生まれてから初めて見た景色

01

「あ、来た来た」

芹香のその一言に合わせて真夢も視線の方に目を遣った。

陽差しの届かない高架線の下で、二人静かに耳をそばだててその瞬間を待っていた。
この独特な気配を彼女は好んでいるらしいが、
何度期待しても自分はそれを味わうことはできずにいた。

「やっぱり、わかんないや」

轟音の後、照れ笑いを浮かべて真夢の方から沈黙を破った。
何も言わずに口の端を少しだけ上げると、芹香はいつもの道をまた歩き出した。
これまでに幾度こうして数㎝の距離が埋まることなく歩いたのかは、もう二人とも数えてはいないだろう。
沈む陽を前に自分より小さな背中を見たのは。
そのまま何も言い出せずに別れの踏切に差し掛かったのは。

自分とは正反対。ありきたりな喩えを用いるのならば月と太陽。それが彼女、黒川芹香を初めてオーディションで見たときの印象だった。明るく自然な表情と自信に満ちあふれた様子がダンスや歌声で伝わってきた。誰よりも会場の衆目を集め、目を惹いていたのは間違いなかった。その隣にいたもう一人の長い髪の少女と共に。
観ている人を幸せにできる、アイドル──。
彼女を見ているとそう感じざるを得なかった。
だから、合格の通知が自分に届くなんて思ってはいなかった。自信がないわけではなかったし、やりたい気持ちがあったから、それを望んでいなかったと言えば嘘になるが、二人を見てからは断言できない小さな自分の姿がそこに取り残されていた。

「あなた名前は?」

一期生合格者が集められた場所で、怯えたような自分に声をかけたのは、あの日見た少女のうちの一人だった。

「し、島田真夢、です」

おそらく年上か、高校生ぐらいだろうとやや大人びたその風貌から判断し、咄嗟に敬語でそう答えたが、

「そう、まゆ。私は岩崎志保」

とだけ告げると挨拶もなしに、

「あ、あと、それやめてね。志保でいいから」

と、返す間もなく告げて颯爽と立ち去っていった。

「うーん、なんか、いきなりピリピリモード?」

「わっ」

威圧的な少女からの緊張も解れぬ間に、今度はあの日見たもう一人の髪の短い少女が脇からひょいとニヤけた顔で現れたことに思わず声を出してしまった私を見て、

「はい!私、黒川芹香だよ。よろしくねー」 

と屈託のない笑みを見せながら差し出してきた彼女の手にそっと指を重ねた。

「あれ?緊張してるの?じゃあこれあげるね。お守り」

握った手の中から現れたのはかわいらしい嘴とやけに間抜けな表情をしたひよこのキーホルダーだった。
思わず、かわいいと、ふき出してしまった頃にはもう身体を包む糸は解れていた。他の何人かにも声をかけてはすぐにうちとけあい、和やかな雰囲気が彼女を中心として形作られていた。
志保にも同様にしていたようだったが、彼女は素っ気なく腕を前で交差させたままだった。
志保は一人でいるところを多く見かけていたが、キャプテンに指名された麻衣にも動じず相対していたり、覚えの良いメンバーには嫌味なく慎ましやかにコツを訊ねたりする姿勢はメンバーの誰もが、彼女が中心であることを認めるのに十分な要素だった。
芹香はといえば、元来のアイドル好きからなのか、そういった姿をこそ見せなかったが、才能とも言うべきそのアイドル性を存分に発揮していて、一方で置いてきぼりをくらわぬよう二人に追いていこうと必死にもがくので自分は精一杯だった。

メジャーデビューのセンターの発表の場において、白木さんの口から出たのは「二番」という言葉だった。
刹那、それをしてはいけないと頭では判っていながらも止められなったのは、ただ純粋に彼女のことが気になったからだというのは決して嘘じゃない。
そこに、さっきまで立っていたはずの自分の隣に、志保の姿はなかった。アイドルの心得の復唱を終え、逆隣にいた芹香が、白木さんが退出したのを見るや、とびついてきた。

「真夢、すごいよ!メジャーデビューだよ!センターたよ。まゆ、まゆぅ……」

再び「わっ」と声をあげそうになるのをすんでのところで抑え、彼女を受け止めた。さっきまで笑っていたかと思えば、瞳を潤わせながら喜びを露わにする芹香とは対照的に、未だあっけらかんとした真夢を見たまいまいが

