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Alexei Nikolaievich of Russia

「私たちにとって忘れがたい偉大な日だ。神のお恵みが私たちの所にはっきり現れた。
午後1時15分、アリックスは息子を授かり、アレクセイと名付けた」

1904年8月12日のニコライ二世の日記だ。喜びと興奮に包まれている様子がはっきりと見て取れる。
待ちに待った男子誕生だ。

1894年に結婚してから10年目のこと。パーヴェル一世以降ロシアの皇室典範では帝位を継承できるのは男性だけだと定められていた。その為、ニコライ二世即位後は皇弟ゲオルギーが、彼が肺結核で若くして亡くなった後は末弟のミハイルが皇位継承者として定められていた。
「私たちの小さな宝物アレクセイ」

結婚10年目にしてようやく授かった皇太子だった。父親譲りの美しい顔立ちをした子供だった。
幼い皇太子を抱く皇帝

アレクセイは、欧州王室の王室病ともいえるべき病を抱えて生まれて来た。
───血友病───

・ヨーロッパの王室病

ヨーロッパの王族は、結婚によってその血を王室メンバーで分かち合っていると謂っても過言ではない。然しそれは、遺伝子疾患をも分かち合っているということと同義だ。
ヴィクトリア女王の遺伝子、「血友病」。
皇后アレクサンドラは、この恐ろしい病の遺伝子を継いでいたのだ。
血が固まりにくくなり、皮膚に少しでも傷が付いたらそれは命にもかかわる重大時に発展することがある。特に、関節における内出血の長期的影響で動けなくなり、その痛みは耐え難いものだったと謂う。

血友病の治療の様子。

血友病は男子にのみ症状が現れる為、上の四人の皇女達には症状が現れることはなかった。ただ、三女のマリア皇女は扁桃腺の手術の際出血が止まりにくかったとの記録があり、若しかしたら彼女は血友病の因子を受け継いでいるかもしれないと謂われていた。但し、血友病の因子は女性が運ぶのものであるため、他の三人の皇女も保因者だった可能性は十分にある。
アレクセイの血友病が発覚する前、アレクセイの出血に不安を隠せないニコライ二世の日記を抜粋しよう。
「アリックスと私は、小さなアレクセイの出血に不安になった。臍の緒からの出血が晩まで断続的に続いた。侍医コローヴィンとゲカイフョードロフを招かねばならなかった。午後七時に二人は包帯をした。我が子は驚くほど静かで陽気だった。こういう不安な時を過ごすことはいかに辛い事か」
「朝、アレクセイの包帯にまた血が滲んでいた」
「今日は一日中アレクセイからの出血はなかった」
「御蔭様で愛するアレクセイの出血はもう二昼夜も止まっている」
皇太子の病は秘匿にされ、親族にさえも伏せられていた。

・無邪気で腕白な皇太子

皇太子のお守り役には当番の水平が常に付き添っていたが、出血は皇太子が躓いて転んだり、テーブルの角にぶつかったり、くしゃみした拍子に鼻血を出しても大出血に繋がってしまう。どんな些細な切欠でも起こるから細心の注意を払っていても殆ど防ぎようがなかった。
出血で臥せている時以外は、まだまだ小さい遊びたい盛りの男の子だ。加えて待望の男の子にして末っ子。そして、重病を抱えた子供だから、母はつい甘やかしてしまったのかもしれない。
悪戯好きで乱暴、叱られると大声で泣きわめいたりする小さな怪獣っぷりを発揮することもあったという。彼に謂うことを聞かせられるのはニコライ二世だけだった。
其れでも、明るくよく笑い華やかなこの子は、笑うとぱっと周りが輝く様な、そんな輝きを持った子であった。
こんないたずらっ子エピソードがある。姉達と同じように自転車に乗りたがったアレクセイ。勿論転んだら大変なことになるので禁じられていた。然しまわりの見ていないところで、こっそり自転車を拝借しよろよろ…と走り出した!
ある角を曲がったら、丁度閲兵をしていたニコライ二世と遭遇。
ニコライパパΣ( ̄ロ ̄lll) つ、捕まえろ!!!
閲兵どころではなくなりました。
ので、アレクセイ専用自転車搭乗!じゃーん!!

