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憑依と肚(はら)と女神イナンナ

6月20日(水:2018)ロルファー(ロルフィングの施術者)の田畑浩良さんと対談イベントをします。代官山の「晴れたら空に豆まいて」で。

詳しくはこちらをご覧ください。

「え、ロルファーって何?ロルフィングって何?」という方。申し訳ございませんが、今回はその話をしている余裕がないので、田畑さんのサイトをご覧くださ~い

日本ロルフィング協会によれば、いま公認不ロルファーは129名いるということですが、その中でも田畑さんは、僕が(あくまでも個人的にですが)ただひとり「天才」だと思っているロルファーです。

<とても上手なロルファー>は田畑さん以外にも何人か知っています。しかし、天才は田畑さんしか知りません…が、ここで田畑さんの天才性について書いていくと話が進まないので、これもまた措いておき…。

この対談は3月に一度しました。対談といいながら、話もあまりせずに、大きな動きもない。ほとんど何もしなかったのに、なんと好評でした(って、ほんとに何もしなかったのに好評って意味わかんない:笑)。で、好評だったので、その続きをということで今回の対談になりました。

そして、今回は、さらにわけわからなくなり、テーマが…

憑依と肚(はら)について,空間に於ける位置関係のパフォーマンスに与える影響

すごいでしょ。「憑依」ですよ、「肚(腹ではなくてね)」ですよ、そして「空間に於ける位置関係のパフォーマンスに与える影響」ですよ。何ひとつとってもふつうじゃない(笑)。

そして、それにダメ押しするように人形劇『イナンナの冥界下り』も上演するのです。もうめちゃくちゃですね。

で、あまりにめちゃくちゃなので、これは説明責任が伴う案件だろいうというなので、責任を果たしべく、ブログを書くことにしました。

▼憑依

まずは「憑依」の話から始めることにしましょう。

「憑依」というのは、神霊や精霊が巫者(シャーマン)に憑(の)りうつる状態をいいます。

神霊が憑りうつった場合は、「神懸り」と呼ばれ、神様からの言葉、神託が宣べられたりします。「あの人、神ががっているよね」なんて使い方もされます。しかし、狐が憑(つ)くと「狐憑(つ)き」などといわれて、こちらはお祓いの対象にされたりします。

日本で「神懸り」といえば、『古事記』などに登場するアメノウズメの命(みこと)が最初です。天岩戸神話の前でストリップをした人です。しかし、彼女は託宣をしていないので、正確にいえば「憑依」ではない(脱魂に違い)。

託宣をした人では神功(じんぐう)皇后が有名です。『古事記』の中では「帰神」とも言います。

神さまが乗りうつる「憑依」は芸能にもなりました。「能」もその最初期の形は「憑依」芸能であったと思われます。面をかけることによって、そこに神霊が憑依する。これは完全に憑依芸能です。

また、古代ギリシャの叙事詩である『イーリアス』を語ったホメーロスも、あんな長い物語を暗誦するなんていうのは憑依でもされていないかぎりなかなかできないし、『古事記』を語った稗田阿礼なんかもそうだったのではないでしょうか。

▼「憑依」状態になるためには歌が必要

「憑依」状態になるためには、その人自身の精神的な特性も必要ですが、それに至るための身体技法もあるように感じます。

それが歌うことです。能の場合は「謡(うたい)」といいます。

謡を謡っているうちに憑依状態になる

能の中に『翁(おきな)』という演目があります。正確にいえば、これは「能」ではなく、まったく独立した「翁」という芸能だともいわれています。とても神聖な演目で、いまはお正月や、舞台開きなどのような特別のときに演じられることが多いのですが、この冒頭の謡が何とも不思議なのです。

「とうとうたらりたらりら」

これは観世流という流派の謡い出して、これが金春流という流派になると「どうどうたらりたらりら」になります。

どちらにしろ、日本語としてはまったく意味がわかりませんね。で、この意味不明の詞句をチベット語だといった人がいました。『チベット(西蔵)旅行記』で有名な黄檗宗の僧、河口慧海(えかい)師です。

河口慧海師は、これにチベット語表記とその日本語を付して「太陽賛歌」として発表しました(昭和3年、朝日新聞)。

実は、その説はいまはまったく相手にされていません。でも、なんとなく気になるでしょ。で、1980年代にそれを確かめにチベットに行きました(本当はそれだけの理由ではないのですが)。

で、見つけました。これです。

これは「ア・ラ・タ・ラ・タ・ラ・リ」と読みます。

これは『ケサル王伝説』と呼ばれる叙事詩の一部です。ケサル王とは伝説の英雄王であり、この歌は幾世紀にもわたって漂泊の吟遊詩人たちによって伝承されてきた大長編叙事詩です。

この叙事詩は散文と韻文の混合文体で、「とうとうたらり」は韻文の部分の冒頭にしばしば現れる章句でした。しかし、残念ながらこれは太陽賛歌ではありませんでした。

この章句には「意味はない」そうなのです。これは神降しの呪言のようなもので、「アラタラタラリ」と謡うことよって、ケサル王の霊が語り手に降りて来て、霊をうけた語り手は、自身がケサル王自身になって、その叙事詩を己れの事跡として語るといいます。

