問いをべつのしかたからいう(最終回(仮))

以下用いる「DAE」は、デューイ、『民主主義と教育(上)』、岩波文庫、1975年、の略号である。カッコ内の数字はページ番号。

 前回の「福島教育研究」で、問いを三つ挙げた。
 (1)何かを教える目的の基礎はどのように定めるべきか。(2)だれが目的の基礎を定める権限を持つべきか。(3)Aを教えて、その代わりBが教えられなくなるとき、Aを教える目的とその基礎が、Aを教えることを正当化すると同時に、Bを教えないことを正当化する必要がある。そのとき、A/Bを教えることの目的の価値に優劣をつける必要があるが、比較の基準を設置することは可能か。(3a)可能であれば、どのようにして可能か。(3b)可能でなければ、正当化できないとなって、Bを教えないことの倫理的な問題(暴力性)が発生する。今度はそれを別の方法で解決することを考えなければならない。
 これらの問いをべつのかたちで問い直したい。その中で、私は(i)教育におけるカリキュラムをプラグマティストらのいう「信念」と捉え、(ii)カリキュラムという信念を、経験という過程を通じてアップデートしていくプラグマティストら—特にデューイ—が用いる、信念を真であると判断するときの基準(格率)をみていき、(iii)それをカリキュラムの変更/変更しないことの基準のヒントとしたい。つまり、「何らかの信念が探求や工夫の結果えられた場合に、それがとりわけ信頼可能なものと見なされるのは、どのような場合なのか」(注1)という、伊藤邦武の言う「信念の固め方」についての問題を教育、特にカリキュラムに適用する。

カリキュラムという信念
 カリキュラムはこれらを教えるべきだという教育者の信念を表明したものである。それと同時に、これらは教えないことという信念を表明して(しまって)いる。つまり、カリキュラムの信念は「Aを教えて、Bを教えない」というものになる。カリキュラムを信念として捉えると何がよいのか。デューイによれば、信念は「科学の方法」を通じてその不確定性が確定的になり、それは言明可能な信念となる。このとき、デューイのいう「科学の方法」とは、われわれが科学の実験で用いるような方法と同様である。つまり、(A) 問題設定をし、(B) それに基づいた仮説を形成し、(C) それを実験を通じて検証する、というような方法である。したがって、カリキュラムを信念として捉えることで、それを「科学の方法」を用いて更新することができるのだ。

