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青春へのレクイエム

 いつしか彼を好きになっていた。
 
 彼は少し遠いところを見ていた気がした。彼は俗と交わることを拒んでいる気がした。彼の目には真実が見えている気がした。

 彼はいつもぼんやりとしていて、何かを考えているような顔をしていた。その横顔はたまらなく美しい。いまや彼の横顔を思い出せないが、彼の美しさ、彼を感じていた心は、まだわたしの中にある。

 もっとも、彼は何も考えていなかった。それを知ったのは、ずっと後になる。もはや2度と会わないと決まった、つい3日前のことである。彼の顔は全く変わっていなかった。目も同じで、どこかを見ていた。

 わたしは彼に、その目を問いただした。彼は、何も考えていないよ、とだけ言った。そうして、事実は明らかになった。彼は何も見ていなかった。わたしは、彼に幻想を見続け、幻影に恋をしていた。彼は、わたしのそういうところを嫌っていた。

 もっとも、彼を間近でずっと見ていた高校生の頃は、何も知らなかった。その方がしあわせだった。

 わたしは彼が好きだった。Kも彼が好きだった。Kは彼に告白した。TとMはわたしと彼をくっつけようとしてくれた。でもダメだった。Kは彼に告白して玉砕した。わたしは何もできなかった。

 そういう夏の思い出があり、青春があった。

 校舎は風の通りが悪く、先生の話はひどく退屈だった。彼は青色の、透き通った透明さをもって、悠然とそこにいた。わたしは彼を眺めて、ひとしきり満足した。彼は美しかったのだ。

 ありとあらゆる言葉を尽くしても、語りきれないほどに溢れ出ている彼の魅力は、すぐにわたしを捉えてしまった。

 それ以来、彼のこと以外を考えられない高校生活が始まった。

 彼の胸の膨らみがわたしを捉え、彼の虚ろな横顔がわたしの目を亡き者にしていった。

 彼は今でも美しいし、過去にはもっと美しかった。

 化粧をしていないし、漆黒の艶を纏った彼の髪と顔は、わたしにとって神の様相を呈していた。

 それほどまでの美しさがあったのである。

 それでいて、わたしは何もできなくて、ただ、眺めて、彼がわたしに話しかけてくるのを、待つしかなかった。

 こんな気持ちの悪い男の人生があってたまるものか。早く死にたい。

 彼のことを見つめ始めたのは高2の夏のことだった。授業中に幾度となくその方を見て、満足していた。

 わたしはオナニーをしない。それはわたしにとって固い掟である。それは、彼を好きになってから始まった掟だった。

 わたしが彼に目線を向ける時、その目線がきたない欲にまみれていたくなかった。純粋な、きれいな目で見ていたかった。そうでもしないと、欲情することなんて、許されるはずもなかった。

 だが、彼を見て感じる心地よさがオナニーではないかといわれると、少し疑問に思う。というのも、実際わたしは見るだけで満足していたからである。

 席替えというのは幸運を産む。たまたま、彼の隣の席になった。そこからは、席を固定した。しかも、受験に向かっていくクラスでは、席替えが消えた。隣を見れば彼がいるようになった。

 これは尋常ならぬ幸福を生み出した。彼はいつも隣にいて、美しかった。儚かった。

 わたしは家で集中して勉強できなかった。それでよく、学校の教室で自習していた。彼も時折教室に来たのであった。

 学校は暑く、椅子は硬い。それで、あまり自習場所として人気ではなかったのだ。よく彼と2人きりになり、そのたびにありえないほど大きな僥倖を得ていた。

 次第に彼とも少しずつ仲良くなってきた。彼は放送部の部長で、わたしは演劇部の部長だった。生徒会の運営などを通じて、この2つの部活は近づいていった。

 いつも話しかけてくれるのは彼であった。というよりは、わたしは怖くて話しかけられなかった。

 だが、わたしの秘めたる好意はバレバレであった。わたしの友人TとMはこの真実に気がついていて、よくいじられていた。

 しかし、肝心の彼は気がついていなかったようで、わたしのことを1崇拝者として見ていたようだった。彼の幻影に目を取られてしまう者は多くいて、Kもそのひとりであったのだった。Kは玉砕していた。