「まるで芹香がセンターみたいだね」

と言って笑いに包まれた中で、ふとその影に目が留まった。

「志保……」

一秒にも満たない静寂が過ったが、彼女のすぐの一言で一気に晴れた。

「真夢、おめでと」

意外な言葉に豆鉄砲を喰らった鳩のような表情でいた。
「もう、なにぼーっとしてるのよ、確かにね私は悔しいけど、これは勝利の女神が真夢に微笑んだ結果なんだから。今回は私の負けってことにしておいてあげる。けど、油断してたらすぐに追い抜いてやるんだからね。ちゃんと前髪掴んでなさいよ」
こうして晴れて初代センター島田真夢が誕生したのは、東京で例年より遅く桜が開花を告げた日のことだった。
リトル・チャレンジャー。
小さな挑戦者。
直訳するとそんな意味だろうか。文字通り挑戦者として始まった真夢たちの戦いはデビュー曲オリコン一位。ミリオンセラーのお墨付きという出来過ぎだと思えるほどのものだった。
売上発表を終え、帰りに用事があると一人で帰途についた。
本当は一人になりたかった。一人になるべきだったと思い込んで少し嘘を吐いた。
先程までの余韻がまだ残っているのは確かだった。
それと同時にとてつもない不安感に包まれていた。
多分、自分だけじゃない、その場の全員によぎったであろうその疑問に。

「「どうして私【真夢】なの?」」

芹香も志保も、声をかけてくれた。
他のメンバーの、全員の表情まで確かめている余裕はなかった。ただその瞬間、「二」というその番号が読み上げられた瞬間、顔を顰めたものはいた筈だった。
認められた、という思いとは裏腹に、納得──自分を認めてあげるということができるはずはなかった。そんな事を二人にも、誰にも直接たずねたことは一度としてなかったけど。
自分の身勝手に閉じ込めた感情に振り回されるわけもなく、I-1 clubはグループとしての結束を固めていっているようだった。

「武道館とかさあ、しょーじき実感わかないよねえ」

立ち止まってこちらを振り返らないままそう零した芹香の表情は赤橙色の壁に遮られていた。
声の調子からはいつも通りの彼女ではあろうと推し測ってはいたが、そうである確証もなく曖昧な相槌にとどまった自分を直後に悔いた。

「真夢ってさ、……」

「うん?なに?」

一瞬というには長すぎた次の瞼が降りる頃、彼女の微笑みと共に夕闇が姿を見せた。

「なんでもない。がんばろうね」

「うん」

できるだけ抑揚を忍ばせて首肯した目は彼女のそれと合うことはなく、ついに表情は掴めなかった。

02

「失礼します」

重厚な扉の向こうでキーボードを叩く音が一瞬止まったが、すぐに、どうぞという一言の後で再び鳴り始めた。そのさきに麻衣が見たのは当然、白木の姿だった。促されるままに、一声かけて弾力のある椅子に腰をおろした。
デビュー曲のセンターを発表すると宣言されていた日の前日。
これを置いて他にはあるまいと白木はすかさず重苦しい空気を蹴り飛ばした。
「単刀直入に言います。デビューシングル、リトル・チャレンジャーのセンターは二番でいきます」
直前に麻衣の頭にあったのは二つの答えのみだった。

<センターは真夢>

<センターは志保>

一応想定内の結果に安堵した彼女の思いをよそに白木は続けた。

「一番。キャプテンを任せている以上、事前に知っておいていただいた方がいいという判断です」
そして尋ねられる。
「質問はありますか」
この状況で、引っ切り無しに回り続ける頭に浮かんだそれを言葉にできる者などいるのだろうか。すべてを受け入れたように、いえ、とだけ伝えると話は終わり、麻衣は徐に立ち上がり、部屋をあとにした。

「ああ、緊張したあ…………」
女子トイレの鏡の前でそこに映る姿を見つめる。
思わず、「えっ」と声をあげたときにはすでに遅かったと判った。

「別に、」

「立ち聞きするつもりなんてなかったのよ」
鏡越しに見る彼女の瞳からそれが本心なのかを認める術は麻衣にはなかった。
「あの娘には、真夢には、私にはないものがある。初めて見たときから、わかってた。悔しいけど、これが現実、いえ、事実かしら。白木さんにはちゃんと見えていたってことね」

「麻衣はどう思う?」

どっちかだと思ってたよ。

それは紛れもなく真実だったのだが、それを口にしたところで何の意味をも成さないことを理解していた。臆病な逡巡の後に出た言葉は結局、一人の少女に寄り添ってあげられるだけの力も持たない、上に立つものとしてのありきたりな言葉でしかなかった。

