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王妃の処刑



・結論ありきの裁判

アン・ブーリン王妃の裁判は、彼女の死で幕引きになることは最初から決まっていた。国王が三度目の結婚をするにあたって、新しい妻(ジェーン・シーモア)の慎ましく奥床しく、そして純潔だという評判に見合うよう、自分も沁み一つない体にならなければならない。
そしてこの裁判は、アン王妃をはじめ、彼女の「愛人達」の有罪判決が期待されていること。そして、皆はは有罪になり、特に王妃は死を賜るだろう。皆がそれを期待し、そしてそれを疑う者は誰もいなかった。
何故、アン王妃が死ななければならないのか。アン王妃の前、キャサリン王妃を見て見るが良い!彼女が大人しく身を引いたか。修道院に入ったか?答えは否。
彼女は7年間も抗った。さらに海外からは神聖ローマ帝国の圧力をかけられ、更に前王妃を支持する連中も出て来たではないか!
其れに、2度目の妻もきちんと始末しなければ、王はまた前王妃という重荷を背負う羽目になる。最初の妻が死んで、漸う解放されたというのに。
キャサリン王妃の死が、アン王妃の栄光の座を開くと思いきや、彼女への死出の旅路の道標になってしまったのだ。

そして今や、国王が2度目の妻に愛想をつかしたのは周知の事実だった。国王はまたも「良心の呵責」に悩んでおられる。
国王は、魔女にたぶらかされて間違った結婚をしてしまったのだ。
国王の良心は、国王の心のままに、真に都合よく動く。そのことには皆目を瞑るのだ。

アン王妃はもはや孤立無援で、絶望の淵に居た。
彼女が一体何の罪を犯したと謂うのだろうか。息子を産まなかった。
流産した。彼女が責を負うとしたらこの1点のみではなかろうか。
彼女が得た栄光、得るはずだった輝かしい未来は彼女の細い指からまるで砂のようにすり抜けて落ちていく。
最早彼女はロンドン塔の中だ。ただ、取り扱いは囚人と雖も厳しいものではなかった。見張りが付くのは囚人として普通だが、彼女の身の回りの世話をする女官が4人か5人居たことから、王妃としての待遇をまだ受けていたことがわかる。
ただ、彼女は完全に打ちひしがれていた。1月末の流産が彼女の身体と心に与えたダメージも完全には癒えていなかった。ロンドン塔の代官であるサー・キングストンはクロムウェルに「発作的に泣いたり怒ったりの繰り返しで言葉も支離滅裂で譫言めいている」と報告している。

ロンドン塔のアン・ブーリン

・断罪

王妃は酷く怯えていた。自分が何の根拠で罪を問われているのかさっぱりわからないのだ。
例えば、サー・ヘンリー・ノリスと共謀して国王の死を「企んだ」と謂われている。しかしそれで二人に何の得があると謂うのだろうか。アンは王妃で、彼女の娘エリザベスは国王の推定相続人だ。
更に王妃と関係したとの咎で多くの宮廷人が逮捕されている。1536年5月4日に、サー・フランシス・ウェストンと、ウィリアム・ブレレトンが収監された。
然し、「誰も王妃に不利な事実は謂わないだろう。マーク・スミートン以外は」と謂われていたようだ。
クロムウェルの煽動で網が張られ、王妃と共謀したことを匂わすものがあれば誰彼構わず逮捕する手筈だった。
然し、宮廷の男性が王妃を讃えるのは当然のことだ。詩人が王妃の美しさを称賛し、その愛を求める詩を詠うのは当然のことだ。
そして、言葉だけの恋愛ゲームを楽しむのも宮廷としては当たり前のことだった。女性が優雅に男性にしなだれかかるのも、チェスやカードゲームと同じ、宮廷での暇つぶしの一種だった。
思わせぶりな愛の告白、交わし合う吐息、意味ありげな目配せは、日常生活の一部に織り込まれる。但しそこに男女の交わりはない
ましてや国王の、ヘンリー八世の妻に挑みかかろうなど、危険この上ないことであるのは、宮廷人であればだれでもわかることだ。
行きつく先が断頭台と謂うのは火を見るよりも明らかであろう。
事実、彼等が深夜に王妃の寝室に忍んで入り明け方に出てきたのを実際に目撃したと証言する証人は居なかった。

