CDは仮想通貨ではない

BOAT 『RORO』

音楽とは―自分にとっては、だけれども―何なのだろうと考える時がある。
そしてその事を考える時、いつも一つの夏のことを思い出す。

あれは2007年の事だ。この年は記録的な猛暑で、各地で観測史上最高気温が更新されるような年だった。
日本全体が暑さでうだる中、僕は23歳で、暇があって、北海道に1ヶ月間のバイク旅行に来ていた。
いや、旅行というのは正確では無い。
なぜならその期間の内の大半は競走馬の育成牧場で働いていたからだ。
しかも自宅にいる間に働き先を決めていたわけでは無い。
ただ牧場で働きたいと思い、フェリーで北海道に行って、牧場が多い日高に向かい、競走馬博物館に行って、博物館の職員から近くにある牧場の1つで人手を探していると言うことを聞き、その日にその牧場で面接を受けたのだ。
そこの牧場長は面接の後、牧場で働いたこともない、素性もよくわからないであろう僕を採用し、寮内に住む部屋まで用意してくれた。今考えても、奇跡のような事だ。本当に感謝しかない。
1ヶ月の間、僕は埼玉で暮らしていたときとはまるで違うリズムの生活の中に身を置き、己の中に経験を貯めていった。

でも当時の僕はなぜそんな事をしたのだろうか。声優を目指しつつも、ただ埼玉で飲食店のバイトをしていた僕が。
衝動と言ってしまえばそれまでなのだけど、その頃の僕は何かを変えたかったのかもしれない。
僕は僕の中の何かを、僕の周りの何かを変えるために、今までとは全く違う環境に身を置いたのだ。
意識はしていないけれど、そういう時期だったのだと思う。
僕は毎朝5時前に起きて、競走馬に飼葉をやり、トレーニングマシーンまで手綱を引き、厩舎の掃除をし、馬の蹄につまった土をはらってやった。
なかなか慣れぬ仕事に、僕はいつもクタクタになって寮の部屋に戻った。
そして、寝る前にはイヤホンを耳に挿し、よく100sの「ALL!!!!!!」を聴いていた。
中村一義の祈りや願いが、前へ前へと駆け抜けるようなアルバムで、疲れた身体に音楽が染み渡るようだった。

ある日の事だ。同じ牧場で働いていた先輩の家の晩御飯に誘われた。
先輩の奥様の手料理を頂き、酒を飲み交わし、よく話し、心を軽くして外に出ると、あたりはすっかり暗くなり、空にはこれまでに見たことのないような、美しい一面の星空が広がっていた。

牧場の周りには街灯も高い建物もない。
暗闇の中、ただただ星空だけが目の前に広がる。
月と星の光の強さで現実的な距離感が分からなくなる。
星に触れそう、と言うのはこういうことを言うのだと思った。
そうか、本当は夜にはこんなにも星が存在していたのか。
埼玉に居たときにはまるで気付かなかった。
あまりに多くの星が煌めいていて、僕は目を回しそうになった。
美しさで息もできない。
僕の身体はその時間違いなく、地上を離れ宇宙を漂っていた。
そこは静かで孤独な空間であった。

「この星空を見るために、もう一度ここに戻ってきてもいいべ」
横に居た牧場の先輩が言った。
身体を地上に降ろし、見上げていた顔を横に向けると、先輩は少し照れたように笑っていた。
その言葉と共に、僕はあの星空を忘れないと思う。

夏は終わらない。
日高で、人と馬に別れを告げ-馬は間違いなく僕の言葉を理解してくれていた-、
僕は札幌に向かうことにした。
日にちは8月17日。
その日はライジング・サン・ロックフェスティバルと言う音楽フェスティバルが開催される日だった。
僕は音楽を聴くのが好きで、せっかく北海道にいるのだから、このフェスを見てから埼玉に帰ろう。そう決めていたのだ。
僕はそう言ったフェスと呼ばれるものを見に行くのは初めてだった。楽しみでたまらない。

空は晴れていて、道はどこまでもまっすぐだ。信号も少ない。滅多なことでは止まることなく、海沿いの道を僕は行く。
海から吹いてくる風はとても冷たくて、寒さで身体が震えた。
バイクに乗っているとこの夏の暑さなんて嘘みたいだ。体の芯から冷えてくる。
やれやれ、もともと僕は寒がりなのだ。いくら長袖を着ていても足りない。
そんな寒さに耐えながら走り、とうとう札幌にたどり着く。
そうすると今度はぐるぐるとめまいがするような気がしてきた。
寒さで体調を崩したのだろうか?
そうじゃない。何故か。緊張だ。音楽フェスに行くのに緊張?
そう。何故ならそのフェスに一緒に行く事になっている人が居たのだ。
それも初めて会う人だ。「実際に」は。