「科学の方法」
(A) 問題設定
(A) については、われわれは既に上述の(3)という問題を設定している。

(B) 仮説形成
(B) は、仮説形成の段階である。仮説とは、われわれが今持っている信念「Aを教えて、Bを教えない」の理由を説明するような仮の命題である。仮であるので、この命題の真偽は今のところ、問わないが、これを検証する段階でその真偽が確定する。ここでの仮説は、(3)の問いにも出てきたように、「Aを教える方がBを教えるよりも価値がある」、である。しかし、「価値がある」とはどういうことか。
 ここで、パースの「信念の明晰化」という過程をたどってみよう。ある信念が明晰であるのは、それが行為において十分な意味をもつときである。パースは、どのようにすれば信念は行為の指針を提供することができるか、を問い、平叙文を条件文に書き換えることを考える。平叙文とは、主語と述語で成り立つ単文のことを指す。一方、条件文は、前提と帰結が同じ文で説明されている重文である。例えば、「SはPである」という平叙文に対して、条件文は「もし行為aを実行するならば、効果eが得られるだろう」というように、平叙文を行為の文脈に利用可能なものに変えることで条件文が完成する。よって、「Aを教える方が(Bを教えるよりも)価値がある」という仮説は平叙文であるので、これを条件文に書き換えてみると、こうなる。「Aを教えると(Bを教えるよりも)、価値がある効果が得られるだろう。」ここで、「価値がある効果」とはなんなのだろうか。われわれはいま、カリキュラムのことを考えているので、カリキュラムをつくった人たちにとっての「価値ある効果」を考えてみると、それはカリキュラム全体としての目的を達成することだろう。
 例えば、福島県の第6次計画全体を通じての目的は、「(i) 自立した人間の育成、(ii) 学校、家庭、地域の一体化、(iii) 豊かな教育環境の形成」という三つの基本目標である。そして、これを支えているのは「十の社会経済情勢の変化」と「県民の意見」であることは確認した通りだ。
 一方、デューイはカリキュラム全体の目的とそれを支えている基礎を何と考えているのだろうか。カリキュラムの目的は、広義に言えば教育の目的である。デューイは、教育の目的を一意的には定めていない(注2)。しかし、デューイの挙げる教育の目的の一つとして重要なものは、共同体のなかで共有されている行動の「情緒的および知的な性向—期待や要求に対して反応する同じような様式—を確保する」(DAE、16)ことである。しかし、なぜか。デューイは、人間は共同体のなかで生まれ育つという前提のもと出発する。人は共同体にいる他の人たちと共通の興味・関心や目的をもたないと共同体として生活できない。つまり、共同体のなかで共有されている行動の情緒的および知的な性向という教育の目的を達成しないと、共同体の社会的連続は保たれない。社会的連続は生命の再生産という肉体的連続と相互に関係しているので、この教育の目的は達成されるべきものとなる。
 共同体のなかで共有されている行動の情緒的および知的な性向は教育を通じてどのように獲得されるのか。デューイは、社会的環境を通じて「経験の質を変えて行く」(DAE, 26)ことで獲得されると答える。未開社会では、水の汲み方や食事の作り方といった日常的な生活慣習を未熟者はわからないので、年長者が実際それらのことをしている場面を観察し、それを未熟者は真似する。未熟者は年長者と共同で活動に参加することで、共同体共通の目的を認識し、そのための手段を取ることができるようになる。未開社会にとっての唯一の社会的環境であるこの「社会生活への直接的な参加」は「子どもたちを育てて、その集団の慣行や信念を身につけさせて行く」(DAE, 36)のだ。
 しかし、文明社会における学校教育においては、ある社会集団で共有されている目的に対する興味は強制的なものではない。未開社会では、未熟者の活動は実践的な関心事に基づいているため、それを学ぶことは社会生活を営みうえで必要なことだが、学校教育の場合は、記号(言語)を媒介して「現実ばなれした生気のない—ありふれた軽蔑的意味の言葉で言えば、抽象的で書物的な—もの」が教えられるので、「生活経験の主題からは切り離されて、単に学校での主題にすぎなくなってしまう、という危険が常につきまとう」(DAE, 22)。学校教育における教材は実際生活に必要なことと直接結びついていない。よって、教育の目的を達成するには生徒が所属している社会集団の共通の目的に対して興味をもつことが必須である。したがって、デューイは学校教育を通じて、生徒が、所属する社会集団が共有する目的に対して興味をもつことを目指したということだ。
 福島県のカリキュラムである第6次計画とデューイの教育に対する考えを議論した。福島県とデューイによれば、先ほどの仮説「Aを教えると(Bを教えるよりも)、価値がある効果が得られるだろう」の「価値ある効果」は次の三つである。
1. (特定の)社会経済情勢の変化(福島県)に対応できること
2. 県民の意見(福島県)を反映すること
3. 生徒が、所属する社会集団が共有する目的に対して興味をもつこと
つまり、これに対応する三つの仮説は次のようになる。
1. Aを教えると(Bを教えるよりも)、生徒が(特定の)社会経済情勢の変化に対応できるだろう。
2. Aを教えると(Bを教えるよりも)、県民の意見が反映されるだろう。
3. Aを教えると(Bを教えるよりも)、生徒が、所属する社会集団が共有する目的に対して興味をもつだろう。
しかし、1と2については拙稿「福島教育研究」でそれぞれの問題点や答えられていない疑問があることを指摘した。

