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幻想と理想と現実と本物

お久しぶりです。ユーロです。大学生活始めました。上手くいきません。
僕を監視している方お元気でしょうか。もしかしたら学部までご存知でしょうか。

こんな曲がついに配信されました。聞いてください。

にゃるらさんが作詞をし、KOTOKOさんが歌い、こかむもさんがイラストを描き、最高のインターネット曲です。(申し訳ございませんが、作曲者の方は今名前を認識しました。いい人ですね)

上記の曲を聞いて、僕はこう思いました。

「僕が見ていたインターネットとはこうだった。」

とても偏見が強く、言葉も足りないので、この結論に至る自分語りをさせていただきたく思います。ちなみに今ある音MADの映像が進まなくて現実逃避に知り合いの生放送見ながらロゴトレスしながらさらに冒頭のヘタな絵を描いた後に書いてます。こいつさあ
僕の書く文章はとにかく長ったらしく、冗長で途中で疲れてくるので、「こんなクソガキの半生とか興味ないわ」って方は3だけ見てください。


1・インターネットに触れたきっかけ

僕が最初にインターネットで触れた物はなんでしょうか?
ニコニコ動画?アニメ?2ch?Twitter?ゲーム?
この問いかけは特に意味があるものではなく、思い出すために綴っています。
この場合ニコニコ動画が”ほぼ”正解です。
どういうことかと言いますと、僕は幼少期の頃からインターネットネイティブである母親や姉に英才教育を受けており、のまネコで泣き止み、もへもへ王国様を触れさせられ、組曲「ニコニコ動画」やグルメレース合唱、ボーカロイドを聞いて育ちました。浅い浅いインターネット生活でしたが、そこには漠然とした何かがありました。
世界中の人が気軽に、何かを発信できるのだと。
そしていとも簡単に分かり合えるのだと。

小学生になり、パソコンが家に導入されてからはほぼ毎日のように入り浸り、ニコニコ動画で音MADとボーカロイド幻想狂気曲タグを漁り、どこからかたどり着いたカービィの二次創作をしている個人サイトを閲覧して、ボンバーマンオンラインとトゥーンタウンオンラインとチョコットランドで目を悪くしました。
小学生の時に見ていたインターネットは、どこの誰とも知れない人が、何かを作り、何かを崇め、何かを教え、何かをしていました。大人数で書く夏休みの自由研究みたいで、とても美しく、儚く、楽しかった。

僕の黄金期はおそらくここです。今はただ怠惰に音MADを弄り、自分より精力のある人の作品に押しつぶされ、ゲームも苦手になり、アニメは元から見てないけど、みんなが話してるものをやり、ソシャゲにも課金して、鍵をかけたTwitterでただただRTとぼやきとなれ合いを繰り返し、そのうち自分の未来も忘れました。髪を染めたり、やっとこさ精神科への定期通院を約束したりしましたが、それでも僕は不安定なままです。

Twitterを始めたせいで、複雑で歪な人間関係を作り上げ、思想やネタの問題で壊れ、簡単に共依存し、悪い人に目をつけられ、炎上を繰り返し、ずっとずっとおかしくなっていきました。
謝らないといけないことも多いですが、今彼らは僕に関係のないところで生きています。同級生に至ってはアウトローになったという情報もよく聞きます。なので、この贖罪は隠れて行っています。どうでもいいですね。

2・人生と世情と

そして、自分が澱んでいくと同時に、秋葉原やインターネットも歪になっていきました。
ニコニコで有名になった作曲家はアニメのOPEDを書き、ニコ生出身のミュージシャンがメジャーデビューし、TVでニコニコ動画という単語や、秋葉原、オタクといった言葉を耳にするようになりました。
秋葉原は、海外からの観光客が増え、免税店が出来、不健全な店はなくなり、整備され、少しずつ綺麗になりました。
現実とインターネットの境目がなくなり、”インターネット”という世界ではなく、インターネットは現実の一部になりました。
現実が行う手段の中にインターネットはでき、マーケティングはインターネットを中心になり、本は電子書籍、現実のお金もインターネットで支払い、現実の、綺麗好きな人の物が流入し、整備され、雑然としたものは許されなくなりました。

