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黒部川とダムと隧道

前回まで、黒部ダム〜仙人谷ダムの状況を共有しました。
ここで小休止して、このルートに関する背景や歴史をまとめることにしました(調べたことの備忘録も兼ねて)。疑問や曖昧な点も多くて。詳しく知ってる人いたら教えてください。

▼黒部ダム~欅平のルート

こんな道を誰が何のために作ったか

下ノ廊下は黒部ダム~仙人谷ダムまでの登山道の呼び方。上の廊下奥の廊下という道もあって、それぞれ黒部ダム周囲の登山道に対して使われてる。
下ノ廊下は別名で旧日電歩道という呼び方がある。別名というか、こっちが元々の呼び方で、この日電歩道が切り拓かれていなければ、今の下ノ廊下は存在しなかっただろう(地形が急峻すぎて、カモシカ等の野生動物でもたどれないらしい)

この日電歩道は、今はない「日本電力」という会社によって黒部川沿いの水力発電所の調査のために作られた。黒部川は昔から洪水が起きては下流の人間が住んでる場所に甚大な被害をもたらしてきた。このエネルギーを水力発電に利用しようということで、黒部川沿いのダム・発電所開発は大正時代からスタートした。(この頃の日本はまだ原発もなく戦前戦後を背景に電力不足だった)

黒部川の水力発電所としての開発

下ノ廊下ルートの途中では、黒四発電所の送電線と仙人谷ダムが見られるけど、他にも黒部川沿いに発電所&ダムがたくさんある。富山県側の黒部川下流から、柳河原発電所(黒部第一発電所という名前でないのが謎。今は新柳河原発電所に代わり水底に沈んだ)、黒部川第二発電所、黒部川第三発電所、黒部川第四発電所と順に開発された。

【黒部川流域の発電所開発の歴史】
1927年 柳河原発電所(黒部川第一発電所?) 運転開始
1929年 日電歩道 開通
1936年 黒部川第二発電所 運転開始
1940年 仙人谷ダム 完成
1940年 黒部川第三発電所 運転開始
1958年 大町トンネル 貫通
1960年 黒四ダム 完成
1962年 黒部川第四発電所 運転開始

黒部川沿いでもっとも表メディアで取り上げられる有名な黒四ダム&大町トンネルは、黒部川流域の発電所開発において最後の開発ってことが分かる。

どうして黒四ダムばかりが有名なのか

TV番組や観光など表メディアでは、やたら黒四ダム&大町トンネル開発が多く取り上げられているように見える。(NHK「Xプロジェクト」や石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」など。長野県信州大町側の富山県側の観光名所を紹介するパンフレットも黒四ダム推し)。
また、黒四ダムは正式には黒部ダムというので、黒部代表のダムのようにも聞こえる。
黒四ダムが日本一でかいことや観光地としてのアクセスのしやすさ、あとは「破砕帯」や「豪雪」など黒部でのダム開発の困難さを語るネタが豊富という面はもちろんあると思うんだけど、とはいえ、この黒四ダム&大町トンネル開発の前身・礎となった黒部川沿いの他のダム&トンネルを語らずして黒四ダムの苦労ばかり取り上げるっていう状況には違和感がある。(別に黒四ダムが嫌いとかそういうわけじゃなくて、とにかく他のダム&トンネルに関する情報発信が少ないという違和感。)

▼宇奈月駅にある黒部川電気記念館

▼黒部川電気記念館にあった、黒部ダムをプロジェクションマッピングで再現するという展示。「プロジェクションマッピング」のアイディアが先行しちゃって目的を見失っている印象が強いシュールな展示だった。ふつうの会社の商品開発でもありそうな失敗例だけど(笑)

ちなみに宇奈月駅に黒部川電気記念館という施設があるけど、黒四ダムにあったくろよん記念室で展示されてた情報を削って漠然とさせつつ装飾したような内容でちょっと期待はずれだった。宇奈月は富山側なんだから、日電歩道についてもう少し触れられてるんじゃないかと期待してたが、黒四ダムのことがメインだった。(初めて黒部峡谷に来た観光客は概要を楽しめるのかもしれないけど)

▼黒四ダムの休憩所に併設された記念館。黒四ダム開発の動画が見られる。

黒四も黒三も工事中に多くの犠牲者を出してる

黒四ダムに関連する工事では工期7年間で171人の犠牲者を出し、黒四ダムの写真スポットの前に慰霊碑やモニュメントなどが置かれ、丁重に弔われてる。

いっぽう黒四ダムの隣の仙人谷ダム(黒部第三発電所)関連の工事では工期5年間で300人超の犠牲者を出したが、こちらはこれといった慰霊碑は見つけられなかった。強いて言えば日電歩道の途中に慰霊碑が置いてあったくらいか。

この時点で扱いの差にかなり違和感がある。300人超という犠牲があったのに、その苦労が取り上げられないのも、情報が発信するような施設がないのも不思議だ。
吉村昭の「高熱隧道」を読んでちょっと思ったんだけど、仙人谷ダムの開発は戦時中という背景で、日本電力ひいては国家からのプロジェクトとして、強い圧力のもと急ピッチで進められたため、技術があまり進んでいない当時だったとしても、ずさんで無茶な作業を現場の人間たちに強いる工事となってしまったのではないか。その結果、甚大な犠牲者(日電歩道から荷物運搬中の滑落死にはじまり、ダイナマイト自然発火による爆死とか泡雪崩で宿舎ごと飛ばされて即死とか、むごいものも多い)が出たことを、公にすることを望んでいない見えない大きな圧力があるんじゃないか?と勘ぐってしまう。

「労働環境の改善は一般的な問題にはなっていたが、(中略)人間が作業する環境とは程遠い特殊な世界が形づくられていたのだ。」(高熱隧道から引用)
こういった事実を、別の切り口から確認できたり痕跡をたどったり、何らか情報を補足できるような施設を作ってほしいな、と思った。そういう過去の失敗も含めて伝えていくことが、犠牲になった人たちへの弔いにもなるんじゃないかと。

▼いちおう欅平駅の待合場所に、黒部川沿いのダム&トンネル開発についてのざっくり説明ボードはあった。

次は話を戻して、仙人谷ダム~阿曽原温泉を共有しようと思います。

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