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「素手でトイレ掃除」のキモさ

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』のなかには、日本をはじめとする先進国では社会の構造がもうできあがってしまっているため若者は夢も希望もなく退屈で、不幸に陥るが、発展途上国やインフラの整っていない国の若者は幸せそうだ、というところから、そういう遅れた国に行って汗水を垂らして目標に邁進するのが幸福だ、というような議論に対する批判がある。なにか日々目的に向かって邁進することが幸福である、というテーゼからは、その裏返しとしてすでに達成されたはずの目的であれ、まだ未達の目的さえあれば取り組んでいる行動はなんでもよい、というテーゼがたやすく導かれる。このような幸福論は間違っていると國分は断ずる。なぜならそれは、「不幸への憧れ」を生み出すからである。 

 最近よく出てくる「素手で便器掃除」を礼賛する人々が一定数いるのは、「不幸に対する憧れ」に耽溺しているからに他ならない。退屈から脱却するために追究するべき「幸福」を、「どこか遠くにあって、艱難辛苦の果てに苦労して到達しなければならないもの」と設定すると、そこから「艱難辛苦の果てに得たものでなければ、価値がない」というようなマゾヒズム的な倒錯が生まれる。トイレ掃除の場合、本来の目的は清潔な住環境とか、習慣的に掃除を行うことによる生活の秩序立てとか、まあそういったあたりが行動に対する目的として考えられるものだろう。ところが前述のマゾヒズムに立脚すると、ただ単に不潔で、不衛生なものに自分を晒すという苦行そのものになんらかの意味を見いだしてしまうことになる。それがあの件にまつわる、なんともいえない気持ち悪さの正体だろうと思う。

 釈迦だって苦行の末にこんなことには意味がないと悟ったというのに、とにかく苦労・苦心さえすれば意味があるのだ、というテーゼはつねに一定の市民権を得て支持者があらわれる。それはみなどこかで現実の生活に退屈していて、退屈しのぎになって自分の精神を昂揚させてくれるものでさえあれば、結果的に自分を不幸にするものでもいいと思っているからだ。自分の退屈や無聊を紛らわすのにも、知識と技術が要る。

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