 わたしは、想いを伝えることなく卒業した。それで、玉砕はせずに済んだ。でも、その思いがなくなりはしなかった。だから、卒業後1年以上も経って、ふたたび彼に戦いを挑んだ。むろん玉砕した。

 玉砕は真珠のように美しく、思い出は常に美化される。わたしが彼を追いかけていた気持ちの悪い記憶も、いつしか青春の1ページになろうとしている。むしろ、そうなるように仕向けている。

 だからいま、葬送曲をこうして書き連ねて、すべてを送り出したい。送り出すために彼に会った。記憶を前に進め、あたらしいものをわたしの中に生み出す。

 そのためのレクイエムがこれである。

 これは、わたしの青春を呪い尽くし、わたしの罪を償うための歌だ。それは黒い底から生まれて、あたらしい白と成り果てる。

 そのために、全てを燃やし尽くす。

あたらしい白のために

 彼は、惑わせて来た。はじめて惑わせてきたのは、あの、彼がピロティの柱の影から出てきた日だった。

 冬の暗い日に、彼とたしか2人きりだったのだ。ひとしきり話した後、校舎は闇に包まれていた。下校する準備を整えて、彼は先に教室を出た。わたしが後を追うと、彼は柱に隠れていて、ぴょこんと姿を表した。

 わたしはそこで弾けてしまった。なんでこんなにも彼はかわいいのだろうか。最も罪深き艶やかさを持って生まれた彼は、わたしの罪を覆い隠し、欲へと塗り替えて行った。

 その後、たった数百メートルの道のりを、秒速5センチメートルで歩いた。そのふたりきりの帰り道は、もはや覚えていられないくらいに神がかっていた。

 彼はいつもと違う方向に行ってくれ、あまつさえわたしの隣を歩いてさえくれたのであった。

 我ながら、書いていて情けない。こんなことで惚れてしまう。女性が生涯に受ける愛は、とてもではないが数えきれないのだろう。わたしは、彼の記憶にさえ残らない。ただのワンオブゼムにすぎない。

 彼曰く、全ての男に対して同じ扱いをしているということだった。ほんとうに、もう、優しくするのをやめてほしかった。見てもいないのに優しくして欲しくなかった。勘違いさせて欲しくなかった。夢を見たくなかった。

 恋という欲望、わたしのペニスが火を帯びるような深い情欲は、わたしの全てを捻じ曲げた。彼以外の女性を、もはや女性だとは思えなくなっていた。彼だけがわたしの全てだと思っていた。彼にとってわたしは全てではなかったのに。

 それからまた、彼を私が誘惑してきたのは、春のある日のことだった。演劇部室を訪れた彼は、わたしの手を触りたいと言った。その前に、彼は会話の中で「元カレ」という単語を出した。わたしはどきりとして、心臓は搾りたての雑巾のようにキリキリと音を立てていた。それから、彼は、なぜか手を触りたいと言ったのだった。

 彼の手はしっとりとしていた。それでいて、つめたくて、ぬるかった。肉の感触がした。わたしはその瞬間、彼とひとつになれたとまで思った。幸福な虚構であった。わたしはバカだった。彼はひとしきり私の手を触り、満足したからいいやと言って、去っていった。ほんとうに、意地の悪い奴だった。結局、彼は私を好きではなかった。なのに、こんなにも誘惑してくるの。どうして。

 彼は全てを知っていた。その上で、私を自由に弄んだ。写真を撮ってきたりもした。それはわたしにとって、大事な大事なツーショットだった。

 修学旅行の帰り、とぼとぼと歩いていたわたしは、陰に潜んでいる彼とTとMを見つけた。Mが写真を撮ろうと言い出した。わたしと彼の1枚きりのツーショットが出来上がったのは、この時だ。

 幾度となく見返して見返して、その度に幸せな気持ちになった。その写真は、卒業した時に削除した。もはや、わたしの頭の中にしか残っていない。ああ、やっぱり、彼のことが、いまだに好きなんだなって。そう思うと、ほんとうに嫌な気持ちになる。拒絶されても、なお気持ちが消えてくれないのだ。

