海鹿島

差別としての「貧困」

『イナンナの冥界下り』人形劇は、プロジェクトちゃらの一環です。

プロジェクトちゃらは、友人たち数人と始めたプロジェクトで、まだまだ試行錯誤の段階で、公表できるようなものではないのですが、主に以下のことを考えています。

・「心の次」の時代こと
・「死」の問題
・貨幣経済に関すること…というか挑戦

…そのほかいろいろ

で、今回は「貨幣経済」関連のことを書こうと思います。「差別としての貧困」についてです。

※「プロジェクトちゃら」は、まだ発足前の段階ですからメンバーの募集などはしておりません

▼差別とも思わない貧困への差別

僕は若い頃、とても貧乏でした。

大学に入るために上京して最初に入ったアパートは3畳ひと間でした。縦長の長方形の部屋で、横になることしかできない(笑)。僕たち世代の人はみなそうでしたが、トイレは共同ですし、お風呂もついていません。お風呂屋さんに行きます。むろん、毎日行くほどのお金はない(くさっ)。

こたつもストーブもありません。唯一の暖房器具は「布団」です。寒くなると、いっぱい着こんで布団に入ります。夏はもっと悲惨です。冷房器具は扇風機すらなかった。

いまは運よく「貧困」といえるような状態ではありませんが、これは単に「運」の問題だと思っています。

しかし、貧困というのは努力が足りないからそうなるんだと思っている人もいます。貧困であることは、本人、あるいは家族に何らかの問題があるからだという信仰が根強く残っています。

そのため、あらゆる差別の中で最後まで残ってしまうのが「貧困」への差別であると思われます。この差別の一番の問題は、それを差別であるとすら思わない人が多いということです。

たとえば5つ星のホテルに泊まりに行って、その国籍や、あるいは人種を理由に宿泊を拒否されたら「差別」として問題になります。そのホテルはマスコミやSNSでめちゃくちゃ叩かれるでしょう。

でも、ホームレスの人が「お金がないけど、泊めて」といって「ダメ」と断られても、これを差別であると思う人はほとんどいない。いや、変だとすら思わない。

それがこの差別の根深いところです。

たとえばこれが医療だったら…。

難病にかかっている。治療法はある。でも、治療費が高い。貧乏という理由だけで、その治療が受けられず、座して死を俟つ。

いまはこれも「当然」、あるいは「しかたない」ですまされていますね。でも、本当は変でしょ。命までもがお金があるかどうかで左右されるのって。

医療に関しては、「それは問題だよね」という人はいます。でも、貧乏な人が5つ星ホテルに泊まれないのは変だとは思わない。それは当然、しかたないと思ってしまう。

でも、これって本当は同じだと思うのです。

▼貧困は努力の欠如ではない

貧困はよく努力の問題にすり替えられます。「あいつは若い頃に努力をしなかったから貧乏なんだ」と。

子どもの頃、うちは貧乏だったし、田舎だった(ちなみに上の写真の右側の空き地が実家跡です。太平洋のすぐそばです)。

だから塾にも行けなかったし、予備校にも行けなかった。テレビでは、塾や家庭教師などが出てくるので、そういうものがあるというのは知っていました。学校ではわからなかったことも教えてくれる。

「まるで魔法だ!」とあこがれました。

そうそう。学習机にもあこがれた。ひとり部屋とかね。うちは四人兄弟で、しかもみんな年が続いていた(年子)なので、常に戦争状態でした。

そりゃあ、塾に行ったり、予備校に行ったりすることができて、しかもひとりで勉強ができるような部屋や机がある人ならば、成績がよくなるのは当たり前です(ならない人もいるけど:笑)。塾にも行けない、予備校にも行けない、自分の部屋も自分の机もないという貧乏な人は、高校に行くのも、大学に行くのも大変なんです。

だいたい「努力が足りない」なんていいますが、みんな努力してます。たとえば6時間連続で勉強できる人と、3分で飽きちゃう人だって同じ努力をしている。3分で飽きちゃう人は、それがその人の最大限の努力なのです。

僕は能のワキ方に属しているのですが、ワキは舞台で2時間以上も動かずに座っていなければならないときがあります。僕はこれがとても苦手。先輩はこれは平気だけれども、セリフ(「謡」といいます)を覚えるのが苦手。

で、苦手なことを稽古すればいいのですが、僕は座る稽古はする気にならない。だからいつまで経っても座るのは苦手。でも、謡はよく稽古です。

先輩は逆。謡の稽古はあまりしない。

謡の稽古だってつらいときはある。「もう、やめたい」と思っても、それでも続けることができるのは、それが自分に向いているからです。

あらゆる努力は、それへの糸口があるからできるのです。

「差別としての貧困」の問題は、声高に「差別、反対!」なんて叫ぶのではなく、もっとしっかりと、そして静かに考えていきたいと思うのです。

このこともプロジェクトちゃらでは考えています。

※再掲:「プロジェクトちゃら」は、まだ発足前の段階ですからメンバーの募集などはしておりません。