ところで、現実において一番大切なものは何だと思いますか?
いやこれは少し質問が悪かったです。
”現実を現実たらしめるものとは何だと思います?”
僕は名前だと思います。実名、異名、戒名、ニックネーム、コテハン、それらは個人を個人たらしめるものであり、現実には必要不可欠で、なければ生きている価値もないといわれるほどです。
ニックネームは当初はよかったです。個人であることを捨て、インターネットとしての人格を得て、自分へのイメージを全部捨て去ることができました。
しかし、インターネットが現実と混ざりあうと、ニックネームが実名とほぼ同じものになり、気軽に名前を変えたり、人格を変えたり、ニックネームに「イメージ」がつくようになりました。
それは一挙一動、一つ喋るだけで、それどころか喋らなくてもつけられるものであり、人間が識別のために仕方なくしているものなのです。
その名前がついたせいで、2chでは専用スレに押し込めるものが、現実に危害を加えたり、逆に、インターネットは危険だと現実が危害を加えてきたりします。
名も知れぬ人が、良識と常識で培ってきた物が、音を立てて崩れ、
名のある人が作り上げた、良識と常識を、音を立てて崩していきました。

3・だいたい終わり

初音ミクは、名前があるけど性格が最低限の情報しかなく、見た目もあるけど別にそれにこだわる必要がなく、好きも嫌いも自由な、とてもとても企業が作ったとは思えない素晴らしい技術がありました。
初音ミクはいろいろな人にイメージをつけられ、しかし取り外し自由なので、外し、改変され、逆に声だけを使われたり等、様々に生きています。
人が考えれば考えるだけ、その人の初音ミクが生まれ、そして共に生きています。
AAという、独自の文化があり、キャラが作られ、いろいろな派生されていきました。様々なキャラが生まれ、言葉で綴られるイメージはとても面白く、そして幅広く生きています。Flashは粋と心で作り上げられ、時に感動、時に笑い、そして文化を作り上げました。

今は、流行が長続きすることなく、新しいものはひと月から半年で影を潜め、古いものは怠惰に持続するだけになり、オタクは見る専が増え、でも名前を得てるから幅を利かせ、オタクすらも面白くなくなりました。
そして僕は、名前を得て、流行を追い、追及と努力を諦め、オタクの皮を被ったナニカになりました。年を重ね、パチンコ等現実のいまだに雑然としているものにあの頃夢見たインターネットや秋葉原に思いを馳せ、このままぼんやりと努力を思い出せないまま漠然と死んでいくんだなあと、常日頃思っています。
いつかインターネットが独立した世界に戻り、名前を捨て、名無しさんとして生きてみたいです。
古きを思い出し、生きてみたいけど、現代の物は捨てたくないので、インスタでVHSエフェクトを多用するJKと同じ事呟いてますね。


話がズレにずれましたが、結論としては、

・小学生の頃から2010年代インターネットに触れてるせいで2000年代インターネットに憧れがある
・自分も世界もオタクも荒んだため、生きてて楽しくない。
・この曲には、自分の理想である、悲しくも楽しい、名前に縛られない美しい世界がある

ということです。長くなりました。はい。垢消ししたいけど、名前がある以上、捨てると悲しむ人が生まれてしまったため、出来なくなった人の後悔と半生語りでした。読んでくださってありがとうございます。
宣伝をするようで申し訳ないんですが、アニメのキャラソン文化っていつぐらいからなくなったんですかね?今やごちうさとか、少数のアニメしかキャラソンが出なくなりましたよね。OPとかがキャラソンやイメージソングっぽくなって、ちょっと物足りないんですよね。誰か何か知ってたら教えてください。以上です。

よしお話終わり。寝て良いよ。



その後

三日後にこの文章を読みました。こいつ本当に脳みそに浮かんだもの全部出力してるから支離滅裂すぎるな 素面だよ?
おしまし

意味なし