「しほっちの実力は誰もが認めてる。白木さんも、もちろん私も。次は勝とう」

そうね、ありがと、と素っ気なく言った彼女は何食わぬというように少くとも麻衣には見えた。

03

目覚まし時計の設定時間を間違えたのであろう蝉の声に叩き起こされた。
リビングに降りて母に挨拶を済ませると、光ったままの小さな箱のなかで、見知った人が自分たちにするのとかわらない調子で淡々と会見に応じていた。当然、世間からの注目度も高まっている。母も上機嫌なのか鼻歌交じりに朝食の準備をしていた。小さい頃に何度か聞いたことはあってもその曲名は知らなかった。

「なんか、実感わかないなあ……」

まだ呆然とした頭のまま、芹香が残したその言葉をふとなぞっていた。

「何言ってるの真夢ちゃん。武道館なんて一生に一度でも立てるものじゃないんだから。ぼーっとしてたらあっという間に過ぎちゃうわよ」

そうなんだけどと、相槌を打ちながら、そういえばさっき口ずさんでいたのなんて歌だったの?と軽い気持ちで訊いてみたが、ハッとしたような母は、曲名は何だったかしらと濁し、そそくさと台所へと戻っていったから、そうなんだと気にも留めずにいた。
早朝に響き渡っていた鳴き声はもう聞こえていなかった。
駅までの道すがら、すでに汗染みたシャツをうとましく思いながら、信号の色が変わるのを待っていた。
照りつける陽射しに手を翳しながら、なんとなく顔を上げた折、時期尚早の蜃気楼の中にその姿を認めた。
一瞬だとしても、それを見間違うほど彼女のことを見ていなかったわけではなかったから。
あの、大胆にうなじを晒し出すきれいに短く切りそろえられた髪と、何より他にない、ほの笑った顔、遠くからでも判然とする扁桃の目元、柔和な口元、どれをとっても芹香の表情に違いはなかった。
芹香がそこにいた。

それだけならば、微かな期待の蕾が残されていたかもしれなかった。

芹香がわらっていた。

缶コーヒーを片手に微笑む人の隣で。
自分も見たことがないほど美しく笑っていた。


真夢の心を置き去り、嘲笑うように、初の武道館公演は大成功を収め、直後に発表したセカンドシングルはデビュー曲に続いてミリオンを達成。一気に弾けた種は瞬く間に日本全国、世界へと飛んでいった。年末には国民的歌番組にも出演を果たし、名実ともに、”国民的アイドル”の座に駆け上がった。新期生を迎えてもなお、その中心にあったのは真夢の姿だった。
彼女が支え立たされていたのはもはやひとりには大きすぎる重圧と、あのとき見た光景が、なんということもない、あるいは夢か現か、見間違いだったという儚い嘘で作り上げられた薄氷のステージでしかなかった。
だからその日の帰り道に芹香の方から誘ってきたものの、純粋な喜びだけで二つ返事するほどの勇気はなかった。自主練で残ると言って逃げることもできたのに、向けられた笑顔の忠誠心に従った。

「いやー、私達どこまでいっちゃうんだろうね」

無邪気に言いながら前を歩く芹香の背中が前までとは同じであったのかはもうわからないほどだった。

「芹香、最近、その、たのしそう、だよね」

当たり障りもなく選んだつもりのそれが契機であるとは考えもしなかった。
えへへと、あの日見たその前兆を察して、咄嗟に目を逸らそうとしたときにはもう彼女の後ろで、太陽は山に隠されていた。

「真夢ってさ、」

いつもは、いやあとか、うーんとか、感情を吐き出したように話し始める芹香にいきなり名前を呼ばれ、心臓を鷲掴みにされた気分だった。次に彼女の口からデルタ一つの言葉も聞きたくないと耳を塞ごうとしてもそれは徒花と散った。

「真夢は好きな人、いる?」

不意を衝く彼女の問いにすぐに返すことができた理由はわからなかった。

「い、いないよ……」

自分ではないような感覚のまま言い終わらないうちに、すぐ上で轟音と風があてつけのように過ぎて行った。
自分の声がはっきりと芹香に伝わったかどうかは半信半疑であった。ただ、電車が通過している間、じっとこっちを見つめていた彼女に動く唇を読まれたに違いないという確信はあった。
どうか、きいていないで、きこえていないでいてと張り裂けそうな思いのまま彼女の言葉を待っていた。
じっとこちらの様子を窺っていた通りすがりの黒猫に、一言にゃぁとでも鳴いてくれればいいという期待は儚い徒労に終わった。

「真夢は、誰かを好きになったこと、ある?」

どう答えるのが正解なのか、おそらくそこに正しい答えなどないということを知りながら、それが目の前に現れた。

「私ね好きな人がいるんだあ」

やめて。

夜の帳が下り始めた街で、悲痛な思いとは裏腹に、彼女の表情ご次第に綻んでいくのが判った。

それってあの人のこと?