此れなら転ばない!

悪戯っ子だった小さな怪獣も、成長するにつれ、周囲を思いやることが出来る優しい子供に成長していった。

アレクセイの生涯で一番の記憶になり得るとしたら、1915年のスタフカ(本営)での日々だろう。
1915年秋、ニコライ二世は皇太子を伴い本営に滞在した。ゆくゆくはロシア軍を纏める立場になるアレクセイへの帝王教育も兼ねていたのだろう。


そして、皇太子の姿を見せることで、兵士の士気を高める狙いもあった。
実際、皇太子の姿を見た兵士の間では熱狂が沸き起こったという。それも、一兵卒の姿で!
大本営に向かう途中、父の閲兵のお供をしたり、兵士達の戦場での体験談を真剣に聞き入ったり、宮殿に居ては中々出来ない体験と自らの見識を広めることへの歓びで一杯だった。其れに伴い、元気にもなった。
兵士と同じ黒パンを食べ、宮殿で食べる食事を提供された時も「其れは、兵士の食べる食事ではありません」と拒否したと伝えられている。
また、妻を亡くした兵の所に「寂しく思っていると思うので一緒に居てあげなさい」とアレクセイを行かせたこともあったと言う。
父は、体が丈夫ではない息子をそれでも、ロシアのツァーリとして恥ずかしくない人間に育てようとしていたことが伺える。
父も、此処でのアレクセイの成長ぶりに手ごたえを感じていたようで「二人並んで寝るのは愉しいものです」「アレクセイは此処の私の生活に大きな光を与えてくれた」「彼と一緒にいると、我々全員に光明と生命を与えてくれるようだ」と書き残している。
けれど、そんな日々は長くは続かない。ロシア革命の足音がひたひたと、ロマノフ家に迫っていた……。

・崩壊の足音──ラスプーチン──

アレクセイの、ロマノフ家の最期を語るのに避けては通れぬ人物、其れがラスプーチンだ。「怪僧」と二つ名をつけられているが彼が聖職者だったことはない。彼の職業は「農夫」だ。
彼は、アレクセイを度々救っている。ニコライ二世の日記にも、ラスプーチンがアレクセイの症状を改善させたというが出て来る。
当時のロシアには民間療法、手かざしのような治療法を信じる下地があり、ラスプーチンがアレクセイに施した療法も催眠療法か、或いは歴史家、ジャーナリストの推測によると、1899年頃から流行しだしたアスピリン投与による鎮痛治療だったのではないかと推測されている。
何れにせよ、ラスプーチンはアレクセイの泣き叫ぶほどの苦痛を取り去ることができる人物として「聖なる人」「神のような人」「私たちの友人」と皇帝夫妻、主に皇后の絶大な信頼を勝ち取ることに成功した。

