誰かを救いたいと思っている私のこと

誰かに手を差し伸べたい。どん底から救って、大丈夫だよ、私がいるよ、と伝えてあげたい。
私はずっと、そんなエゴまみれな、メサイアコンプレックスに苛まれている。

メサイアコンプレックス――人を助けることで、自分自身の肯定感を得ようとする人間のこと。

救うことで、救われようとしている人間だと解釈することもできるようだ。私がこの言葉を知ったのは、かの昔、「心理カウンセラーになりたい」と思っていたときのこと。

そのときの私は古典と社会科の成績ががだめだめで、現代文や英語は大好きだったのだけど、さすがにこの状態で文系に行くのもなと思って、理系を選択していた。でもどうしても自分の言葉で人を救いたくて、文転しようかな、と思いながら、ネットの海に潜っていた。

『文転 いつまで』
『数学を使う文系の大学』
す、す、とスマホの画面をスクロールして、あっちのサイトを見たり、こっちのサイトを見たりと様々な意見を吸収した。

事実私は、苦手教科から逃げてきただけで、そこまで理系教科に興味があったわけでもなかった。やれば楽しくなっていくだろう、と信じて数学や物理と向き合ってどんどん魅力に惹き込まれていっても、やっぱり言葉を使いたいんだよな、と思う毎日。矛盾した気持ちとの葛藤の中で、それなら精神科医を目指すのはどうかと考えた。(まあこれは学力が足りないのと死体まみれの生活が恐ろしいのとで簡単に諦めたことであるが笑)

そこで私はあるとき、『言葉で人を救いたい』で検索をかけた。何か、何かできないだろうか、私は何者かになれないだろうか。とにかく、必死だった。

そして、私のこの気持ちが、エゴまみれだと気づいたのだ。


そもそものところ、不特定多数の人間を助けたいと思う心理は、エゴから来ているのだと私は思う。助けたところで感謝されるだけだ。その感謝で嬉しくなって、自分は存在価値があるのだと、認めてもらいたいだけ。

たぶんこれは、悪いことではない。だけど毎日こんなことをして、どうにか命を繋いでいるだけでは生きていくのは苦しいだろう。だって、自分自身は、あなた自身は、救われないから。むしろ自己犠牲的なその生き方が苦しくて途中でギブアップしてしまう人も多くいるのだろうな、とも思う。

つまるところ、私は生きててもいい人間だと言える自信がないのだ。そう思えないから、そう思われたくて、大量の時間を溶かして人助けに勤しんでしまう。


ああもう、これは不健全な気持ちなんだな。こんなんじゃカウンセラーとしてはやっていけないんだろうな。そう思ってからは早かった。

諦めきれずにいた文転への思いを絶ち切って、楽しくなってきていた理数教科に没頭する。数字は無感情だ。だからこそ、誰にも左右されずに自分の世界にこもれる。数学は良いものだと私は知っていた。これが、私の中での救いとなった。

つらつらと書いたが、結局はこれも逃げだ。本当はやりたいことを見出して、そこに向かって全力で、楽しく、走っていったほうが良いに決まっている。だからちょっと後悔してるし、その後悔がバレないように隠しながら、今日もやっぱり私は誰かを救おうとして、困っている人を探してしまっている。

そして逃げまくった私が何になるのか、それはまだまだ先のお楽しみである。

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