もう、これって憑依でしょ。

▼肚(はら)から出る言葉

ちなみに能の『翁』では、この「とうとうたらり」のあと、翁太夫(翁を演じる役者)は舞台の上で面をかけ、そして翁神として予祝の舞を舞います。そういう意味では、『翁』の「とうとうたらり」も、翁神に変身するための憑依の呪言だといえるかも知れません。

あ、でも、だからといって『ケサル王伝説』と『翁』に関係があったとか、さらには古代チベットと日本には交流があった、なんでトンデモ話はしません。

ただ、ともに憑依のために似たような音をもつ呪言を唱えるということに興味を覚えるのです。

さて、ここでちょっと西洋に目を向けてみます。

『旧約聖書』にも憑依の話が出て来ます。これは高井啓介先生(関東学院大学)に教えていただきました。『旧約聖書』の「サムエル記」に出てくる「口寄せ」です。

日本の「憑依」は最初、神霊を呼ぶための王維でしたが、いつか死霊や生霊をも呼ぶようになります。それが「口寄せ」です。恐山のイタコが有名ですが、能の中には梓巫女として登場します(能『葵上』)。

さて、「サムエル記」をヘブライ語で読むと、「口寄せ」は「オーブ(אֹב֥וֹ)」と書かれています。これは水やワインを入れる「革袋」がもとの意味です。

『旧約聖書』は、もともとはユダヤ教の経典ですが、それをキリスト教徒が読むときには、ギリシャ語(コイネー)訳(『七十人訳聖書』)で読みました。

この「オーブ(אֹב֥וֹ)」をギリシャ語(コイネー)では「エンガストリミュートス(ἐγγαστριμύθος)」といいます。

これは「肚(ガストロ)から出る言葉(ミュートス)」、すなわち「お腹から託宣を宣べる」という意味です。

お、ここで「肚(はら)」が出て来ました。

▼エンガストリミュートスとしての『イナンナの冥界下り』

能の稽古でも、よく「肚から声を出せ」といわれます。最初は「大きな声を出す」という意味で受け取っていたのですが、どうもそうではない。

能のシテ(主人公)は神霊や幽霊が多い。神霊がふつうの声で「こんにちは」といっても、全然、神霊っぽくないでしょ。神霊の声は肚からの声、すなわち「エンガストリミュートス」です

だから、正確にいえば「肚から声を出す」のではなく、「肚から声が出る」です。

そして、「エンガストリミュートス」をギリシャ語の辞書で引くと「腹話術師(ventriloquist)」という意味もある。デルフォイの神託を告げる巫女が腹話術を使ったともいわれています。腹話術というと人形を使ったものを思い出しますが、もとは「神託の声」だったのです。

そして、これが今回、人形劇『イナンナの冥界下り』を上演する意味です。

エンガストリミュートス、すなわち肚から出る能の発声を使って(しかもシュメール語)、そして人形を扱って古代神話を演じる。これは、演劇というよりは「密儀」です。

ちなみに『イナンナの冥界下り』の詳細にについてはこちらをご覧いただくことにして、ここではPV(再掲)を載せておきますね。

▼肚の声に任せる

ところで、なぜ神託は「肚」からの声なのでしょうか。

お腹(腸)には、もうひとつの脳があるのではないかという人もいます(ロルフィングのトレーニングでも「Gut Brain」というニューヨークタイムスの記事を読みました)。また、腸の中の細菌が私たちの性格を作っているという人すらいます。

私たち、特に無意識の部分は、案外、お腹に支配されているのかも知れません

『新約聖書』の中で、イエスの「あわれみ」だけに使われる「スプランクニゾマイ(σπλαγχνίζομαι)」という語があります。これは「内臓が動く」というのが原義です。

あわれむべき人を見るとイエスの内臓がぐわっと動いたのです。ちなみにイエスは、ヘブライ語かアラム語を話していたといわれています。で、そのヘブライ語の「あわれむ」は「ラーハム(רָחַם)=名詞:ラハミイム(רַחֲמִים)」です。これには「子宮」という意味があります。

あわれむべき人を見たイエスは内臓が動きましたが、その本来の感覚は子宮の動きだったのでしょう。

ちなみにシュメール語で「哀れみ」や「思いやり」を意味する「アルフシュ(arhuš)」、もともとが「子宮」という意味です。楔形文字では女性性器の上の部分を示す文字で表されます。

また、中国でいえば「心」という文字は、周の時代に誕生しますが、当時の「心」という文字はまるで男性性器の象形です。

古代中国では男性性器、メソポタミアでは子宮、ともに下腹部が心の定位置でした。そこから出る言葉、下腹部である「心」からの言葉が「エンガストリミュートス」なのです。

田畑さんの前回のセッションでは、田畑さんが何もしないのに、その立ち位置によって安田の声や姿勢が変わったことを見た方が多かった。

今回は何が起こるか、とても楽しみです。

…というわけで6月20日(水)@「晴れたら空に豆まいて(代官山)」です。どうぞお出ましくださいませ。

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