 もはや、その写真は、頭の中でも、ぼやけてしか思い出せない。でも、ピントがボケていけばいくほどに、記憶は色鮮やかに、美しいものになっていく。なんでだろう。

 のちに彼が語るところによると、このツーショットは「暇だから」撮ったらしい。わたしの積み上げられた妄想は、全部嘘だった。彼が憎い。わたしの感情をこれほどまでに奪い去って、それで何もしてくれないなんて。卑怯だと思う。

 TとMが、彼とわたしを誘って火鍋会を開こうとしてくれたこともあった。わたしはこれを黙殺した。とことん、拒絶を恐れていたのであった。バカな話である。どうせ失敗するのなら、失敗してみてから考えればよい。気がついてみたときには、もうすでに事切れていた。

 妙にセンチメンタルなのは、この原稿を海の近くで書いているからである。車はわたしの彼女だ。ガソリンさえ注げば、いつでもどこでも言うことを聞いてくれる。むしろ、この実情を見るに、車は母だと言っていい。わたしは得られなかった方の、母の愛である。

 実家にいた時は、母を少し疎んでいた。母はややわたしに干渉しすぎるところがある。それが嫌いだった。

 しかし大学に入ってみると、母の仕送りは愛おしくなり、父の大いなる小言も妙な説得力を持ち始めた。両親は偉大であった。それに比べて、私のなんと小さいことか。

 小さすぎたわたしは、彼に声をかけられないまま、高校生活をただ無為に消費した。

 彼は京都の大学を受けた。合否の発表は、わたしよりも1日だけ前だった。わたしは大阪の大学に落ちた。

 彼は頭が良かった。それで、まず、誰もが受かると思っていたのだが、意外にも彼は落ちた。

 女性たちに囲まれて慰められている彼を、わたしはただ見つめるしかできなかった。わたしには後期試験があり、落ちた複雑な心ながらにも勉強しなければならなかったのである。

 最後に彼と話したのは3月12日だった。彼とわたしは小論文指導の担当教員が一緒で、おそらくこれは僥倖であった。それで、担当教員と彼とわたしとで鼎談した。

 先生は、わたしが彼を好いているとわかっていた。それで、わたしにこう諭したのであった。「彼に告白するのはやめておきなさい」と。先生はすべてを見通していた。セックス・フレンドのいる、20代の国語教師だった。あれは、わたしの将来の姿なのか、またあるいは。

 彼は最後にこう言い残した。「Kに告白されたんだよね。マクドナルドに行こうって誘われちゃったけど断ったんだ」って。それはわたしに対する死刑判決とも言ってよかった。わたしはこう返した。「わたしが誘ったら行ってくれますか?」と。彼は肯定した。

 その甘美なる答えは、彼がわたしが好きであることの証ではなく、彼にとってわたしがなんでもないことの証であった。すべてに終止符が打たれた。この時点で、私はすでに完敗を喫していた。

 こうして、忘れられないまま卒業してしまった。彼を好きなまま、思いを伝えられないまま卒業してしまった。彼はKの告白を断っていた。わたしは、何も言えなかった。いや、何も言わなかった。何も言わないまま、美しく、全てを終わらせたかったからである。その後、ツーショットの写真を消した。けりをつけたつもりになっていた。

大学という肉欲

 わたしは、彼から逃げたくて、彼とは違う大学を志望して、筑波に流された。いまでは、それでよかったと思っている。というのも、この思いは、この恋は、報われないからである。

 高校生は美しい。大学生は醜い。自由と金を得た若者たちが、しきりに薄っぺらな恋へと走っていく。わたしはこれを、軽蔑しながらも、少し羨ましくも思いつつ、眺めていた。

 何も生まない冷笑の道である。これだけがわたしを救ってくれると、勘違いしていた。

 大学では、肉と肉が触れ合っていた。女も男も欲をむき出しにして、盛んに性交を求めていた。わたしは、この雰囲気が嫌いで仕方がなかった。でもセックスはしたかった。愛が欲しかった。わたしを認めてくれる存在が欲しかった。ティーン・エイジャーにありがちな、茫漠な悩み。