残されている写真の風貌から、そして暗殺の際文字通り「殺しても中々死ななかった」ことから、熊のような大男を想像されがちだが、青白いひょろりとした小男だったという。

とはいえ、ラスプーチン本人は、生まれ故郷に教会を建てる金を欲したことはあったにせよ、金は入れば飲食店で気前よく金を払って飲み食いし、人に融通してしまうようなところもあったという。
また、精力絶倫で、逸物も立派だから、女性達の崇拝を一身に集めただとか実際に内定した秘密警察が「非常に淫乱で醜態を極めた生活」とあきれ果てた報告書を出しただとか謂う逸話が残っている。
ラスプーチンが其処迄淫乱で奔放な生活をしていたか…は、定かではない。ただ、彼の手紙、教えは空虚な心を抱えた女性を捉えたのではないか。或いは、アレクサンドラの様に、マリア皇太后との不和、皇族女性達との冷え切った関係で孤独に打ちひしがれ、大切な息子の病気に酷く自責の念を抱き、自らを責め続けそんな言葉を誰にも言えない、ある種のノイローゼに掛かっている女性の心をとらえるのは容易かったと思う。更に、アレクサンドラは信心深く思い込みが激しい女性だったという特性も忘れてはならない。内向的な性格に加えて、宮廷内外での敵意に囲まれた孤独と不安が神秘主義の世界にのめり込ませ、ますますラスプーチンへの崇拝ともとれる系統に繋がっていくようにも見える。ラスプーチンに傾倒している女達は自分を「受難者」だと感じていた節すらある。
彼の説教はまさしく「愛の伝道師」とでもいうべきものだった。
其の一説を引用してみよう。
「愛は大いなる苦悩です。愛するものは食べることも、眠ることも出来ない。愛と罪悪は半ば混じり合っています。それでも、愛した方が良いのです。愛することで人は過ちを犯しますが、苦しみを負います。苦悩によって自分の過ちを償うのです。若しも人が愛しながら常に神を感じることが出来るとしたら!なんと大いなる歓びであり素晴らしい事でしょうか──中略──ああ、それにしても愛とは何と素晴らしい!光に満ち澄んだ心で愛することが出来る様、愛が苦悩でなく喜びを漏らすように神に願いなさい。───中略───愛の苦悩は身近なものを愛することを教えてくれる。私は間違いを犯すかもしれませんが、苦しみながら愛します。神の死との言葉にも「愛は多くの罪をあがなう」とあるではありませんか。神よ、私は貴方(神)のものです。貴方(神)は私です。私から貴方(神)の愛を奪わないでください!」

アレクサンドラ皇后は、支えを求めていたのはないか。宮廷内外の敵意に疲れ、一人ふさぎ込む日々。其処に、宮廷の堅苦しさもなく、形式ばったよそよそしさもないラスプーチン(事実彼は、平気で皇帝に触れたり、挨拶の時に肩に腕を回したりしたと謂われている)と逢うことに、その神秘主義的な話を聞くことに心の安らぎを見出していたのではないか。アレクサンドラは、皇太子の病気の為、そしてそれ以上に彼女自身の支えとしてラスプーチンを必要としていた。夫と離れている時は、心の安らぎの為にラスプーチンが必要だった。
だからこそ、ラスプーチンに恋文ととられかねない程に彼を求める手紙を出し(「あなたの聖なる方に私の頭を凭れさせたい」「先生の傍に居る時だけ、私は安らぎ休息できます」「貴方の抱擁の中で永遠の眠りに就きたい」「貴方が私の傍に居るだけで何と幸福な事でしょう」等々。何の予備知識もなく読むとラブレターでしかない)たのだろう。
第一次世界大戦の中、ニコライが戦地に赴くようになると内政は皇后の手に委ねられた。そして、皇后はますますラスプーチンに頼る様になり、政治への口出し迄赦すようになった。
ラスプーチンが何を考えていたにせよ、其れは極めて異常な事である。
そして前述のように、ニコライ一家はラスプーチンを異常に愛していたことから、皇后の手紙をラスプーチンとの赦されざる関係のように宣伝し、国民も其れを信じた。
そして、前々からラスプーチンは必要な手続きを取らずに皇帝一家と面会が出来る立場であったということも役人たちの不興を買っていた。
ラスプーチン自身も、自分の影響力を(本人が何処迄自覚していたかは別として)駆使し、自分の庇護下にある者たちへの皇帝一家へのとりなしや、教会への要職への口利きをするなどしていたため、ますます政府、国民、宮廷の眉を顰めさせていた。
ニコライ二世も、ラスプーチンの謂うことに流され過ぎる、ラスプーチンの意見を自分の意見として伝えて来る皇后を窘めることもあったが、皇后に反発されたり、時には泣かれたりすると、自分の意見を引っ込めて皇后の言葉を取り上げることがしばしばあったようだ。
この頃のニコライ二世の日記にはアレクセイの健康状態よりも寧ろ、皇后の精神状態、健康状態への言及が多い。
ニコライ二世は皇后を大事に思うあまり、ジリジリとロシア革命へと戻れない道を進みつつあった。

