見出し画像

岡田拓郎論(5):日本語を地味に切断するーーあらゆる身体の偶然性をめぐってーー

岡田拓郎にとって「身体としての日本語」とはなにか。この文章ではこの問いについてさらに思考を深めていきたい。前回はアルバム『Morning Sun』におけるブレスという歌詞への身体的な介入を通じて、岡田が歌詞の意味ではなく、その意味が形成される身体的な過程に焦点を当てていることについて書いた。そのとき浮かび上がってきた問いが、どうして日本語で歌ったのか、ということだ。それを答えるために、はっぴいえんどという日本語ロック論争の渦中にいたバンドを取り上げ、はっぴいえんどが求める日本という像が日本語の意味の豊かさによってもたらされていることを言った。一方で、岡田ははじめて全ての曲を日本語で作詞を担当した『Morning Sun』というアルバムにおいて、日本語の意味に執着するのではなく、それが生み出されてしまっている現象について、さらに身体がそれを生み出してしまっているという偶然性を言祝ぐ。つまるところ、身体がさきに存在してしまっているから、それによって日本語の意味が形成されたり破壊されたりするということだ。

この文章では『Morning Sun』における「身体」に解像度を上げて考察することによって、さらにロラン・バルトの「声のきめ (le grain de la voix)」の助けも得ながら、日本語という母国語における身体の位置づけについて考える。そのとき、問題となるのが身体が母国語をもっている(受胎する)という偶然性である。まずは『Morning Sun』において現れるふたつの身体について検討していこう。「〈わたし〉という身体」、そして「ギタリストとしての身体」のふたつだ。

〈わたし〉という身体

前稿において検討しなかった「New Morning」というアルバムの最後の曲で〈わたし〉という一人称が登場する。さっそく〈わたし〉がでてくる歌詞の一部をみてみよう。

ゆっくりと頬に張りついた
髪に辿られながら
首筋まで伝うころには霞んで
わたしの涙は
わたしのものではなくなった

「わたしの涙」は「頬」、「髪」、「首筋」といった身体の各部分を通り、最終的に「わたしのものではなく」なる。では、それは誰のものになるのかというと、〈あなた〉という二人称の存在のものになる。「New Morning」の冒頭では「眠れないあなたの瞼をそっと触れると夜の果ての海」という美しい比喩的描写が登場し、そこで〈わたし〉とともにいる〈あなた〉という存在が明かされる。その〈あなた〉が隠しもっているのが「夜の果ての海」という比喩であらわされた瞼の裏側にある「あなたの涙」である。そして、〈わたし〉が涙を流すとき、それは〈わたし〉のものから〈あなた〉のものになる。「わたしの涙」は〈あなた〉の瞼へと貯蔵される。まるで涙が川となり、「夜の果ての海」へと流れこんでゆくようだ。

「わたしの涙」が象徴するのはこれまで〈わたし〉が失ってきたものだ。それは「Lost」という歌詞に「あなた」という存在が登場するもうひとつの曲を聴いてみるとわかる。そこでは「窓硝子を伝う雨の最後の一雫をずっと探していた」と、雨の雫が「New Morning」における「わたしの涙」と並列して描写される。〈わたし〉はその雫を「ずっと探してい」るがみつからない。「Lost」での〈あなた〉は「きっとこんなふうに流されてしまう」という過ぎ去ってしまうものへの無力感を「きっと知っていたはず」と、〈わたし〉の観察者としての役割を果たす。〈あなた〉は「きっとこんなふうに流されてしまう」、「きっとこんなふうにここにはいられない」ことを〈わたし〉以外に認識している存在として、〈わたし〉の「きっと」という推量によって描かれる。

他方、「New Morning」での〈あなた〉は〈わたし〉の隣にいる「眠れない」身体として描かれている。そして、〈あなた〉の瞼は涙で濡れている。このとき、〈あなた〉は観察者としての役割を果たすことはできない(文字通り目は瞼で閉じられているし、あふれている涙で「観察」できない)。〈あなた〉は〈わたし〉の永遠に取り戻せないものを代わりに取り戻すような役割を果たすわけでもない。反対に、「わたしの涙」という〈わたし〉の所有物が〈あなた〉という海に取り込まれていくとき、〈わたし〉は〈あなた〉の一部となる。それはいままで失ってきたものの保管場所であってそれを取り戻す可能性を示すところであり、暗闇のなかの海という見えないものと対峙しなければならないという不可能性を提示するものでもある。過ぎ去ったものを取り戻す可能性と不可能性の矛盾を同時に示唆する〈あなた〉。矛盾する〈あなた〉の一部となる〈わたし〉という身体。それは「New Morning」の後半で表現される快楽の一部となる。それを象徴するかのように、曲の後半では音が高低の変化なしに持続するドローンが流れる。あらゆるものが海という音の持続に溶けていく。