 大学に女はいた。でも彼はどこにもいなかった。サシのみに誘ってくれた子はいたけど、乗り気になれなかった。それで、だめだった。

 わたしはモテないにもかかわらず、顔を選り好みしてしまう。その子の顔は私の好みではなかった。ずっと、永遠に、彼のあの眼差しだけが、わたしを捉えていた。その子には申し訳ないことをしたと思う。

 大学では、一人暮らしも相まって、みんながセックスしまくっていた。終わりのない、取っ替え引っ替えの乱交だった。わたしは、それを忌避しながら、内心羨ましくも思いつつ、彼へ向けていた感情を純粋にした。そうして、信仰した。

 それでもどうしようもなくなったある日、わたしは出会い系アプリをはじめた。数え切れないくらい騙された。お金も果てしなく使った。それでも成果は、全く得られなかった。

 1人だけ会えた人とは、美術展をめぐってから、スイパラでお茶をして、そのまま帰宅した。

 セックスなど、どこにもありはしなかった。

 つくづく私とはなんとバカなのだろうかと、どれほど愚かだと思い知れば気が済むのかと、ため息が出る。

 そのために、仕送りや奨学金を使い果たしたのだから。学問など放り投げて、あれほど学びたかった哲学も、なんら意味をなさなかった。

 何も問題は解決しなかった。だから、もう一度彼に会って、すべてを真っ白にしようと決めたのだった。これが、大学2年の夏だった。

いつかの夏、あなたと見た幻影


 わたしは彼に負けた。

 彼に夢を見ていたからだ。彼はわたしが思い描いていたよりずっと悪魔で、汚い人間で、でも、それでも、わたしにとっては神の如く美しい人間に見えていた。そうでもないと、これだけの労力を割けない。

 彼は、「あなたはわたしを崇拝していると思っていました。」「恋愛的に何か思っているのであれば、告白とかするじゃないですか。」と言った。わたしには、返す言葉がなかった。実際わたしは彼に告白しなかったし、できなかった。その空白はわたしに心の不安を生み出し、機動部隊決戦が生み出されたのであった。

 機動部隊決戦とは、わたしが彼を誘って、彼に会いに行くことである。わたしは結局彼に対する感情を隠し続けたので、こういう婉曲した表現でしか何も言えなかった。もっとも、彼はこういうところをもっとも忌み嫌っていたのであるが。

 わたしは、高校の卒業式の日、結局何も言えずに、彼と別れてしまった。

 彼は神戸の大学に行った。わたしは筑波大学に逃げた。筑波大学で、ずっと、彼の幻影を追い続けた。でも、彼は彼でしかなくて、彼の代わりはどこにもいなかった。

 それにようやく気がついて、単位の取れない大学2年の夏、彼を誘って、わたしは神戸に行った。落とし前、因縁、わたしの中に残った空白に、わたしの鮮やかな青春に決着をつけるために。

 乗り気でなさそうな彼をなんとか誘った。わたしにしては勇気が出た。というのも、彼はもう遠い場所の人間で、2度と会わないことがハッキリとしていたからだ。2度と会わないのなら、たとえどれだけ疎まれようとも、わたしにとってはどうでもいい。

 わたしにはお金がなかった。でも、ないなりに全てを整えた。セカンドストリートでドクターマーチンを買って、オタクのでかいリュックも捨て、髪も染めた。わたしらしくもない柄のネクタイも買った。できる限りのお洒落をした。オタクであるわたしを覆い隠すために、やれることをした。18きっぷを買って旅に出た。

 長い長い鈍行の10時間だった。でも、そんなつらい苦行も、彼のことを思えば、痛くも痒くもなかった。でも、腰は痛かったかな。

 外山合宿同期の家に泊まった。京都はいつでも美しかった。風呂に入り、丁寧にワックスで髪を整え、出撃した。

 胸の鼓動が止まらなかった。彼に会うことを思うと、高まらずにはいられないし、わたしがわたしでなくなってしまう。

 駅のトイレで、鏡を100回は凝視した。何度も何度も髪を整えた。そうしてコインロッカーに荷物を預けて、彼を待った。

 約束の時間の10分前、駅前の広場をうろうろしていると、彼がいた。わたしはまた、彼に落ちてしまった。それはどうしようもない結末だった。忘れていたはずの感情が解き放たれ、どうしようもなく彼を抱きしめたくなった。でも彼はわたしのことが好きではない。苦しかった。とりあえず、心は尻尾をブンブンと振りつつも、彼に声を掛けて、決戦を始めた。