その人は釧路に住む女性だった。
彼女とはインターネットを介したRPGゲームで出会った。
世界中にいるたくさんの人が、ゲームの中に自分の分身のキャラクターを作り、ネットを通じて会話したり、協力してモンスターを倒したりするゲームだ。
ゲーム内での僕は剣を振りモンスターを倒す剣士で、彼女は敵から受けた傷を癒やすピンク色の髪の毛の僧侶だった。
共通の知り合いを介して出会い、沢山のモンスターを倒したり、アイテムを探したり、ゲーム内でのを任務を一緒に進行したりして、僕らは親交を深めていった。
たくさんの話の中で、その人も音楽が好きということを知って嬉しくなった事を覚えている。
マイクロソフトメッセンジャーと言うチャットソフトのアドレスを交換しあって、ゲームをしていない時にも、夜遅くまで好きなバンドの話をしたり、おすすめの曲を紹介しあっていた。僕が紹介した曲を好きになってくれたこともあったし、彼女の紹介する曲も、僕の気に入るものばかりであった。
だから僕も「行こう」と決めたときに何気なく彼女をライジングサンに誘えたし、彼女も承諾してくれた。

そんな彼女との集合場所が札幌駅だった。開場の1時間前に集合。
僕はバイクで駅に向かい、彼女は汽車で-北海道の人はJRの事を汽車と呼ぶ-札幌に来る。
駅に到着して時計を見ると、時間は集合の10分前だった。
約束の場所は北口を出たところ。
もう来ているかもしれない。携帯でメールを送り、小走りでその場所へ向かう。

そうして、僕は彼女に出会った。約束の場所には宿泊の荷物を抱えた、小柄な女性が立っていた。
優しそうな目が印象的だった。肩まで伸ばした髪がすっとまっすぐに流れている。髪の色は本当はピンク色じゃ無いんだな、そんな間抜けな事を思った。
向かってくる僕に気付くと、一瞬緊張した表情を向け、それでも微笑みかけてくれた。
その瞬間、僕の中で、なにかがストンとあるべき場所に収まったような感覚があった。それが何なのか、その時の僕は分からなかった。

そこから何を会話したのか、いまいち覚えていない。
勿論改めての自己紹介をしたんだと思う。「初めまして」と言ったんだろうか?
その時初めてゲーム内での名前ではなく、本当の名前を聞いたのかも。いや、それは前から聞いていたかもしれない。とにかく僕はうわついていた。
でも、何だか楽しかったことは覚えている。彼女の声はとても柔らかく綺麗だった。
ある程度話して僕らは会場に向かうことにした。
彼女にバイクの後ろに乗ってもらう。
僕はシートに座り、キーを回す。彼女がタンデムシートにまたがり、ぎゅっと、僕のお腹のあたりに両手を回す。僕は何も考えないようにして、右手のアクセルを回す。彼女は僕の背中にぴったりと顔を埋めた。


後から聞いた所、彼女は誰かのバイクの後ろに乗るのは初めてだったのに、僕は二人乗りのろくな説明もしないまま、ただ笑顔でヘルメットを渡して、彼女に後ろに乗るように言ったということだった。酷い。反省しきりだ。
彼女の手はずっと僕の前に回され、会場に到着するまで緩むことは無かった。
僕は何故かそのことによって、逆に緊張が抜け、彼女を安心させるため、たくさん話しかけた。今日のこと、牧場のこと、ゲームの事。
いつもよりゆっくりと車輪を回しながら。
勿論そんなことより、きちんと二人乗りの話をしてから乗れば良かったのだけれども。でも、内緒だけれど、そんな道が僕はちょっぴり楽しかったのだ。


無事会場に到着し、改めてふたり、ビールで乾杯をした。
空はどこまでも青く、吹き抜ける風も心地よい。この会場に来ている全員が音楽を楽しみにしているのが伝わり、心が躍る。プラスチックのコップに注がれたビールはとてもとても美味しかった。
それからフェスの2日間、本当にたくさんのアーティストを見た。
始めはマキシマムザホルモン。
ザ・クロマニヨンズでは、モッシュに巻き込まれてもみくちゃになり、慌てて2人で後ろに退散した。
お互いにエルレガーデン、the pillowsが好きで、ベスト的な選曲に興奮が止まらない。
スガシカオが見たかったのに、会場の人数制限で中に入れなかった。外に漏れ聞こえたスガシカオの声を聞いたときの彼女の感動した顔が印象的だった。
Corneliusの音楽と、効果として飛ばされたシャボン玉と、夜の暗闇で、まるで自分達が夢の中にいるかの様に思えた。
深夜に野外で聴くBUMP OF CHICKENの天体観測、フジファブリックの銀河はまた違った一面を僕たちに見せてくれた。
夜明けのCoccoに胸を撃ち抜かれた。
新しい一日の始まりの曽我部恵一BANDで僕らは多幸感に満たされた。
僕らは沢山の音楽に触れ、沢山話し、感動を伝えあい、そしていつしか手を繋ぎ合っていた。
登る朝日が黄金色に輝いていた。