これらの事も鑑み、帝室ではラスプーチンは非常に危険な男であり山師でありロマノフ家の、ロシアの為にならぬと見做された。
ラスプーチンの排除計画は、皇后の拒否により失敗するが、ラスプーチンはマリア皇太后の孫の夫君、フェリックス・ユスポフ公を中心とする一派に暗殺される。

・帝政の終わり、そして────
1917年3月12日 ロシア帝国政府が崩壊。
3月14日から15日にかけての協議の結果「この際軍と王朝を救うためには、皇帝ニコライの退位と皇太子アレクセイへの譲位が必要だ」という結論に達した。
ニコライ二世が退位を迫られたのは、家族の待つツァールスコエ・セローへと帰ろうとしている最中だった。ただ、列車がストライキ等で動いてはいなかったが。
ニコライはこの日の日記に「周囲は裏切りと小心、其れに欺瞞だけだ」と、憤りの気持ちを書き残している。
そして、ニコライは誰に相談も出来ぬまま其れでも自ら考え抜いて「ロシアを想い」、退位宣言書に署名をする。
その時のニコライが綴った言葉を引用したいと思う。

「心から愛するロシアの安寧と救済のために、自分の息子に帝位を譲って皇帝の地位を引く心算だ。皆が彼に誠実に見せかけだけでなく仕えることを望む」
「私は母なる祖国ロシアの安寧と救済のためには、自分自身のいかなる犠牲もいとわない」

彼は、ロシアの為、祖国のために自らの犠牲を厭わなかった。
そして、ニコライ二世は、一旦は愛する祖国のために、息子を祖国に差し出す決意をする。
其れは、自らがアレクセイの傍に居て養育をし、教え導くことが出来るだろうという気持ちがあったからだ。
けれども、ニコライは退位をしたら、国外追放となり息子とは引き離されるだろうと聞かされ翻意する。
彼は、皇帝として自らの身を祖国に差し出すことは厭わなかったが、父親として息子の身を国に、しかも臨時政府に差し出すことは出来なかったのだ。
本来、帝位継承権のない女子は兎も角、皇帝の息子は、其れも皇太子であればそれは、ロマノフ一家の子供ではなく国家の子供だ。
皇帝であるなら、求められたならばアレクセイを国に差し出さなければならない。其れが、君主としてのニコライ二世の在り方であり義務であると謂える。
けれども、父親としてのニコライ・アレクサンドロヴィチとしては、どうしてもまだたった12歳の、しかも病弱な息子を差し出すことは出来なかったのだ。

自分が傍に居られないまでも、例えば年長の女子オリガやタチアナがアレクセイの傍に居てせめて彼が成人するまでは保護出来る、としても皇帝は恐らくアレクセイを差し出すことはしなかっただろうと、思う。

ニコライが皇帝になったのは26歳の時だ。その時も重責に潰されそうになり、マリア皇太后が励まし、勇気づけ背中を押し、アレクサンドラとの結婚に力を得て、皇帝として漸う立つことが出来たのだ。
アレクセイはまだたったの12歳。周りに誰もおらず、独りぼっちで帝位につく。
しかも、この子は健常な子供ではない。若しも邪魔に思えば、皮膚に深い切り傷の一つもつけて放置すれば、簡単に命が潰えてしまう子供なのだ。
そんな子供を親として手放すことは出来なかった。息子に一人ぼっちで皇帝と謂う重責を負わせることは出来なかった。
ニコライ二世は、皇帝であるよりも、アレクセイの父親であることを選んだのだ。
其れが正解か、否か。其れは屹度誰にもわからない。
唯一つの揺ぎ無い事実は、アレクセイの代わりにニコライ二世が帝位を譲った人物────弟のミハイル大公は、即位を拒み、18代にわたって続いたロマノフ王朝が静かに終焉を迎えたという事だけだ。