私にも見せたことがない顔で微笑んであげる人?

「あのね、真夢、人をね、誰かを好きになるって普通のことなんだよ。当たり前なんだよ。でもそれってすごいことなの。人を好きになっちゃいけないなんてこと、ないんだよ」

前を行く芹香の表情は暗闇に隠されて未だ見えない。

「でも、でもね、芹香、私たちはアイドルだから、だから……」

続く言葉を言ってしまえばそれは彼女を否定してしまうことを意味する。それが恐ろしくなって沈黙に身を委ねる他はなかった。
どこか遠くで九月の蝉がなく声が気がした。
暫く続いたそれが真夢の身体を冷やしていく。
背中の汗が流れ落ちる前に、漸く芹香が口を開いた。

「アイドルだって、人間なんだよ……」

『あなたたちは人間である前にアイドルです』
幾度となく響いたその思い声がまだ耳に残っている。
それは即ち白木への、I-1 clubへの、アイドルの”否定”であった。

「好きになった人に想いを伝えられないなんて、私はやだよ」

身近な友達でも、テレビの中の会ったことのない歌手も、駅前で歌う誰かしか知らない女の子だって、誰もが、誰かのアイドルなんだよ。私だって、今はアイドルっていう立場にあるだけで、その人は、私にとってのアイドルなんだ。

そんな概念的な主張はこじつけに過ぎない。いくら説明して説得をしたとはいえ、実際には掟破りである。裏切りである。今、自分の前で思いの丈をぶちまけわ清清しい様子の彼女にかけるべき言葉の一つでも見つからないまま、別れの踏切に差し掛かっていた。

「私たちって何なんだろうね」

04

「わたしたちってなんなのかしらね」

ハッとして視界に入ったのは志保の姿だった。

「し、しほっち」

「なーんか、関係ないところで揉められるのも嫌だから。どうせ、あの娘<芹香>のことでしょ」

図星だ。いつも志保は核心を突いてくるようで、その見透されたような瞳と声調が真夢は苦手だった。

「ねえ、しほっちはどうしてI-1に入ろうと思ったの」 
意外な質問だったのか、驚いた様子の志保は一瞬だけ目を閉じて答えた。

「そんなの、そんなの真夢に教えるわけないでしょ」、その意味をすぐには理解できず呆気にとられていると、

「はあ、もう、そういうところ。なんというか、抜けてるわよね」

嘆息交じりに言うと、近くにあった自動販売機にコインを入れて真夢に促した。

「押して」

へ?という表情の真夢に、早くと急かすから、ちょうど手を伸ばした位置にあったそれを確認も無しに勢いよく押下した。

「認めてるんだからね、真夢のこと」

ガコンという音に合わせて出てきたのが缶コーヒーでそれも無糖のものだったのを見た志保は思わずふき出した。
なんでこれなのよと言いながら、爽快な音とともに開いたそれを一度だけ口をつけて真夢の手に渡した。

「わたしはこういうの飲まないから、一口だけ、はい」

それを受け取って缶に口をつける。
匂いのあとで口に広がるその液が舌に触れるとすぐに口を離した。

苦い。

「真夢には早かったわね」

それだけ言うと志保はさっさと言ってしまった。
残ったそれを捨ててしまえるほどの勇気もなく、口に無理やり流し込んだ。

やっぱり苦い。

どうして大人はこういうのを好んでのむのかわからなかった。
毎朝飲んでいる母に聞いてもきっと納得を得られるだけの答えは見つからないのだろう。

舌の上のほろ苦さだけが未だ消えずにいた。

それから二、三日経ってのことだった。
いつものようにレッスンを終え、各々帰る準備をするのを横目に部屋を出て時間を持て余していた。何をするわけでもなく、ただ一人で着替え、一人で帰るつもりだったから。
今日は四つ。
ロッカーがまだ閉められていなかった。志保と麻衣、それに一つは自分だからあと一つは愛だろう。自主的に残って練習をする人は自分たち以外にいるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、晴れない真夢の前に現れたのは、ショートカットかよく似合う少女だった。