 わたしは神戸のことが何もわかっていなかった。それで、彼にプランの選定を一任した。決戦の前の日、何をするかを聞いたのだが、彼は曖昧な答えしか返してこなかった。思えば、これは悪夢の予兆だった。

 彼は、ある洋食屋に行きたいと告げた。わたしは承諾し、そこに向かった。向かうまでの話はすごく楽しくて、幸福になった。本当に嬉しかった。

 途中で、コインロッカーにお金を入れていないことに気がついて、駅に戻った。わたしはどうも完璧になれない。それは彼の前でも同じだった。すべてが台無しになり始めた。

 とにかく調子を元に戻して、洋食屋に再び向かう。人気だったらしく、店には長蛇の列ができていた。神戸の暑い日差しが容赦なく照り返し、彼はキラキラと輝いていた。見ているだけでしあわせだった。

 後ろに並んでいるおばさんたちは、わたしたちについて話しているようだった。わたしと彼が付き合っている大学生同士だと思っていたようだった。もしそうだったなら、どれほどよかったのだろうか。不幸にも、わたしはひとりで、彼にはたくさんの友人とたくさんの愛があった。

 彼の化粧は薄かったし、服も幾分適当に見えた。だが、アウターは、見たことのある服であった。高校の時の修学旅行で彼が着ていた服だった。

 取り止めのない話をベラベラと続けていた。店に入り、おのおのメニューを頼んで、食べた。

 すると彼が突然、「わざわざ神戸まで来て無駄な話ばかりしていてもしょうがないよね」と言った。わたしは、なんとも返せなかった。顔が引き攣り、料理はすぐに冷めた。

 わたしにとってはその取り止めのない話が幸福だったのに、彼にとっては退屈で仕方がなかったのだ。ほんとうに苦しくなってきた。

 「わたしはあなたに会いたくて来たんですよ。」「そうですか。」

 反応は芳しくなかった。こんな態度なら、会うことを断ってほしかったと思う。でも、こんな態度だからこそ、どうしようもなく好きになってしまうわたしもいて、そんなバカなわたしが、つらくて、そうするほどに好きに好きになってしまうのであった。

 恋は感情であり、理性を飛び越えてくる。

 彼は帰りたそうにしていた。その態度がありありと伝わって来て、ほんとうに、心臓が縮んだ。

 「あなたが好きでした」と言った。彼は特に何も言い返さず、「崇拝されているのだと思っていました。」と返した。彼は崇拝されるのがとても嫌だったらしい。わたしはたしかに彼を崇拝していた。わたしが彼を好きになる資格はなかったのだ。それで全てを諦めた。諦めると少し心が楽になった。彼が神棚から引き摺り下ろされて、ただのひとりの友人として向き合えるようになった。

 気が軽くなって、ペラペラと喋るようになった。

 あるカフェに移動した。隣の机はパパ活らしきおじさんと女子大学生のペアだった。わたしは口が滑って、「隣がパパ活ですよね笑」と言った。彼は露骨に嫌そうな顔をした。わたしは嫌われているのだろうか。
 
 修学旅行の服を着ていた理由を質した。彼曰く、たまたまで、しかも、わたしが幻想を見ているかいないかを確かめるためだったらしい。本当に意地が悪い。だから彼が好きになってしまう。これもまた本望の苦しみであるが。

 カフェを出た。彼の用事に少しだけ付き合って、それで、解散してしまった。解散する前に少しだけお願いをして、喫煙所に彼を連れて行って、わたしが持っていたセブンスターを吸わせた。彼は椎名林檎が好きだった。なのに、ハイライトでもセブンスターでもなく、キャスターを吸っているらしい。

 その一服は、とても悲しい一服だった。

 その時、欲望が抑えられなくなって、1枚だけ彼を横から隠し撮った。彼は横顔が特に綺麗なのだ。彼の顔は、他のどんな人間よりも美しく、わたしの、最も強固なる理性さえも、容易に惑わせる力があった。