但し、音楽家マーク・スミートンは王妃と情愛を結び金銭を受け取った、という告発を受けている。大した給金も貰っていないのに煌びやかな衣装を着てる!と、嫉妬を買ったらしい。
但し、王妃が若い廷臣にお小遣いをあげるのは、これもまたパトロンとしての伝統的役割に沿ったに過ぎないのだ。
ただ、スミートンは王妃に恋をしていた節があるという証言もある。アン王妃がその愛に応えたという中傷もあったがあまりにも根拠がない。
アンは、嘗て彼に、貴族身分でないものとあまり口を聞いてはいけないことになっている、と、彼に告げたと謂う。
それに対するスミートンの応えはこうだ。「お姿を見るだけで十分でございます」
サー・フランシス・ウェストンも、スミートンと同じ罪状で告発された。
ブレレトンへの罪状は明確にされなかった。
サー・ヘンリー・ノリスは、前述のとおり国王の死を企んだと謂われている。
経緯はこうだ。王妃の侍女、そしてヘンリーの一時の恋人マッジ・シェルトンとの婚約が進まなかったのは、ノリスが王妃に恋していたからだという。そして、問題とされたアン王妃の言葉はこれだ。
「死人の靴を欲しがろうというおつもりね。王に万が一のことがあったら、その時は私を手に入れようと仰るのでしょ?」
謂ってみればこれも恋愛ゲームの一種だ。ただ、国王の死というスパイスが入っただけで、それが悪意の解釈をされただけだ。

以上であるが、結果、全て「有罪」。4人全員がタイバーンで「法の定める一番の極刑」を受けると告げられた。
首吊り、内臓抉り、四つ裂きの刑だ。処刑の内容はここでは詳しく言及しない。エグいからね…。
気になる方は、自己責任でウィキ先生に教えてもらってください。気分悪くなること間違いなしです。
但し、この4人は後日「国王の慈悲」により、タワー・ヒルでの斬首に「減刑」されている。

・アン王妃姉弟の裁判

1536年5月15日。ロッチフォード子爵とアン王妃の裁判がロンドン塔のグレイトホールで行われた。
秘密裁判ではなく公開裁判で、2000人が傍聴していたという(スペイン大使シャピュイ調べ)
判決を下す26人の貴族で2人の知り合いでない者はいない。二人の伯父、ノーフォーク侯爵が主席判事。ロッチフォード子爵の舅(妻、ジェーン・パーカーの父)モーリー卿もその1人。嘗ての王妃の恋人、ノーサンバランド伯爵も名を連ねていたが、途中、具合が悪いと裁判終了前に退席した。
このようにして、人々の面前で近親者の繋がりを断ってみせるのは、謂ってみれば、「王への服従」を示し、忠誠心を疑われないための一種のセレモニーでもあった。二人の父親、ウィルトシャー伯爵は3人の子供のうち2人までも糾弾する羽目にはならなかったが、かといって、2人を取り立てて庇ったとか、この事件について何か物申したということはない。
事実、国王に楯突いた謀叛者の行為を非難している。さすがに、2人の子供についての名指しまではしなかったが、この点では、この時代の男であり、子供よりも家名を取った、とも謂える。
ノーフォーク公も目を潤ませながらも、役目はきちんと果たしたのだ。

先に裁かれたのは王妃の方だった。
アン王妃は、「賢明で思慮深い言葉で告発者に答え」「まるで本当に無実であるかのように見えた」と謂う。
彼女が示した真の聡明さと慎重さ、そして威厳ある落ち着きは、王妃そのものだった。彼女はキャサリン王妃のように王妃になる教育は受けていなかったけれど、自らの努力で「王妃」になったのだ。
そして、彼女自身、最早運命は決まっている、抗っても仕方がないと自覚もしていた。
後は王妃として死んでいくのみだ。
それでも、アン王妃は告発された内容に関しては無実なのは確かだった。
アン王妃も罪は求めていない。
アン王妃が自分の身分、そして命を脅かす危険を冒してまで姦通に走る心理的な必然性もないしそこまでするほど誰かに身を焦がすほどの愛を抱いていたという事実もない。単に火遊びの為だけに、自らの生死を握っている国王の命を奪おうとすることなどありえようか?
前述のように、性交渉のない恋愛ゲームは宮廷に於いて当たり前のことだったし、王妃が若い廷臣に小遣いを上げることも当たり前のことだったし、思わせぶりな言葉の応酬の後、女性が男性に優雅にしなだれかかるのも当たり前のことだった。
其れに、王妃の部屋に忍んでいく男を見たという証言者は居なかったし、王妃が辺りを気にしながら廷臣の部屋に通っていた姿を見たという証言者もいない。王妃が国王の死を願っている姿を見た者もいないし、国王に死を与えようと、呪いをかけている姿を見た者もいないのだ。
寧ろ、王妃は王を滅ぼす力など持っていなかった。王妃は、前の王妃のようにスペインの王女でもないし、フランスの王女でもない。神聖ローマ帝国を動かす力もないし、そんな力を持っている親戚もいなかった。

