指揮棒が耳に刺さった話

だいたいの人は、自分の耳に指揮棒(クラシックの指揮者がもっている鋭利な棒)が刺さる経験はないだろう。あれは大学2年の冬、自宅で今度指揮することになる楽譜を見ながら拍子の確認をしていた時だった。4拍目を振るときになぜか手元が狂い、運悪く自分の右耳に指揮棒をぶっ刺してしまった。最初は何が起きたのかわからず、突然の右耳の激痛と激しい耳鳴りでその場にうずくまった。次第に「誤って耳に指揮棒をさしてしまった」ことに気付き始めたが、耳鳴りは一向に収まらず、ただ耳から流れる血を見て絶望した。自分は今後音楽家として非常に不自由な身体になってしまったのだという強い恐怖が、強く私を包んだ。

20分ほど経つと少しは冷静に物事を考えられるようになってきたので、すぐに行ける耳鼻科を探して直行した。その日は休日で、なかなか開いている病院を探せなかったことを覚えている。

何とか見つけた病院に電話で連絡を入れた。「今日はどうされましたか」とマニュアル通りの質問をする看護婦さんに、私は正直に「指揮棒が耳に刺さり、血が流れている」ことを伝えた。幸いすぐに診てもらえる様子だったので、鼻血が出たときに鼻に詰めるようにティッシュで詰め物を作り、取りあえず耳に突っ込み、家を出た。

受付で自分の名前を伝えると、問診票を書くよう指示を受けた。ここでも正直に「指揮棒が耳に刺さり、流血した」ことを書いた。その問診票を受け取った看護師もマニュアル通りなのだろうか、「今日は指揮棒が耳に刺さったのですね?」とはっきりとした口調で私に確認してきたので、そうであることを伝えた。待合室の大変狭い病院で、ほかの方にも十分聞こえていたと思う。なお、この日ははちょうど佐村河内守氏のゴーストライター事件が明らかになった日で、待合室のテレビには新垣さんの姿が映っていた。

しばらくして診察室に通されると、韓国人の主治医が私を待っていた。非常に日本語の発音が上手だが、語彙が豊かではないらしく、必要最低限以外の発言はなかったと覚えている。簡単な問診の後はベッドに寝かされ、細い管のようなカメラを耳の中に通された。痛みはなく、ベッドの隣にあったスクリーンに自分の耳の中が映っていた。

流血があったので、かさぶた?のようなものが目立った。スクリーンに映った画面は案外暗く、素人が見て何かわかるような代物ではなかったが、しばらく見ていると突然白地に綺麗な黒い円が現れた。その瞬間、医者からひと言「すっげえ」と言葉が漏れた。何がすっげえのか、当時の私にはわからなかった。

その黒い円は、鼓膜に開いた穴だったのだ。指揮棒という先端の鋭利なものが白い鼓膜に対して垂直に刺さったため、傷口も綺麗な円形を描いたと考えられるらしい。鼓膜が破れて耳鼻科に来る患者は一定数いるが、多くは耳かき中の不注意や事故などの反動によるもので、傷口の形は不規則な形になるようだ。今回のように綺麗な円形で鼓膜を破る人はまずいないとのことだった。

診察後、「点耳薬」をもらって病院を出た。横向きに寝そべって、耳に向かって水滴を垂らすのである。これがなかなか難しく、点眼薬のように簡単に目標物に水滴を垂らすことができなかったので、点耳薬をうつときは毎回決まって耳周辺がびしょびしょになった。

初めての記事を書くのに疲れたので、ここら辺でおわり

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