ギタリストとしての身体

歌詞における〈わたし〉という身体と同時に存在するのが、演奏家としての岡田拓郎の身体である。岡田はギタリストである。ROTH BART BARON や優河、最近では never young beach のサポートギタリストとして彼の活躍を目にすることが多い。しかし、『Morning Sun』にかんしては「実際はギターで作ったけど、鍵盤ぽくできた曲」が多く収録されている。

鍵盤で作った曲もあるんですけど、基本的にギターの方が取り回しがいいのでギターで大枠のコードを作って、それを鍵盤で弾き直してベースラインの位置を修正しながら曲を作っていくという感じでしたね。(★1)

これまでギターで楽曲制作を続けてきた岡田にとって鍵盤とギターを使って曲をつくることは楽曲制作における根本的な「コード感」からして違和があったと話す。

鍵盤っぽい楽曲構造の響きはわかるんだけど、僕は譜面が全く読めないからどうやって音を配置するのかというロジカルな部分がわからない。だから今回鍵盤を弾いてもらった谷口を家に呼んで、鍵盤っぽい曲のムードをレクチャーする講義を何回かやってもらったうちにできた曲なんです。(★2)

谷口とは「森は生きている」でピアノやオルガンなどの鍵盤楽器を担当した谷口雄のことだ。そんな谷口の「ロジカルな」力を借りながら、ギタリストとしての岡田拓郎は『Morning Sun』に「鍵盤っぽい曲のムード」を取り入れた。このように『Morning Sun』は谷口だけでなくおなじく森は生きているのドラマーだった増村和彦など、岡田の音楽仲間の協力があってこそできあがった作品だ。「ドラムの音って良くも悪くも時代感を反映させやすいので、とても注意して録音」されたドラムの音は理論のもとに意識的に演奏されている。(★3)

一方で岡田の演奏は理論ではなく、あくまでも即興を優先する。

岡田:そうです。Altec1592AとDrawmer1960という旧石器時代的なアウトボードを持ち運んで(笑)、自分で音を作りながら録音していきました。ギター・アンプは、Fender PrincetonとSilvertone1484を使い分けたり、時に同時に鳴らして録音しました。Princetonの音を軸に1484の歪みっぽい音を混ぜ合わせることで、コンプを掛けずにマイルドなフィールが出せたように感じています。逆に「Stay」と「New Morning」のギター・ソロは、Drawmer1960にギターを直結してプリアンプのオーバーロードで歪ませました。それを基本に、設定の違うアンプに何度かリアンプした音を混ぜて若干の空気感を作ろうと試みました。自宅で録ったライン録りのデモのテイクが良くて、なかなかそれを越えるテイクがアンプを使った本録音の際に出てこなかったので、それを生かすためにいろいろ模索していくなかで偶然行き着いた音色ですが、ユニークな結果が得られたので、今後このアイデアを発展させる事も出来そうだなと思っています。

ウーリッツァーも、すべてPrincetonから出しましたね。手間も時間もめちゃくちゃ掛かるけど、誰が演奏してもプリセットで同じ音が出るような楽器には興味が持てなくて。そんな気持ちもあって今回はシンセを一切使わず、再現性の低い指先の感覚で操られた楽器を丁寧に録音して、余計なエフェクトは極力控えてミキシングをしました。 (★4)

その場でしか出せない音を出し、それを録音する。音の「再現性の低さ」は岡田が目指す「生」の音楽を制作するうえで肝要だ。そのとき、再現性の低さを担保できるのは偶然性だ。生の音を録るとき、その録音された音をあとで編集することはあまりしなかったと言う。再現性の低い音楽はその音楽を他の演奏者が同じ方法で演奏したとしても、音楽が変わってしまうような音楽を意味する。そのとき、同じ方法で演奏者が演奏したとしても変わってしまう部分は、その演奏者の個別の身体性にある。たとえば、同じドラムを同じリズムで叩くとしても、そこには演奏者自身の「くせ」が存在する。