「真夢。今日も自主練?」

「うんん、今日はもう帰るの」

そのとき自分が確かに彼女の名前を呼んだのかがもうわからなくなっていた。

「そっかあ、そうなんだ」

どちらが言い出すでもなく、二人は同じ帰途に並んで歩いていた。

二つの影が夜道に伸び、時折一つに重なろうとしては離れるを繰り返し、結局交わることはなかった。

言わなくちゃいけないことがある。聞かなくちゃいけないことがある。
二人でよく歩いたときには、たいてい一つは引っかかっていた信号機は、こういうときに限って立ち止まることを許してはくれない。まるで進み続けなければいけないと言わんばかりにどこまでも緑青の目が光り、二人を睨みつけていた。
漸く歩みを止めてくれた踏切に、いつものいらだちを隠して感謝した。
遮断機が下りている時間のわりに通過する電車は少ないから、カンカンカンカンという乾いた音だけが闇夜に響いていた。
少し背の高い真夢の身体が隣の短い髪をそっと揺らした。
遠くで聞こえた気がしたが、それが近づいてくるのが気配で瞬時に読み取れた。

「私は、芹香のことが、……好き……だった……」

言い放った直後に二人の前を轟音と凄まじい風を起こしながら走り抜けていった。
こんどはちゃんととどいたのだろうか。こっちをみることなくまっすぐに、それが永遠に過ぎ去らないよう祈るように目を向けていた芹香はしかしはっきりと答えた。笑顔で。

「知ってた」

やっとの思いで口にできたその言葉を受け取った彼女の表情は、あのときに見た穏やかさに重なった。

「うん、違うね。わかってた、かな。私もそう、だったから」

一呼吸おいて芹香が続ける。

「真夢が嘘を吐いたなんて思ってないよ」

「でも、私は、」

「はじめっから、違ってたんだよ。きっと。見ている空が」

一瞬を永遠に悔いた。
もしも、もしもやり直せるのなら。どこまで戻せば正しくなれるの。
あの日、あなたの笑顔を見た日?それとも初めて出会ったあの日?
咄嗟についた一つの嘘で、たった一つの釦のかけ違いだけで、二人の瞳に映っているものはまったく違っていたの。同じ夢を見ていたはずだったのに。

「コインの裏ってね、表から見れば裏だし、表は裏から見れば裏なんだって」

「真夢にもわかるでしょ?人を好きになるって、すごいんだよ……」

夕立のように溢れそうになる想いを抑えるので精一杯だった。
手にしたコインを煌々と光り続ける自動販売機に向けて入れ、すぐに手の届くそれを押下した。
勢いよく開けたせいで少しこぼれたのを気に留める様子もなく、笑いながら口から流し込んだ。

「えへ、やっぱり苦いね、これ」

彼女の瞳に映る星を認めながら、

「なんでそれにしたの」
その一言が喉の奥に詰まったままだった。


05

「五番」

そう、確かに言い放たれたとき、場には衝撃が走った。堰を切ったようにあちこちから漏れる溜息や声を引き裂いたのは彼女の一言だった。

「やめたくないです」
泣きながら、縋るように続ける。
「どうして恋愛しちゃだめなんですか……」

届くはずもない悲痛な叫びが真夢の心にのし掛かった。
あるいは、その思いを、心から白木に、頑として鉄の掟を譲ることのないであろうその人にぶつければ可能性はあるかもしれないと、少なくとも二人は考えていた。
その空しい反論の後に彼が放った一言を耳にするまでは──。
崩れ落ちる芹香の背中にかける言葉をすぐに手にすることができなかった真夢が、黒い太陽が沈んだ部屋でやろうとしたことを察したのは志保だけではなかった。
扉のそばに立ってじっと睨むように見つめる志保の方へ走り出そうとしたとき、咄嗟に手を掴まれた。大きすぎるキャプテンの手に。

「麻衣、離して」

「真夢、落ち着きなさい、どこへ行くつもり?どうするつもり?」

答えられるはずもないその問いの答えは二人には筒抜けだった。

「行ってどうするつもり?何ができるっていうの」

叱責するように追い打ちをかける志保の声はまたしても正鵠を射た優等生だった。志保はいつでもタダシイ。現センターである自分が進言すればひょっとしたらという自惚れがないわけではなかったのに。それでも志保や麻衣を巻き込むわけにはいかなかった。
だからここで大人しく一旦は引いた。ふりをした。
いつの間に、いつの間に自分は嘘を吐くのが得意になってしまっていたんだろう。