帰りの汽車までかなりの時間があったので、僕らは何とはなしに小樽まで行くことにした。
彼女は少しタンデムに慣れたようで、僕のお腹に回した手を少し緩めて、後ろに流れていく風景の感動を僕に伝えてくれた。
「バイクって楽しいね」と彼女は言った。
「そうだね」と僕は言った。
まるで寒さなんて感じなかった。
この道がどこまでも続いていれば良いと思う。

小樽で食事をして、いくつかのガラス細工を見て周り、そして時間になった。
札幌駅でひとまずの別れを告げる。また会うんだろう。
僕はもう一泊だけして苫小牧からフェリーで帰る。
1ヶ月の北海道での暮らしも、もう終わる。
あの牧場での仕事も、宇宙とつながった星空も、夢のようなライジングサンの空間も、全てが過ぎ去っていったのだ。
彼女と別れた後、すぐに僕はイヤホンを片耳に差し込み、ヘルメットを被り、バイクに跨り、アクセルを捻った。
走らずには居られなかった。

海沿いの道を走る。暑いのか寒いのかはもう分からない。
イヤホンからはギターとドラムが静かに絡まりあって、音楽が始まる。
僕はBOATの『RORO』を聴きながらバイクを走らせる。
ROROと言うアルバムは、夏の終わりが一つのテーマになったアルバムだと思う。
夏が終わる時に何故か分からないけれど感じる寂しさ、焦り、哀しみ切なさをそのままに感じる。そして、このアルバムを最後に、BOATは解散になったらしい。色々な意味での「最後」が封じ込められている。

はじめはゆったりと揺らぐように感じる演奏が、だんだんと焦燥感と、怒りすら帯びてくる。激しい歪んだギターの音色が、僕の気持ちを締め付ける。
ピアノとシンセサイザーが僕の目の奥から何かを押し出そうとする。
なにかに追い詰められ、すべてを諦めたような、それでも何かに縋るような祈るようなASEのボーカルと、空間にたゆたい、時に刹那的に、感傷的になるアインのボーカルが絡み合い、僕の脳をショートさせ、バイクのスピードを上げていく。

「アキラムジナ吸って 
 夏を裏付けた
 マジを埋め消して
 走り去って撒いた」

左手に見える夕陽が水平線に沈んでいく。
僕は夕陽を追いかける。
終わりゆく夏を、記録的に暑い夏を、この奇跡のような夏を決して逃さないように。

勿論夏は終わる。
僕と彼女とのお話はまだまだあるのだけれど、それと同じくらいのいくつもの事があり、今はもう会えない。
グーグルマップで調べた所、僕が働いていた牧場はなくなっていた。
どんなに長く、暑く感じた夏も、いずれ気温は下がり、葉が色づいて、秋が来る。
いつまでもそこに留まり続けたいと言う幼稚な願望は、叶うはずも無い。
だからこそBOATはASEは焦り、もがき、夏を終わらせまいとしたんじゃないかとふと思う。
叶うはずが無いからこそ、美しいのだ、と。
夏を終わらせまいともがいた記憶は、僕の中に、どこか遠くの知らない池の中に沈められた岩のように、重く深く静かに、誰も動かせないまま残っている。

夏は終わる。あの夏は二度とこない。
でも、BOATのROROのCDケースを開く時、僕はいつもあの夏に感じた気持ちを思い出す。
そこには「僕の」あの夏の匂いが閉じ込められている気がする。
毎年夏が終わる頃。僕はこのCDをきいて、少しだけあの夏に戻る。
あの星空に漂う。そして、彼女と共に笑う。
その思い出は僕の胸を熱くする。あの夏の気温の様に。
そして、それがもう消えてしまったことを改めて感じ、涙を流す。
それは他の誰かから見たら、よくある、大したことのない思い出かもしれない。けれど。

音楽とは何なのだろうか。
そう思うたびこの夏の事を思い出す。
沢山の音楽に触れたこの夏を思い出す。
僕にはまだ何も分からないのだけれど、例えばROROの様に本当に優れた音楽というものは、聴いた人それぞれにそれぞれの夏を、そして掴んだはずなのに、消えていってしまったものを「ありありと」僕たちの手の中に蘇らせてくれるのだろうとうことは分かる。
そしてそれはその人だけの、得難い体験になる筈だ。

音楽は他の何者とも交換出来ない。
音楽は時々に寄って価値が変動するものでは無い。
音楽は誰かに勝手に使われてしまうものでは無い。
そして音楽は具体的に何かの役に立つものでは無い。
音楽は仮想通貨ではない。なんて経済の事なんて詳しくないのに、
昔の菊地成孔のweb連載に擬えて思う。
でも、本当にそうなのかもしれない。
音楽は仮想通貨ではない。
確かに僕らの手に、心に、しっかりと残るものなのだ。


楽理の知識なんてほとんど無い僕が、
こんな風に音楽にかこつけて色々な事を書いていこうと思っております。

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