しかし、なぜ岡田は演奏者の身体性—「生」の演奏—に執着するのか。それは身体性がそれじたいで偶然的であるからだ。なにかを身体レベルで扱うということは、その身体の動作や行いをすべて偶然として捉えるということだ。そういう意味でこのアルバムは谷口や増村といった「理論家」と岡田という「演奏家」によって形作られたアルバムといってよい。

厄介なことに、ギタリストとしての岡田は個別の身体性を強調している一方、身体性を後景化しギターを前景化させることもする。

だれが言い出したか知らないですけど、「ギターは時代遅れ」みたいなムードありますよね。そうするとかえってメラメラする性分なので(笑)、ギターをギターらしく鳴らすことには注力しました。 (★5)

「ギターをギターらしく鳴らすこと」とはどういうことか。逆にギターをギターらしく鳴らさないということはどういうことなのだろうか。ここでハイデガーの議論を思い返したい。ハイデガーは『技術への問い』で、技術(テクネー)は本来真理を開陳することだったのにもかかわらず、現代技術はそれを阻んでしまっていると主張している。岡田の「ギターらしさ」という言明を、ハイデガーによる技術の定義と重ね合わせると、技術がなにかに内在する真理を開陳するものなのであれば、「ギターをギターらしく鳴らすこと」はギターに内在する「ギターらしさ」という真理を開陳するテクネーであるといえる。一言で言えば、ギターを鳴らす技術=テクネーが肝心なのだ。

身体の偶然性を信じる一方で、身体性のないギターの演奏を目指す。このギタリストとしての身体の矛盾は、身体がギターを弾くことと、ギターによって身体が弾かれるという、身体とギターとの相互作用によって成り立っている。それはギタリストとしての身体が、意識的にギターを演奏することと、無意識的に身体をギターに委ねるという意識と無意識のあいだに位置しているともいえる。「Stay」や「New Morning」におけるギターソロは意識と無意識のあいだで漂う快楽を如実に表現している。

母国語をもっているという身体

〈あなた〉という偶然性に取り込まれる〈わたし〉、そして身体の偶然性に頼りながらギターに演奏されるギタリストとしての身体。岡田が意識した生の演奏で鍵となるのが身体の個別性である。ロラン・バルトの「声のきめ」によれば、声楽において「声は個人的ではなく…個別的」であり、それは言い換えれば声はアイデンティティや人格をもつものではないが、それはべつべつの身体から出ている(★6) 。そして、声のきめとは「歌う声における書く手における、演奏する肢体における身体である」(★7)。「私は、歌う、あるいは、演奏する男女の身体と私との関係に耳を傾けようと決意している。この関係はエロティックなものであるが、全然《主観的》ではない」というように、バルトは「きめ」を身体的な、エロティックな概念としてとらえている (★8)。それは『Morning Sun』でいう〈わたし〉と〈あなた〉の身体的な接触であり、ギターと身体との接触でもある。このとき、これらの接触はそれぞれの要素を不可分にする。つまり、声や演奏じたいの個別性と対比して、演奏のきめを身体的あるいは性的にとらえるとき、わたしという身体とギタリストとしての身体はそれぞれの輪郭があいまいになる。それは意識と無意識のあいだであり、ドローンであり、性的快楽である。

ここで、バルトがきめを「母の言語(母国語)を語る身体の物質性。おそらく、文字。そしてほとんど確実に、意味形成性シニフィアンス」と定義していることに着目したい (★9)。声という象徴界に位置する〈父〉のファルスと対置して、きめを母的なものとして措定する。なぜここでバルトは急に母の言語=母国語を持ち出すのかというのを解明するために、バルトの『テクストの快楽』から母国語について語っている部分を抜き出す。

快楽と持続した関係をもつ対象は存在しない。作家にとって、しかし、この対象は存在する。それは言語(ランゲージ)ではない、母国語(ラング)である。作家は彼の母の身体と遊ぶ者である。それを美化するために、飾りつけるために、もしくは切断するために。身体について知ることができる限界にもっていくために。わたしは言語の変形という享楽 (jouir) を手にするところまでもっていく。世論は必死に反対するだろう、なぜならそれは「自然を変形する」ことを求めないから。 (★10)