その日はレッスンあとに残るメンバーはいなかったから、一人残った部屋で着替えしていた。今日やるつもりはなかったけれど。
扉を閉めてすぐ目に入ったのは志保の姿だった。

「真夢、わかってる?まいまいもわたしも、まゆを攻めるつもりなんてないのよ」

俯きながら曖昧に相槌だけを打った。

「こんな言葉知ってる?」

唐突に話を始めた志保の声にただ耳を傾けることしかできなかった。ほんとは聞きたくないと耳を塞ぐこともできたのに。

「思いなんて、言葉で伝えても伝わらないんだから。ましてや、言葉にしなくても伝わるなんてことはないわ。わかってくれるはず、わかってくれないなんてひどいなんていうのは都合のいい我が儘。幻想よ。あのときこうしていればなんて思うことにも意味はないの。でもね、そうやって何もできないと思いながら過ぎていく日々が、普通だって思ってたのが、こうして、知らないうちにかけがえのないものになっていたりするのなら、この出会いにだって意味があると思えるの。たまに立ち止まって振り返ればほら、足跡がちゃんと道に続いてる。何かが終わったらほら、また新しいなにかが始まるから」

言い終えると背中を向けて去って行く志保が立ち止まり、あ、そうそうと思い出したように告げた。

「初恋は叶わないからいいんだって」

後ろ手で立てられた二本の指が小刻みに揺れていた。


「話があって」

子犬のように怯えたような表情がいつもの彼女と違っていたのは明らかだったが、あるいはこちらが本懐であるかもしれないという疑念に近い雲を払拭できずにいた。それが余計に志保を苛立たせた。

「手短に願いたいわね」

「志保、しほっちってさ、なんで私のこと嫌いなの」

大方、予想はしていたつもりだったが、直接真正面から尋ねられるような人間だとも思っていなかったからか、僅かな躊躇が顔を覗かせた。

「嫌い、ですって?笑わせないで。一度でもあなたにそんな感情を向けたことはないわ」

「うそ……」

咄嗟に芹香が反論する。

「だってしほっち、私がいるときは自主練いなかった。いっつも」

「別に。気が乗らなかっただけよ。話ってそんなこと?」

敢えて冷たくあしらった二人の頭上を郭公が飛び去った。

「真夢を、I-1をよろしくね」

それに志保が応じるはずもなく、ただ芹香の様子を真正面からじっと見つめていた。

「あなた、何かは勘違いしていないかしら」
「そんな遺言じみたもの、受け取る気もないわ。どうしてもって言うなら、あの娘の前には現れないであげて」

06

次のシングルは二番と三番それぞれをセンターとして二枚同時リリース。勝った方をI-1 clubセンターとします。

「そんな……」

一人を除く全員のメンバーの視線が二人に向けられていた。
志保はじっとこちらを見ている。
真夢はそれを知っていた。
たぶん、麻衣も。
あの時と同じように事前に聞かされていたのだろう。

(ねえ、しほっち、怒ってるよね、こめん……)

声にならない想いを余所に、ただじっと、傷だらけの床を眺め、そのときが過ぎ去るのを待った。復唱を終えた後で、真夢は一目散に部屋を飛び出した。

「待ちなさい」
勝ち逃げなんて許さない、後ろで聞こえる声も全て振り払いたかった。
全力で走ったそこはデビュー前にみんなと、志保や麻衣と歌い踊った赤い橋の上だった。

どうして私が……。

好きな人を、芹香を庇ったから……?

そのことを悔やんでるから……?

違う。

嘘を吐いたから。

芹香を、志保を、みんなを裏切って傷つけたから。罰が当たったんだ。
自分が傷つきたくない我が儘のせいで。不確かな愛のせいで。
これでよかったんだ。
私にこの痛みを与えられていなかったら、きっともっとズルい人になって、そしてもっと多くの人を傷つけて不幸にしてしまっていたはずだから。
もしもやり直せたなら、なんて思わない。
そうであっても私は同じ選択肢を採るから。
もう一度、あの笑顔が見られるのなら、私が悪のままでいい。心の青い痣がどれだけ多くなっても。

降りしきる雨の中で目の前には捨てられた空き缶だけがただ横たわっていた。
夕立に濡れながら空を見上げて思った。
どんな雨も軈て晴れ間に変わるのなら、雲の上はいつも晴れ。

To be continued……七人のアイドル

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