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学問って何よって話:えつおの日記

言葉はその人にとってのクロワッサンだ

noteを初めて書いたあたりの記事で、そんな感じのことを書いたなと思った。
最近、僕にとって「すごい人」を表現する言葉は「優秀」になって来た。一緒に住んでる人がその言葉を多用するから、僕にとって「すごいじゃん」「最高」「憧れ」みたいなニュアンスがふんだんなく含むことができる言葉になった。
そういえば就活で、社員の人に対して「優秀ですね(=すごいですね)」と言ったら、
上からじゃん(一応笑ってた)
って言われて、え?ってなった。
その時思ったのは、僕は気づかぬうちに社員さんを相手に見下していたのだろうかとモヤモヤした。
このモヤモヤを抱えたまま、今日に至った。

今日、授業で哲学的な話をされた。
内容は、「客観なんてものはなくて、客観ぽい主観しかない」的なものだと解釈している。
僕のよくお世話になってるカタリバでは、「対話」という言葉が飛び交うが、その言葉の意味合いとして僕が認識しているのは「お互い分かり合えないことを前提に、なんとかしてわかり合おうとする心の動き」であるとしている。
相手のことなんてわからない。そして、客観的に見ることで自分ではない誰かの目線でものを言うことはできない。

そうじゃん。
相手のことなんてわかるはずもない。かく言う自分のことですら十分に理解することさえも困難を極めると言うのに。
でも世間一般的には、その事は至極当然であると豪語する人たちもいて。
つまり、他人と自分は違うんだから、そこに思いやりが必要だ。と指摘する人たちのことである。

本題に戻る。
僕の言う「優秀」と発音される言葉の意味合いは
①日本語的な意味:他より一段と目立って(=秀)優れていること。
②僕の意図する意味:いいじゃん、最高だ、すごい、憧れ
③認識されてると思われる意味:へぇ、やるじゃん(上から目線)
の3パターンもあることがわかる。
しかし、日本語ネイティブな僕らにとって①の日本語の辞書的な意味よりも③のその言葉によって自分がどう感じるか、その言葉が自分が出会って来た人間の多くがどう感じると表明して来たかの意味を重要視する。
その思考回路の中に②のパターンの存在があるなどと考えもしない。
※こう思うのも僕が今まであって来た全てを含むコンテクストで紡いでいる

この②のパターンは人によって違う。
生まれてからどんな言葉をどんな風に、何回、どんな環境で聞いて来たか、そしてどんな体験をどんな風に、それも何回して来たかによって変わってくる。
だからこそコンテクストが発言する言葉の意味を左右する。
そのコンテクストを理解できない=他人のことを理解することはできないのだから、どのコンテクストによって紡がれた言葉なのかを吟味しようとするマインドが必要だと「僕は」思った。
五感と思考、感情、それらがどのように層をなして来たかのコンテクストはどうもクロワッサンの層のようになっていて、その層の味や枚数、順番によって味が変わる。
僕のクロワッサンを食べて「不味過ぎ、お前のクロワッサン最悪だわ」って一気に言っていいものでもない気がする。
これは自戒でもある。
なんかお前の考え合わないわ、って一蹴することなかれ。
相手には相手のコンテクストが存在する。
ネイティブだからってその言葉の真の意味を理解できたと思うなかれ。
同じ言葉を使っても同音異義並みに違うこともある。
だからもっとみんなのことを受け入れられるような人になろう。

そんなことを感じた日でした。

学問って楽しい

みたいなことを考えたりすると、この考えのきっかけを与えてくれた一つが今日の大学の講義だなって思って、
学問っていいなって思ったりもした。
そういえば昨日、同居人たちとご飯を食べた後にくつろいでいるときに、僕らは知らぬうちに西洋哲学の思考に染まってるんだって話とかをしたり、学問をメインにできるのは学生の特権だみたいな話をした。
そういえば、僕の大好きなあなごんもnoteにたまにそんなことを書いてたっけ。
僕は割と怠惰な方だから、学問好きかって言われたら好きではないと思ってたけど、今日のこの気づきがあって、ちょっと考えが変わったというか、彼らの気持ちがなんとなくわかったような気がした。
今書いてる卒論も、よくわからなくなったりするけど、
結局のところ、空海ってなんで仏教徒なのに神様から土地もらった説話があんの?っていうそれだけでよくて、それ以上のことは、なんでそうなの〜?みたいな感じでラクに考えたらいいだけじゃんって思った。

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