見出し画像

日本の歴史を考え直す その2「松前紀行その1」

 前回の記事では「ではいつ日本が始まったのか?」などと思わせぶりな結語で締めくくったが、その後も古代史の本を読み漁り続けていて、まだ知識を整理しきれていない。「古事記」や「日本書紀」をかじったことがある人なら分かるとおり、とにかく固有名詞が長く、また何が神話の筋で、それがどう解釈されてきて、いかなる発見によってどう変わったのかということを追跡しなければならないため解読に時間が掛かるのである。

 そういうわけで気分転換に松前まで行ってきた。函館からだと車で2時間弱だが、私は早朝4時半に出発したので車もほとんどおらず、1時間半ほどで着いた。また、途中白神岬という北海道最南端の地があり、そこにも立ち寄れた。

白神岬の碑
北海道最南端

 とりあえず松前城を目指して行ったのだが、駐車場の場所がよくわからず適当に山を登り、松前カントリーパークというところにあった駐車場に停めた。すると駐車場に銅像が建っており、見ると「金子鷗亭先生」と書かれている。碑文によれば同氏は松前町名誉町民であり、「不屈の精神をもって書道に精進し、独自の芸術観を確立されました」とあることから書道の発展に尽くした人らしいことがわかる。実際銅像も筆を持った姿が象られている。のちほど行った松前の道の駅にも、小中学生による書道作品が展示されていた。

金子鷗亭銅像

 駐車場の北側一帯が「北鷗碑林」と呼ばれる、様々な書家の碑が立ち並ぶエリアとなっていた。

 碑林の隣には松前藩屋敷というテーマパークがあり、和装をしたり松前藩時代の生活を体験できるようになっているらしいが、冬期は休業していた。だが庭園は開放されていて、風雅であった。

 松前にある松前城は、安政元(1854)年に完成した、最後に作られた日本式城郭である。正式には福山城と呼ばれるが、備後の福山城と区別するためにも松前城と通称される。

三層天守
番所から臨む天守

 天守閣の裏側には松前神社がある。掲示には御祭神は武田信廣公と書かれている。

 よくよく見ると賽銭箱や鰹木にも武田菱の家紋があしらわれている。

賽銭箱に武田菱
内削の千木?

 本殿は神明造で、千木ちぎ(屋根の上にツノのように出ている部分)が内削うちそぎ(切断面が地面に平行)になっており、鰹木(屋根の上に丸太のように並んでいる部分)も偶数になっているから、てっきり天照大御神が祀られているのかと思いきや武田信廣が主祭神ということが不思議だ。伊勢神宮には外宮と内宮があり、それぞれ男神の豊受大御神とようけおおみかみと女神の天照大御神を祀っている。男神を祀る外宮は千木が外削そとそぎ(切断面が地面に対して垂直)で、鰹木の本数が奇数、女神を祀る内宮は千木が内削で鰹木の本数が偶数というふうになっているからだ。まあ天照大御神は実は男神だったという説もあるので、また調査していきたい。

 なぜ松前に武田氏が祀られているのか。武田信玄で知られる武田氏は、清和源氏の一派・河内源氏の源義光に始まる甲斐源氏の一族であり、安芸や若狭にも分流した。その安芸武田氏5代当主の武田信賢の子が信廣で、蝦夷地に渡り和人支配の基礎を築いたとされる。コシャマインの戦い(康正3(1457)年)でコシャマイン父子を討ち取ったのは信廣であるようだ。

 近辺には浄土宗・光善寺があるが、こちらにも武田菱が見られる。

 もちろんコシャマインの戦いなどの功績が理由なのだろうが、武田信廣が松前藩祖とされることには別の理由がありそうだ。というのも、信廣が来る以前に上ノ国花沢館に住みこの地を支配していた蠣崎季繁はあまり由来のはっきりしない人らしい一方で、武田信廣は清和源氏の流れを汲んでいるからだ。日本の統治機構上で、源氏ないし平氏の流れを汲んでいる人間が上に立つということがどうしても必要で、義経がチンギスハンになったという話が人口に膾炙するのも源氏だからだ。

 また、それと似た話で琉球には源為朝ためともが初代琉球王の舜天となったという伝承がある。源為朝は源為義ためよし義朝よしともの父)の八男で、頼朝の叔父にあたる(頼朝の父が義朝)。保元の乱で為義側に着いて敗北し伊豆に流されたが、そこでも反乱を起こしたため討伐されたが、実は死んでおらず・・・という、義経と似たような話がある。もちろんこれが薩摩藩による琉球支配を正当化するロジックの一つとなっているわけだが、これが受け容れられているのも、日本人は源氏の流れを汲む人が支配者にならないと治まらないということがあるのだろうと思われる。武田信廣はそういうわけで松前藩の始祖としてぴったりだったというわけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?