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マレーシアの観光業の発展

 観光業に力を入れているマレーシア。しかし、昨年からの新型コロナによるパンデミックで観光業界は壊滅的なダメージを受けています。このパンデミックでツーリズムのあり方を考えなければいかない時期に来ているのかもしれません。マレーシアではどのように観光業が発展していったのかを見てみましょう。

旅は誰でもできることではなかった

 世界の旅行家といえば、13世紀に20年以上にわたって1万5,000キロ以上を旅したマルコ・ポーロや14世紀に30年以上旅し続けたイブン・バットゥーダが有名です。飛行機のない時代に彼らは、ヨーロッパや中東から徒歩やラクダ、船などで世界を旅しました。彼らはマレー半島も訪れ、植民地時代以前の姿を旅行記に記しています。

 植民地時代になると、純粋に旅するヨーロッパ人はあまりみられません。一方で、植民地時代前後には探検家と称する人たちが多くいました。思いつくだけでも、アメリカ大陸を「発見」したクリストファー・コロンブスやフィリピンを「見つけた」フェルディナント・マゼランがいます。彼らは船に乗って世界を周りましたが、旅行ではなく、たいがいヨーロッパ諸国の植民地支配拡大のための偵察のような役割を担っていました。

 19世紀には、稀に見る女性旅行家イザベラ・バードが純粋に旅行目的でマレー半島などを訪れています。また、20世紀前半だと尾張徳川家第19代当主の徳川義親侯爵がジョホールなどを旅目的で訪れたことも有名です。交通が不便であったマレー半島を旅をするにはかなりの時間と労力を必要とし、野生動物に襲われる危険もあったため、ある意味で命をかけた旅でもあったのです。

 1869年に開通したスエズ運河や蒸気船の発達、その後の航空機の導入などでヨーロッパとアジアはより近くなりました。しかし、旅行は渡航費用が膨大となったため、旅ができるのは富裕層のみに必然的に限定され、まだまだ旅が誰でも日常的にできるわけではありませんでした。
 
旅行は嫌煙されていた
 そんななかでもマレー半島に旅行で来る人たちの目的地は、西海岸のペナン島やシンガポールがほとんどでした。駐在の英国人はキャメロン・ハイランズを避暑地としていたため、ここは街としても栄えていったのでした。しかし、ベトナムやカンボジアからイスラーム指導者に教えを乞うためにクランタンを訪れた人はいましたが、それ以外でマレー半島東海岸を訪れる人はほとんどいませんでした。

 1957年の独立後もマレーシアで旅行は庶民の間で浸透しません。それどころか、特にマレー人の間で旅行はヒッピーや麻薬と結びつく悪いイメージがあり、旅行は嫌煙されていました。断食明け大祭であるハリラヤなどで帰郷する程度の移動はありましたが、それ以外ではほとんど遠出をしなかったとみられています。

政府が観光業を一大産業に確立
 マレーシア政府が観光に力を入れはじめたのは1970年代に入ってからです。それまでマレーシアはゴムやスズの輸出による外貨収入に頼っていました。しかし、不景気でゴムの国際価格が下落し、スズも主な鉱床を掘り尽くし枯渇していったことから、商品の輸出に依存しきれなくなっていきました。そこで政府が目を付けた一つが観光業なのです。

 まず、政府は初めて観光促進を目的とした、貿易産業省管轄の観光開発公社(TDC)を1972年に設立しました。また、中期経済開発計画である第3次マレーシア計画(1976~1980)では、初めて観光を一つの産業として認めました。

 1985年になると、当時のマハティール首相は観光を主要産業にすると明言。1987年には観光文化芸術省が創設され、TDCはこの省に組み込まれて本格的に観光振興に力を入れていきます。

 1988年に「魅力的なマレーシア」、1990年に「マレーシア観光年」といったキャンペーンを次々と展開し、国内外の観光客の誘致に力を入れていきました。1992年にはマレーシア政府観光局が設立され、海外にも支店を置いて、観光客数の誘致に注力していきます。また、多くの観光客を引き寄せるには、当時のスバン国際空港では旅客能力に対応できないため、1993年にクアラルンプール国際空港(KLIA)の建設を着工させ、1998年に正式に開港させました。

 政府のこれらの努力の結果、1970年にはわずか年間7万6,000人だった海外からの観光客数は1998年には550万人を記録。2012年には2,500万人を超え、観光収入もこれに伴い大幅に上がっていき、一大産業として確立していきました。

 マレーシアの主要産業は製造業などもありますが、年間2,500万人以上の観光客が来て、お金を落としていく観光業は、マレーシア国内経済を大いに潤しました。政府はその後に年間観光客目標数を3,000万人に設定してきましたが、なかなか到達せず、2020年にもこの数字を掲げていました。

 しかし、新型コロナの世界的なパンデミックで、マレーシアは国境を封鎖したため、同年の観光客数はわずかに430万人。1998年の数字を大幅に下回る事態となりました。

 2020年は国内各地の大小のホテルも廃業を余儀なくされました。1年を通じて感染拡大に歯止めがかからないため、国内の移動も大幅に制限されました。年が明けた2021年も1月から州越えだけでなく、州内の地区移動さえも制限が加えられ、国内観光さえもできない状況が今も続きます。

 マレーシア観光協会(MATTA)も政府の支援策を再三にわたって求め、マレーシアの観光業界は瀕死の状態にあります。5月に導入された活動制限令(MCO)で国内観光は禁止され、さらに6月1日から発令された「全面ロックダウン」でホテルは濃厚接触者の隔離者のみの宿泊を認め、それ以外の宿泊を一切禁じています。こんな状態がいつまで続くのか。前回ご紹介した「制限された団体旅行」でさえもこれでは難しいでしょう。ほかの経済セクターも同様ですが、このウイルスが消えていかない限り、観光業界の生き残りも難しいでしょう。

写真:クランタン州コタバルのイスマイル・ペトラ・アーチ


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