ニコライ二世が書いた退位の詔勅を引用する。
「我が祖国を隷属化しようとする外的との三年に及ぶ大いなる戦いのときにあたり、神はロシアに新たな厳しい試練を与えられた。
ロシアの指名、吾が英雄的な軍の名誉、国民の幸福、掛け替えのない我が祖国の将来の全てがこの戦争にいかなることがあっても勝利することを求めている。
私はロシアの皇帝の地位を退き、最高権力を返上する。私は自分の愛する息子との別離を望まないので、帝位は自分の弟ミハイル大公に譲る。心より愛する祖国の名において祖国の全ての忠誠なる臣民に対してい新皇帝の前に神聖なる義務を果たすように呼び掛ける」

ニコライは、漸く宮殿に戻れた後、皇后の前で一度だけ号泣したという……。

・軟禁、監禁、そして……

アレクサンドル宮殿での軟禁の後、トボリスク、そして終焉の地、エカテリンブルグのイパチェフ館迄皇帝一家は移送される。

拘留中のアレクセイ。既に寝たきりだったという。彼等の同情的だった警備兵の覚書。
「可哀想に、アレクセイは一日中寝たきりだ。父帝がアレクセイの簡易ベッドを部屋から部屋へと押して歩いている。顔面は蒼白で、眼は狼に追われた獣のように怯えている。それでも私の方を見てはにっこり笑い、私が最敬礼するとおどけて見せるのだった」

既に皇帝一家ではなく囚人ロマノフ一家になっていた彼等へのボリシェヴィキの態度は苛烈を極めた。
皇女達がトイレに行く際は彼等の詰所の前を通らなければならないのだがその度に卑猥な言葉を浴びせ、ぶしつけな視線でじろじろと眺めまわした。
皇帝に対しても嘲りの言葉を浴びせ、皇帝が乗っている自転車を銃剣で突き転がして面白がった。アレクセイの玩具を取り上げたり、玉座に腰掛けたり皇族の衣装を引っ張り出して身に着けたりして遊んだ。
食事も黒パン、脂が浮いた薄いスープ、衣ばかりが厚く肉が薄いカツといったもの。食器も足りず皇帝一家と従者たちでつかいまわしをしなければいけないほどだった。
抑圧的で、屈辱的な日々。大切に育てられたアレクセイにはこんな世界が、こんな生活があるとは想像すらできなかったことかもしれない。
宮廷の奥にいた少年にも、空気が変わったこと、雰囲気が変わったことは敏感に察知できただろう。
更に、アレクセイは10年間彼に献身的に仕えた水兵に屈辱的な仕打ちを受けてすらいる。
彼は、父ニコライにも「わざと?」と思われるほど自爆的なそり遊びをして動けなくなってしまう。
激痛に呻きながら、こんな悲痛な言葉で母に訴えている。
「ママ、僕は死にたい。死ぬことなんか怖くない。ここでこうしているのが、とても怖いんだ!」
アレクセイにもアナスタシアと同じように、「死」という恐ろしい言葉が付き纏っていたことを容易に感じさせるエピソードだ。
アレクセイはこの日から、自分の脚で立って歩くことが出来なくなってしまう。
また、アレクセイは状況が悪くなるにつれ、自分は殺されるかもしれない、と、覚悟を決めていたが、姉達は助かるべきだと思い、そう願っていたという。

皇帝一家の処刑は何等の前触れもなく予告もなく唐突に行われたようだ。
処刑の四日前。ニコライ最後の日記を見てみよう。
「7月13日 土曜日 アレクセイはトボリスクから到着して初めて風呂に入った。アレクセイの膝は好くなっているがまだ足を完全に伸ばすことは出来ない。気候は暖かく快適だ。外からのニュースは何もない」

ただ、その数日前
「7月4日 木曜日 ユロフスキー(警備隊長)らは私たち夫婦と子供達から指輪、ブレスレットなど金製品を取り上げてしまった」
と、ある。

・地下室の惨劇
皇帝一家の処刑は1918年7月17日の深夜に何の前触れもなく行われた。
皇帝一家は何時ものように眠りに就いたが、夜中に「危機が迫っているため皇帝一家を安全な所にお送りする」という口実で起こされ、30分だけ身支度をすることが赦された。
皇帝一家処刑については執行人達の詳細な証言があるので、其方を引用する。