(C) 実験を通じた仮説の検証
 さて、今までデューイの「科学の方法」に従って、カリキュラムについての (A) 問題を設定をし、(B) それに基づいた仮説を形成した。(C)は(B)でつくった仮説を実験を通じて検証する段階である。デューイのいう「実験」とは経験のことである。経験を通じて、信念は保証つきの言明可能性を獲得していく。われわれが考えているカリキュラムという信念においては、実際にそれを適用する場である教育現場で生徒に適用されるという経験の積み重ねによって新たな信念になる。「科学の方法」においては、仮説の真偽を確かめるために、観察や実験で収集されたデータが仮説と一致するかを検証する。しかし、われわれが形成した三つの仮説を検証するとき、それぞれに問題が発生する。
1. Aを教えると(Bを教えるよりも)、生徒が(特定の)社会経済情勢の変化に対応できるだろう。
何かを教えることで、生徒がある社会経済情勢の変化に対応していることを確かめるにはどのような観察、またはデータ収集をすればよいのだろうか。一つの方法として、AとBをそれぞれ教えた後で、生徒がある社会経済情勢の変化に対応する能力が上がっているかをはかり、それを比較することが挙げられる。だが、この方法は科学的にも現実的にも妥当でない。まず、この方法は、生徒がある社会経済情勢の変化に対応する能力を数量化することが困難なため、科学的に適当でない。客観性(完全なものでなくとも)を保証するために、そして二つの値を比較するためには、生徒の対応能力を数量化する必要がある。しかし、ある社会経済情勢の変化に対応する能力を数量化するには普遍的な基準が必要で、それを導入することは難しい。二つ目に、生徒の能力を比較するこの方法は現実的に妥当ではない。なぜなら、何かを教えた後で生徒が同じ状況の変化を対応することを観察するには、同じ状況が必要なので、長い時間がかかる。また、何かを教えることの効果はすぐに出ることは珍しい。この長時間が必要な方法では、実験の結果が実際のカリキュラムに反映されるのには、さらに時間がかかってしまう。この間にもうその社会経済情勢の変化は来ないかもしれない。したがって、この仮説は科学的にも現実的にも真偽を確かめることが困難である。

2. Aを教えると(Bを教えるよりも)、県民の意見が反映されるだろう。
われわれは、2つ目の仮説の「逆」(つまり、「県民の意見が反映されると、Aを教えるだろう(Bを教えるよりも)」という仮説)が真であることは実験を行わなくても自明である。福島県は県民へのアンケート調査の結果を用いてカリキュラムを向上していることは確認した。だから福島県のカリキュラムは県民の意見に影響されているのだ。したがって、県民がAを教えろといえば、カリキュラムもそれに影響されて、BよりもAを教えるだろう(実際には、県民の意見というファクターの影響力はそれほど強くはないが)。この仮説の逆が真であるということはもとの仮説も真であることが—この場合は—わかる。なぜかというと、もし県民の意見が、学校がAを教えるということ(=カリキュラム)に反映されたら、Aを教えるということが県民の意見が反映されることを保証しているからだ(注3)。ゆえに、先に指摘した、県民の意見を「価値ある効果」として捉えることの問題点を除けば、「科学の方法」を用いらずにこの仮説は真であることが確認された。