要するに、国王はアン王妃を今まさにそうしようとしているように滅ぼす力を持っているが、アン王妃は持たない。国王を暗殺しようとして失敗したら身を亡ぼすのはアン王妃で、国王に息子を抱かせることを出来ないことで身を亡ぼすのもアン王妃だ。国王ではない。

次にロッチフォード子爵の裁判が始まる。
彼への罪状は「姉と近親相姦していた」ということだ。後で現れた人身攻撃は「跡取りの男子が欲しい。そして、国王は自分を満足させてくれない」と不満に思う王妃が、よりにもよって実の弟を誘惑する。男子と、自分の満足を得るために───…。
そして、「そう」思わせるような証言をしたのは、よりによって、ロッチフォード子爵の妻、ジェーン・パーカーだった。
「夫は姉王妃とあまりに親密だった」「夫はいつも、姉の部屋に居た」
証言としてはこれだけだ。
流石にロッチフォード子爵もたまりかねる。
「たった1人の女の言葉でこの重罪を立証しようと謂うのか…!」
実際、たったこれだけの証言で、国王の暗殺と、更に近親相姦を実証するとは誰だって思うはずがない。
確かに夫はいつも姉の部屋に居たかもしれないが、例えば2人が寝乱れて同じベッドに寝ていたという証言は何処にもない。
更にロッチフォード子爵が謂ったという言葉まで登場した。
「王は妻との夫婦生活が出来ない。悦ばせる術も精力もないから」と。これは、近親相姦というちょっとありそうにないネタよりもずっとダメージが大きかったかもしれない。事実、国王は不能じゃないか、という噂はあちこちに出ていたからだ。

さて、夫を死に追いやった女、ジェーン・パーカーは何を思ってこんな証言をしたのだろうか。それは明らかになっていない。
実はロッチフォード子爵が男色家で、男相手に浮名を流しており、妻を邪険に扱っていたなんて話もある。夫婦仲があまりよくなかったという話もある。ただ、男色疑惑は、宮中でも女性からの人気が高かったロッチフォード子爵の評判とは矛盾するし、夫婦仲については確たる資料も残されていないので、これと断ずることはできない。
ただ、彼女としては、打算が働いたのではないかと思う。
「夫は破滅。でも、自分は難を逃れたい」と。

ただ、ジェーン・パーカーの告発は完全に、夫とその姉を破滅に導くことになる。
ノーフォーク公爵が下した判断は…筋書き通り「死刑」。
火炙りか斬首。どちらになるかは国王の判断による、というものだ。

2日後の5月17日。先の5人が、タワー・ヒルで最期を遂げた。
5人とも国王への忠誠を口にして死んでいった。
ロッチフォード子爵は、こういう見世物が大好きな連中に向かって語りかけた。これは、死刑囚の特権だ。
彼は断頭台を前にして、こういったと伝わる。

「諸君、私は、説教や講和の為にここにいるのではなく、死ぬためにここに立っている。法律がそう判断を下し、私はそれに従うのだ」と。
そして、「虚飾に満ちたこの世の中」ではなく、神を信じるようにと述べたと伝えられている。

そして、最期まで冷静に、断頭台に頭を乗せた。
諦観と敬虔入り混じる彼の心情に多くの者が、共感を寄せたという。そして、誰かが言い出す。
「ほら、やはり、ジョージは無実だったんだ」
と。

・アン・ブーリンの最期

最期に残されたのは、アン王妃である。
彼女一人遅れたのは「国王の慈悲」により、フランスの凄腕の処刑人が呼ばれたからだ。アンの頸を斬るのは、斧ではなく、処刑人の剣の予定だった。


処刑人の剣

斧だと、中々切れず凄惨な展開になる場合があるからだ。
王妃は、それを聞くとこう謂ったという。

「処刑人はとても上手だとか。それに、わたくしの頸は細いから、結構なことだわ」

そして、嘗ては誰もが称賛した「象牙のような項」をすっと伸ばしたという。その間、キングストンの記録によると、王妃はずっと「楽しそうに笑っていた」と謂う。
キングストンが受けた印象はこうだ。
「幾人もの男女がみな、処刑前は大いに嘆き悲しむのだが、アン王妃は死ぬことがとても嬉しくて楽しんでおられる」と。

