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地味な生を肯定する: 岡田拓郎 『Morning Sun』 論(1)

岡田拓郎という人物、そして彼のつくる音楽にはつかみどころがない。つかみどころがないというか、彼には目立った特徴がない。いや、それは彼を貶しているのではない。簡単に言って、彼は地味なのだ。アーティスト写真も、茶色の配色でただ何とも言えない顔ですっ立っているし、彼も彼のつくる音楽も一言で表すことが難しい。しかし、その難しさ、複雑さを紐解くことがこの批評の試みであるわけだし、もし簡単に言い表せるのであれば、それ自体面白味のないことだ。私は「地味」という言葉をもはや褒め言葉として、批評の言葉として再発見したいのである。地味さ、素朴さ、朴訥さ。ただそこにいるような感覚だが、彼の鳴らす音に魅了される者は私を含め多くいる。それは事実だ。では、なぜそのような事実が成立するのか。私はそこを見つける過程で、彼の地味さの複雑さを少しでも解明できればいい。

「地味」を別の言葉に置き換えてみたい。「正直」という言葉だ。素直に、ただそこにいる、そんな姿。それは2020年6月にリリースされた『Morning Sun』というアルバムがテーマとしている、夜や夜明け前にもマッチしている。ただそこにある、音楽。夜の沈黙の中から聴こえてくる音たちを丁寧に聴き分けて、採集し、それをそのまま演奏する。眠れない夜にベッドの上で、ただそこに佇んでいること。そのときに描かれる音楽は内省的でもなく、感傷的でもなく、ただそこにある空気をつかむような—それもつかみどころがないのだが—ものだ。ただそこにいるからこそ出るもの、出てしまうもの。そんな「しまう」を肯定すること。それは生を肯定することでもある。『Morning Sun』は生で始まる。冒頭曲でアルバムのタイトル曲でもある「Morning Sun」はボーカルの岡田の息継ぎの音から始まる。息を吸う音。それは声=息を吐く音につながる。呼吸がうたになる。呼吸はうたである。うたは呼吸になってしまうのである。それは物質主義的かもしれないが、それは意図されている。本来、編集の過程で消される息づかいという生の痕跡をあえて残すこと。

生きること、ただそこに身体があること。音楽批評において、音楽における身体性を強調するような言説が登場している。それはもとの音楽批評の土台にあってもよかったような議論であるとも感じる。岡田拓郎にとっての身体性は演奏者としてのそれである。インタビューでも語っているように、彼はまずもって(ブルースギタリストの)演奏者である。それはただそこにある身体が楽器(声を一つの楽器とすればそれも)を演奏する。それは音が身体によってつくられているだけではなく、その身体がどう動くか、その身体がつくった音を身体がどう受け取るか、の問題でもある。つまり、それはただそこにある身体によってつくられる「生」の感覚、揺らぎ、ずれ、グルーヴ、だけでなく、演奏している身体の気持ち良さ、快楽、酩酊、官能性、美。そして、それを受け取る身体、つまり鑑賞者である私たちの気持ち良さ。

その酩酊感は夢的、幻覚的でもある。しかし、『Morning Sun』ではその語り手(歌い手ともいうべきなのか)は眠っていない。いや、眠れない。身体が自分の意識の通りにコントロールできない。なぜなら、その身体がただそこにあるからだ。だがある意味ではその身体の「ままにならなさ」に付き合うなかで生まれる官能的な熱狂がある。自分の身体が思う通りに制御できない無力感に打ちひしがれながら、それをアルバムの最終曲「New Morning」というアンビエント音楽=無意識の眠り、夢に昇華していく。そのプロセス=ストーリーがこの『Morning Sun』というアルバムなのである。けれども、この「Morning Sun」、たんに訳してしまえば「朝日」は、このアルバムの中で「いつまでたっても自分のもとに来ないもの」として表象される。到達しないものの物語は求められない。ゴールのないストーリーは需要がない。そんな誰にも求められないものを丁寧に拾い上げる、そんな地味な作業を岡田はやってのける。

生は地味なのだ。そうだからこそ、はじめて生を肯定できるのではないか。

岡田拓郎『Morning Sun』(2020)

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