3. Aを教えると(Bを教えるよりも)、生徒が、所属する社会集団が共有する目的に対して興味をもつだろう。
3番目の仮説を検証するときにも、数量化の問題が出てくる。ここでは、生徒のある目的への興味・関心(interest)を比較の対象とするために、それを数量化する必要が出てくる。しかし、「関心度」という言葉もあるように、関心を度合いで表すことは珍しくないのかもしれない。数量化の一つの方法として考えられるのは、生徒にある目的への興味・関心の度合いを質問する方法だ。Hogan、Häussler、Carmichael et al. ら学者たち(注4)も、生徒の興味・関心を数量的に測る様々な方法を提示しており、これらは生徒の特定の目的への興味を数量化する可能性、さらにいえば実在性を示している。よって、もしこの仮説が今紹介した方法を用いて真と確認されるという可能性があれば、われわれは最初に述べたカリキュラムという信念「Aを教えてBを教えない」が正当化できる可能性がある。興味を数量化する方法はまだ可能性としてとどまっているが、デューイに基づく教育の「価値ある効果」はカリキュラムに潜む暴力性の可能性、教育倫理の問題を解決する可能性がある。
 だが、もちろんこの仮説の問題点を指摘しなくてはならない。所属する社会集団が共有する目的に対しての生徒の興味が、カリキュラムを変更する基準として導入されれば、生徒らは所属する社会集団の目的には興味をもつことは保証されるが、それが所属しない他の集団の目的への興味を呼び起こすことは保証されない。一部の生徒は他の社会集団で共有されている目的に興味をもたない・無関心になるかもしれないので、その生徒らは所属しない他の集団で生活することはできない。これは学校環境が、生徒が興味をもつ目的の多様性に欠けること、そしてそれによる教えることの多様性の欠如を示唆する。また、学校が他の社会集団から生徒を同時に受け入れることが非現実的になるだろう。もし同じ教室に他の社会集団にいる生徒たちが集まったら、教育者は何を教えればいいかわからなくなる。結局、生徒は社会集団別に分離されることとなり、学校環境での生徒の多様性も減少するだろう。この多様性の欠如は、われわれが考えている暴力性をなくすための代償なのかもしれない。しかし、暴力性をなくすために多様性の欠如を選択してしまうと、現代社会の環境と明らかに相反してしまい、差別という新たな暴力性が生まれる可能性がある。

結論
デューイの「科学の方法」に従い、福島県とのカリキュラムあるいは教育の目的を基礎とした時、われわれは何かを教えないことを正当化することはできない。なぜなら、何かを教えないことを正当化する際、教えることの価値に優劣をつける必要があるが、そのときの基準が不可能だったからだ。
そして、それが不可能であったのは、
(1)福島県が何かを教えることの「価値ある効果」として挙げた二点(社会経済情勢の変化に対応できることと、県民の意見を反映すること)それぞれに問題点が存在する
(2)たとえ(1)の問題点を無視したとしても、仮説をデューイの「科学の方法」では実験することは困難である。
からである。
 一方、デューイの考え方に基づく仮説は、教育倫理の問題を解決する糸口になる、と希望も込めて断言したい。しかし、社会集団という単位に注目するコミュニタリアン的な彼の思想は、教育における多様性の欠如をもたらす可能性がある。今回は、多様性の欠如への価値判断は行なっていないから、断言することはできないが、多様性の欠如は新たな形での暴力性を教育現場に持ち込むのではないか、というのが私の疑念であると同時に乗り越えるべき課題でもある。上記の結論は、何かを教えないことを正当化できないこと自体を否定するものではないが、何かを教えないことを正当化することの困難さ、そしてそこから発生する暴力性の存在の可能性を浮かばせる。(了)


注1. 伊藤邦武、『プラグマティズム入門』、ちくま新書、2016年、p.102。
注2. なぜかというと、デューイは、目的は「すでに進行中のものについての考察に基づいていなければならない」(DAE, 168)と述べているからだ。目的は現存する状況に依存するので、絶対的には定められることはない。また、デューイ曰く、目的は状況に応じて常に修正する必要があるので、変化の可能性にさらされている。最後に、目的は「活動をさらに続けていくための手段」(DAE, 172)でもあり、その手段はまた別の目的につながっている。活動は連続的であるので、目的も一意に決まらない。
注3. もちろん、「教育倫理という問題意識(2)」で指摘したWhenの問題があること(=つまりAを教えるときに、それを県民が願っているかというと、合意の継続性の不可能生という観点からすればそうではないということ)は重要であるが、ここでは無視する。
注4. 学者らの文献は以下の通り。
Hogan, Thomas P., “Students' Interests in Writing Activities.” Research in the Teaching of English 14.2 (1980): 119-125.
Häussler, Peter. "Measuring Students’ Interest in Physics-Design and Results of a Cross-sectional Study in the Federal Republic of Germany." International Journal of Science Education 9.1 (1987): 79-92.
Corin Carmicheal et al., “Measuring Middle School Students' Interest in Statistical Literacy.” Mathematics Education Research Journal 22.3 (2010): 9-39.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?