 駅でもう一度だけ、「好きでした」と言った。彼は、「もう2度と会うことはないでしょう。」と言った。そうして別れてしまった。11時から15時までの、短い短い夢の時間だった。

 少し前まで彼がいたことが信じられなくて、彼のいた喫煙所で、信じられないくらいタバコを吸った。吸えば吸うほど彼の不在が感じられて、胸が痛くなった。喉も痛かった。でも、痛みを感じたくて仕方がなかった。

 彼はわたしに「無関心」を示していた。心底どうでも良かったのだろう。それなのに誘ってしまったわたしの罪。彼は、「筑波から神戸まで来たのに申し訳ないからね」と言った。その程度のことだったのだ。分かりきってはいたけど、いざ突きつけられると悲しい事実である。

 悲しくなって、わたしと彼の関係を知り尽くしていた友人を呼んだ。友人Tとご飯を食べて、少しだけ満たされた。この友人こそが救いだったのか?

 Tに少しだけ勃起してしまった。わたしは、オスであった。Tはメガネを外し、垢抜けていた。女子大学生として、わたしから見ていられるようになっていたのだった。時は残酷にも過ぎ去っていき、みんなが大人になっていたのだ。わたしは、子どものままだった。

 その日はやぶれかぶれになって、ネカフェで、たくさんのリスミーを飲んで寝た。料金は5000円もした。変な夢をたくさん見た。夢精もした。

 高校の男の友人と会って、散々に話もした。そうしても、なにか、やっぱり、忘れられなかった。

 たくさんお酒も飲んだ。お金も山ほど使い果たした。それでもなお、神戸には、拭いきれない思いの残り香があった。

 それだけの感情を彼に抱いていたのであった。それは内向きな感情でもあった。ただのオナニーでもあった。しかし、3年という月日の重みは、19年の私の短い生涯よりも、はるかに存在していた。正直にいうと、今も彼が好きである。でも、この感情は早く忘れて、次に、前に、進まないといけないんだって、みんなが言ってくる。それは正しい。

 敗走はみじめであった。行きはあれほどに楽しかった18きっぷは、ただの腰痛へと変わり果てた。彼のInstagramからはブロックもされていた。もう2度と会うことはないだろう。それは、自らが招いた失策である。もはや、痛みさえも感じない。

 それでも、ほんとうに会えて良かった。彼はいつまでも美しいし、わたしの中でも消えることはないだろう。

 またひとつ、夏の思い出ができた。わたしだけの、わたしのためだけの、思い出が。

 大洗で見ている海と、あの日、神戸で見るはずもなかった海は、繋がっている。そして、この、百年の孤独をなんともせず、波は、ただ、打ち広がっている。

 自然に比べれば、人間の感情なんて、さしたるものではない。そう、彼も吸ったセブンスターを、惜しげに吸いながら思う。

 わたしは夢を見ていた。彼は夢を見られたくなかった。彼は血を流す人間であって、わたしの自慰の具ではなかった。そもそも根本から、すべてが間違えていたのである。そうとでも思わないと、やっていられなくなる。

 この夢が、いつか夢だと認識できた日に、わたしは死ぬ。そして生まれ変わって、また誰かを愛するだろう。そんな時、彼という幻影に恋をしていたあの日々が、どうなってしまうのだろう。

 どうにもなっていないだろう。わたしは明日もまた生きていく。神の消えたこの世界で、意味もなく息をして。どうしようもなく生きていく。死なないから生きるしかない。自殺できないよわいこころと体しか持っていないから。

 そのような成長譚ともいい、幻影ともいい、夢でもあったものを、わたしは見ていた。なんとも贅沢な夢であった。美しい人に恋をして、破れて、強くなる夢である。弱くなる夢でもある。

 彼のことを思うと、胸がぐっと苦しくなる。

 彼はいない。彼は消えた。写真もない。

 阪急三宮駅で、あの日、夢を見ていた。その夢は、わたしの中を、ずっとずっと、駆け回っていくだろう。

 もはや交わることのない、彼とわたしという2つの線に、時という祈りを込めて。


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