惨劇の部屋。壁が破れているのは弾痕を隠滅しようとした証拠である。


(残虐な表現があります。苦手な方は飛ばすことをお勧めします

指揮官ユロフスキーの証言
「7月16日深夜、皇帝一家と従者らをイパチェフ館の地下室に集めた。脚が悪く体力が衰えている皇太子と心臓が悪い皇后は中央の椅子に座った。皇帝は皇太子の肩を支えるように立った。皇女達と従者がその周りと後ろに立った。
銃撃には隊長の私の他、永年革命派の手先コミッサール(軍事委員)に取り立てられえたエルマコフ等5人が当たり、その後ろをラトヴィア人などの兵士七人が囲っていた。
私が「ウラル労農兵士ソビエト執行委員会は諸君を銃殺することに決定した」と文章を読み上げた。皇帝は何かを聞き返そうとしたが、その時早くも銃撃が始まった。エルマコフが皇帝を、私が皇后を銃殺する役割を事前に決めていたが、銃撃が始まると皆昂奮して滅多矢鱈に発砲した。壁に跳ね返る弾で同士討ちになる恐れさえあった。狭い部屋に立ち込めた硝煙も予定外のことだった。銃撃は弾丸を討ち尽くすまで続いた。
しかし、一斉射撃が終わっても、アレクセイ皇太子とタチアナ、アナスタシア、オリガの三人の皇女はまだ死んでいなかった。エルマコフは彼等を銃剣の先で刺そうとしたが、銃剣でも中々刺し通すことが出来なかった。そこで私は一人一人射殺しなければならなかった。兵士たちは彼等の持ち物を盗もうとした」

隊員ニクーリンの証言
「アナスタシアの他に、侍女も枕を頭にかぶって隠れようとしていた。枕を引き剥がして侍女を撃った。アレクセイ皇太子は中々死なず、何時までも床をのたうち回った。彼は至近距離から口の中にとどめの弾丸を打ち込まれて漸く死んだ。
それでも、我々は人道的に振舞ったつもりだ。自分も捕虜になれば同じように扱われるだけなのだから……」

隊員メドベジェフの証言
「ユロフスキー隊長がソビエトの決定を伝えると女性達が悲鳴を上げた。「オー!神様!」皇帝も呻いた「神よ!一体何ということをするのか!オー、神よ!」
銃撃が始まった。女たちの悲鳴と呻きが部屋中に満ちた。医師ボトキンが倒れた。従者と料理人も倒れた。白い枕を抱えた人翳がドアの方から部屋の右手に動いた。硝煙の中を女の誰かが閉ざされたドアに突進したがエマルコフに撃たれ、その場に倒れた。部屋の中は銃撃の硝煙で何も見えなくなった。
ユロフスキー隊長が「射撃止め!」と叫んだ。すると、「神様、助かったわ」と女が喜びの聲を上げた。枕を被っていた侍女だった。ラトヴィア兵が弾丸を討ち尽くしていたので、銃剣の先で彼女を刺殺した。
アレクセイ皇太子は未だ、傷ついてうめいていた。ユロフスキーはモーゼル銃から最後の三発を打ち込んだ。アレクセイの呻きは止まり、椅子から静かに父の足元に崩れ落ちた。
他に生きている者がいないか眺めまわした。その時までまだ生きていた皇女のタチアナとアナスタシアにピストルでとどめの弾を打ち込んだ。やっと全員が息を引き取った」

処刑時間は20分ほどだったと伝えられている。
マリアを除く子供たちの下着には、アレクサンドラ皇后の指示でびっしりと宝石が縫い込まれていた。宝石が防弾チョッキの役目を果たし、中々弾丸も銃剣も彼等を貫くことは出来なかったのだ。
(マリアだけ宝石がなかったのは、マリアが別行動をしている時にトボリスクで子供達が作ったものだからで、マリアが言いつけを守っていなかった等の理由ではない。)
いつか自由になった時、子供達が皇帝一家の尊厳を失わずに生活が出来る様にと持たせていた宝石が、皮肉にも子供たちの苦しみを長引かせる結果になってしまった。
ただ、銃弾をいくら打ち込んでも亡くならない皇帝の子供達に、処刑隊は恐怖し我を失ったという。

