人とは根本的に違うのではないかと思う。

「石の上にも三年」の意味

私が社会に出た頃、一般的に「石の上にも三年」ということわざがまだ根強く信奉されていた。私はこのことわざの意味を「冷たい石の上でも3年も座りつづけていれば暖まってくる。 がまん強く辛抱すれば必ず成功する」という意味だと解釈していた。だから何があっても3年は頑張るべきだと思っていた。

しかし、いま自分や他人の職業適性に対峙してみて思うのは、「3年」というのは「頑張れば必ず到達できる地点」ではなく「才能の有無をはっきり認識できる期限」なのではないかということだ。

プロ野球選手や芸能人のような、才能のある者同士がさらにしのぎを削らなければならない職業を除けば、たいていの仕事は3年くらい全力でやれば、向いているかいないかくらいはわかるのではないかと思う。

だから、自分が何に向いているかわからないとか、今やっている仕事が向いているかどうかわからないという人は、こんな時代に於いても「石の上にも三年」を実践してみる価値はあると思う。3年やっても手応えを感じられなかったり、周囲から芳しい評価が得られなかったら、おそらく辞めてしまっても差し支えない。その3年は長い人生において決して無駄にはならないだろう。

また、頑張って続けていく途中で「あ、向いてないな」と100%確信したら、3年待たずとも遠慮なく方向転換すればいいとも思う。そこに妙な敗北感を感じる必要は一切ない。

ある職種における才能の有無というのは「善悪」の問題ではないし、その人の全人格が否定されるようなものでもない。たまたまイメージだけで志願した「面白そうな」「かっこよさそうな」「自分に向いていそうな」仕事に、向いていなかったというだけの話である。

恥じることなく、次の面白そうな仕事を見つけて飛びつけばいいのだ。

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