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隠れて生きよ

 ゴールデンウィークも終わり、無事に観光地から人が少なくなってきたし天気もよかったので久しぶりに鹿部までドライブしてきた。前回行ったときは、まだ山道に雪が残っていたがそれもすっかり解け、新緑の中をゆったりと走れた。町中はバカが多くて、車間距離を空けられなかったり右折待ちで対向車線にはみ出したりしている車がけっこういる。バカは見かけるだけで不愉快なので、運転するのも交通量の少ない時間帯と道順を考える必要がある。

 七飯では海鮮丼だが、鹿部ではタラコの定食が食べられる。

提供:株式会社はこだてリアルエステート

 こういう感じの定食が1,000円前後で食べられるような店は、町中にはもうほとんどない。この鹿部の道の駅の店も10時から14時までしか開いておらず、私が到着したのは14時ギリギリだったので、最後の在庫だったらしい。

 道の駅の建物の裏側をうろうろしていると、以前は気づかなかったが山沿いの坂道に階段が設置してあって上れるようになっていた。

対岸には青森が見える 提供:株式会社はこだてリアルエステート
提供:株式会社はこだてリアルエステート

 こういう木々や植栽を自分で所有しようと思っても無理である。手に入れることはできても、維持管理していくランニングを合わせるとどう考えても庶民には無理だろう。土地も建物も、律令制の制定以来、すべて国家のものだというのが真相だ。

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 デヴィッド・グレーバーの遺作である『万物の黎明』を読んでいる。

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 非常に入り組んだ話なので少しずつしか読み進められないが、なぜそう記述が入り組んでいるのかといえば、我々自身がものを考える際に頭に埋め込まれている前提や通念を突き崩すための記述だからだ。たとえば我々は「古代社会」という言葉から、技術水準はいまだ低いものの、富を持つものと持たざるものとが明確に分かれており、共有された神話を持ち、他の部族と見るや戦いをしかけて殺し合い・・・といったようなイメージを即座に連想する。しかし、そのようなイメージこそ、西洋近代がもたらした誤った先入観である。進歩主義が説くように、社会の形態は「未開→文明」のように一直線に発展してきたのでもなければ、ある時代の特定の社会の中で、社会的地位や階級・身分が固定的であったわけでもない、ということが本書の中では豊富な事例を挙げて語られている。さらに地域間の人的な移動も活発だったし、天文に関する知識などは現代におけるよりもはるかに普及していた。進歩の結果としてもたらされたはずの西洋近代社会のほうが、格差や犯罪・戦争、争いをもたらす下手くそな社会運営だった可能性があるのだ。

 界隈で知られるクリフ・ハイは、人類はハイパー・ノベルティという「これまでの嘘が暴かれて新たな可能性を模索していく時期」に突入しているとしているが、まさにその通りなのだ。金融業界や思想界の流れを見ても、実際にその通りになってきている。

 こういう時期はひっそりと暮らすに限る。三十六計逃げるに如かず。ストア派のごとく隠れて生きよ・・・。



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