『1917年 アレクセイ13歳 現在の苦難の時に神が彼に健康と忍耐と心身の強さを与えたまわんことを』

父、ニコライ二世が日記に記した言葉。
父は、息子の健康、忍耐、心身の強さをずっと願っていた。

・祈り

一家が殺害された後、イパチェフ館に残された遺品の中に、一家が読み親しんだ一冊の聖書が見付かった。
その聖書には皇女オリガの手で書き写された一篇の詩が記されていた。
「神よ、我等に耐え忍ぶ力を授け給え、
この嵐の暗黒の日々に、人々の迫害と、死刑執行人の拷問に耐え忍ぶ力を授け給え。
おお、心理を司る神よ。我らに堅固な意思を授け給え、
身近なものの悪行を赦せるほどの、そして、重い血にまみれた十字架を、
あなたの柔和な心をもって受け入れられるほどの、
そして、謀叛の動乱の中で、的が我らを掠奪する時に、
恥辱を耐え忍べるほどの、堅固な意思を授け給え。
救い主キリストよ、助け給え!」

・ジョイ──歓び──

アレクセイは、コッカースパニエルの「ジョイ」と謂う名前の犬を飼っていた。
友達が少ないアレクセイにとって、ジョイと、ペットの猫は大切な友達であり歓びでもあった。
ジョイは何時もアレクセイと一緒に居た。休暇や旅行も、ジョイはアレクセイと一緒に出掛けた。
ニコライ二世がアレクセイを前線に伴って行った時はジョイもアレクセイのお供をした。アレクセイとジョイは親友だった。
従者がアレクセイに「ジョイと一緒にビデオをお撮りになったらどうですか」と誘いかけた時アレクセイははにかんでこう謂ったそうだ。
「やだよ、僕よりジョイの方が利口に見えてしまうでしょ」

アレクセイとジョイ


アナスタシアの「ジミー」、タチアナの「オルチポ(フレンチブルドッグ)」は、殺されてしまったが、ジョイは、生き延びることが出来た。
あの惨劇の際は偶々外に居て主人の傍にはおらず、アレクセイが居なくなっても大人しくその帰りを待っていたからだ。……アレクセイが親友のジョイの所に戻ることは二度となかったけれど。

何時も一緒

打ち捨てられたイパチェフ館を守っていた赤軍将校、ミハイル・レチョミンがぽつんとしているジョイを可哀想に思って連れて帰った。
やがて、白軍が巻き返すと、皇室をよく知る白軍将校、パーヴェル・ロジャンコは、たまたま通りでジョイを見かけた。
ジョイに案内されるままに進むと、レチョミンが居たのでレチョミンも逮捕すると謂うおまけもつきながらも、ロジャンコは、アレクセイの親友を、彼を懐かしみながら傍に置くことにした。
その後、ジョイはロジャンコと一緒にウラジオストックに行き、最終的にはニコライ二世の従兄弟、イングランドのジョージ五世の所で落ち着くことになる。

思い切り庭園を駆けまわり、暖かい日の光を浴びて、燥ぎ回るジョイ。
彼は、親友の代わりに、日の光を沢山浴びて新鮮な空気を沢山吸って沢山沢山走り回って転げ回った。
ジョイは、ウィンザー城の王室の犬の墓地に葬られている。

JOY───歓びと謂う名を持つ犬の、そんな御話。
虹の橋で親友と再会した時には、彼に、イパチェフ館からウラジオストック、そして英国へ渡った冒険の思い出話を自慢の尻尾を振りながら話したんだろう。
「アリョーシャ(アレクセイの愛称)!アリョーシャがいない間ね、僕はいっぱい冒険してたんだよ!」





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