さて、アン王妃は死ぬ前に奇妙な儀式が行われた。
国王の「2度目の離婚」の手続きだ。ヘンリー八世とアン・ブーリンの結婚の無効が大司教クランマーによって宣言されたのである。
これは、アンが産み落とした娘、「エリザベス」を私生児に落とそうとしたと考えるのが最も自然だろう
何せ、エリザベスをお払い箱にしても、「3番目の妻」が、男児を産んでくれるだろうから(そして実際そうなった)。
そして、3番目の妻の子供の地位をエリザベスが脅かすことはあってはならないのだ。

結婚の無効は5月17日付で布告され、裁判記録の公式謄本には6月10日に署名され、6月28日に国王と二番目の妻との結婚は解消されたのである。

但し、アン・ブーリンはその前、5月19日、午前8時頃に「迎え」が来ている。
この前日に大司教クランマーに懺悔をし秘跡を授かっている。

彼女の処刑に関して、1つの懸念事項があった。アンが死に際に群衆に向かって何を謂い出すかわからないのだ。
キングストンがクロムウェルに、アンは躁鬱状態にあると報告したことも懸念の裏付けになっている。
結局、アンに対しては「正しき口をきく」との約束で、民衆に語り掛ける許可を与えられている。

記録によると、アン・ブーリンは4人ばかりの若い女官を従えて、ほんの50ヤードばかりの少し上り坂になった道を副官寄宿舎から、芝生まで歩いてきた。
その様子は「とても陽気で、死にに行くようではなかった」と書かれている。
アン・ブーリンの内心はわからない。前向きに運命を受け入れようという気持ちなのか、或いは、漸う苦しみから解放されるという歓びであったのか。
少なくとも、「嬉しそうに喜んで」死んでいった、と謂うのが、他の人々を含めての記録だった。
そして、厳かで凛とした様子は、これまでで最も美しく見えたともいわれている。涙も、ヒステリーももうすべてお終いなのだ。

その日の、アン・ブーリンは、白イタチのマントを羽織り、その下に毛皮で縁取った暗灰色のダマスク織の緩やかなガウンと、深紅のペティコートを着ていた。白い麻の頭巾で髪を上げ、頭飾りをつけている。
そして、彼女は、民衆に語り掛ける。

「みなさま、わたくしは謙虚に法律の裁きに従います。自分の犯した罪の事で誰も責めようとは思いません。神が全てを御存知です。神の裁きにお任せします。そして私の魂に神の御慈悲がありますように」
そして、アンはこう続ける。
「我が君主にして主人たる国王に救いあれ。もっとも神々しく、気高く優しい君が、末永くあなた方を統治されんことを」
そして、アン王妃はにっこりと微笑んだ、と謂う。

そして、アン王妃はいよいよ跪く。女官たちが頭飾りを外し、豊かな黒髪は白い頭巾の中に収められる。白く細い頸が露になる。
そして、女官の一人が彼女に目隠しをする。


アン・ブーリンの処刑 跪く足の下のクッションが、彼女が「身分高い女性」であると示している。

「イエス・キリストに魂を捧げます──────」

彼女の唇がそう動いた。

そして

「剣を持ってこい!!!」

フランスの処刑人が階段近くに立っていた誰かにそう叫んだ。

然し、そう叫ぶや否や、何処からか剣が現れ、「あっという間に処刑人の剣が翻り、首が飛んだ」

実際は、首切り台の周りに積んであった藁の中に剣を隠してあったのだ。

アン王妃がまっすぐ前を向いたままで、本能的に首を竦めたり後ろを見ようと振り返ったりしないようにとの配慮だった。近くの階段の方へ声をかければ、アン・ブーリンは声をかけた方へとそれこそ本能的に首を伸ばすから。

アン・ブーリン 逝去。 

彼女の遺体はひっそりと、「縛られた聖ペトロの礼拝堂」に葬られた。

・Gloriana

この時、誰もが予想しなかっただろう。

無念の内に散っていったこの王妃が残したたった一人の忘れ形見が、紆余曲折を経て、イングランド史屈指の「女王」になることを誰が予想しただろうか。

その忘れ形見の名前は 

───── Elizabeth (エリザベス)










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