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日本の歴史を考え直す その7 土偶を読むを読むを読む(まだ読んでない)

 前回の記事で紹介した竹倉史人氏の「土偶=縄文人が食べていたものがモチーフ」説は、いろいろと考古学会からは批判されているらしい。

 批判の骨子は、「着想は興味深いが、その後の論証がずさんで、個人の意見の域を出ない。学術的には見るべきものがない」ということに尽きるようだ。ネット上の記事だけでどうこう言うのも無責任な感じがするので、竹倉氏の書いた『土偶を読む』は図書館で借りて読み、その2年後に反論として提出された『土偶を読むを読む』はまだ読めていないが貸出予約はしてある。

 『土偶を読む』を読みながら、どのあたりが考古学会からの批判の対象になるのかということを考えていたが、概ね下記の内容ではないかと思う。

・竹倉氏が自分で指摘しているとおり、見た目の類似性から関連を見出すことは極めて恣意的である。欠損した状態で出土している土偶がもともと造られた際のモチーフがどうであったを判断するのは困難であり、類似しているとされる植物も視点や置き方・配置などによって見た目が変わる。
・論証で用いられている土偶の数が少なすぎる。国宝や重要文化財に指定されているようなわかりやすい造形のものだけが取り上げられており、これが植物に類似しているとしても、それを土偶一般の制作のモチーフとすることはできない。
・土偶の出土する領域と植物が利用されている領域が重なっていることを証拠に挙げているが、食用されていた植物が祭祀の対象となっていたかどうかは不明である。

 一点目の「自分で指摘している通り」というのは、竹倉氏が書いているとおり考古学において「見た目の類似性からなにかを考える」ということがタブー視されているということだ。なぜかといえば重要文化財になっている遮光器土偶は、その名のとおり「遮光器に似ている」として東京大学人類学教室の創始者である坪井正五郎が命名したが、その後これは遮光器ではないというのが定説となったことで、「見た目の類似」を起点に考えることが避けられるようになったと竹倉氏は指摘する。

 そういえば以前の記事で書いた神社の建築様式である「神明造」は、竪穴式住居から発展した。私はそう思うが、これも竪穴式住居の建築様式は天地根元造てんちこんげんづくりと呼ばれて戦前まではこのように考えられていたようだが、登呂遺跡の発掘などを通じて現在では否定されるようになったという。Wikiにも次のように書かれている。

 江戸時代の工匠である辻内家に伝わる『鳥居之巻』など数点の古文書によって、天地根元宮造の想像図や建築類例が伝わっていた。天地根元宮造とは、地面に掘った方形の竪穴のうえに切妻屋根を伏せたように建てた小屋であり、千木や堅魚木など神社に似た細部を持つと考えられていた。明治時代末より、建築史家・建築家であった伊東忠太が講演や書籍で唱導し、戦前の建築界に定着した。伊東は天地根元宮造と神社との類似点から、日本の建築は天地根元宮造を基礎にして発展していったとする日本建築の系統論を唱えた。

 しかし、実証するデータがなく、文献からも江戸時代以前に遡ることができないなど、この説を批判する声も少なからずあった。大正時代以後、関東地方を中心に竪穴建物の検出事例が増えたが、天地根元宮造を示す建物遺構は発見されず疑いは深まった。建築史家の関野克はたたら製鉄で使われる高殿の建築様式を元に円形の古代建物の復元予想を示し、日本の古代建物の常識をくつがえした。1943年(昭和18年)に発見された登呂遺跡は関野の予想に沿って復元され、戦後の歴史教育の教材とされたが、神道と関わりの深い天地根元宮造は教育の場で触れられることはなくなった。

ウィキペディア「天地根元宮造」

  このように「神道と関わりが深く」「実証する史料がない」という理由で否定されているに過ぎない。私は学者ではないので、べつに縄文人たちは「こんなふうに土偶や住居をつくっていましたよ」と後世に伝えるために作っていたわけではないのだから、証拠が出てこないことなど当たり前ではないかと思う。論証のプロセスは学問・アカデミズム的な手続上の問題であって、たしかに竹倉氏の論証は「土偶の謎を解明した!」といえるほどのものはないかもしれないが、一つの説としては十分に面白い。プレートテクトニクスも地動説も出た当時は散々に言われたものだったから、「こういう説もある」ということで楽しく思索すればいいのではないだろうか。


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