まず、母国語と母の身体を同一視することに対してはいろんな解釈が可能であるが、ひとつのみかたとして身体を言語体系としてのラングの比喩としてとらえることがある。作家は文字通り母の身体と遊ぶわけではないが、彼の母国語を母の身体のようにそれを美化したり、飾りをつけたり、さまざまな方法で文章を書いたり、韻文をつくったりする。他方で身体=言語について知りたいがために、作者は母の身体=母国語を切断したり変形したりする。

バルトは母国語の変形によって作家は「享楽 (jouir)」を得ることができるとも表現する。ここでフランス語の jouir が性的な意味を伴っていることに注意したい。ラカンの精神分析に詳しければ、「享楽 (jouissance)」という概念が浮かぶはずだ。ラカンによれば、享楽は快楽とは異なり、緊張を上げ、死の欲動を産み出すものだ。また、享楽は禁止にかかわる。禁止されているタブーを侵犯することに伴う享楽がある(★11)。世論が反対するような言語の変形をおこなうことによる享楽。そのとき、母の身体と遊ぶことはたんなる比喩として働くのだけでなく、タブーとされているエディプス三角形における子と母の近親相姦を重ねている。

享楽という母国語の破壊衝動

岡田拓郎が『Morning Sun』で試みたことはブレスという身体的な介入によって母国語である日本語の意味をつくったり、破壊したりすることだ。そのとき、岡田のなかで働いているのは、バルトがいうような母国語=母の身体と遊ぶ享楽なのか。ブレスは岡田にとっては偶然的に産出されたものでしかない。作家が母国語と遊ぶこととは異なるしかたで岡田は母国語の意味形成の場に立ち会っている。それはブレスをする(呼吸する)身体があって、そこにはじめて意味が形成されるというしかただ。ブレスをしないと母国語を発話することができないからだ。もうすこし細かくいえば、まず呼吸する身体があり、次に母国語をもっている身体があり、そしてそれらによって母国語が発話され、意味が形成される。

「〈わたし〉という身体」も「ギタリストという身体」の両者とも「母国語をもっている身体」とはかけ離れていると思われる。どちらも、身体としての日本語は不在であるようにとらえかねない。〈わたし〉という身体はドローンという非言語的な持続に浸っていくし、ギタリストとしての身体もギターの演奏において言語がはいる余地がない。しかし、どの身体性も声のように個別的ではなく、きめのように身体の輪郭があいまいだ。〈わたし〉にとって〈あなた〉という存在は不可分であるし、ギタリストにとって身体とギターは一体である。それと同じで、母国語をもっているということも身体と言語が不可分であるということだ。

〈わたし〉と〈あなた〉の不可分性、身体とギターの不可分性はともに意識と無意識とのあいだの移行による快楽を産み出す。それは身体と母国語の不可分性でも同じことが言える。岡田自身、曲づくりのなかで母国語である日本語で遊ぶとき、日本語を美化したり飾りつけたりするより、切断したり変形したりすることを重視している。

そもそも日本語の音楽って、サイズ感みたいなものが小さければ小さいほどいい楽曲が多い気がしていて。こじんまりとした良さ。たとえばクイーンみたいに、華美な装飾がされるほど日本語を伴った音楽って歪になってしまう気がしていて。もちろん素晴らしい例もあるとは思いますけどね。
問題なのは、派手であることそのものというよりも、そういう装飾的で華美で変化に富んだ音楽がシステマティックな日本の音楽産業の中でミュージシャン自身の意図を超えた次元で作られてしまいがちってことなのかもしれないですが。
[…]
岡田:すごくあると思います。その辺のバランス感を見極めてうまくミュージシャンを誘導するはずの裏方も一切そういう規範を疑わずにずっとやり続けてきてしまって。それが今の「J-POP的過剰さ」というべきものにつながっていると思います。珍奇なエキゾチズムとして海外の人が見たら面白いって感じるかもしれないけど、そんな音楽の渦中でずっと生きてきていると本当に耐え難くもあって……。まあ、そういう意味では自分の音楽は地味でありたいかなと。(★12)

身体の四肢を切断するように、日本語をなるべく取り除くようなミニマリスティックな美学は言語を変形するという享楽に基づいていると同時に、「装飾的で華美で変化に富んだ音楽」を志向する「システマティックな日本の音楽産業」に取り込まれないことにも根ざしている。ここで、岡田は日本語を飾りつけるときに産み出される快楽と日本語を切断するときに産み出される享楽のちがいを明らかにする。日本語の飾りつけによる商業的な快楽を求める「J-POP的過剰さ」に対して、岡田は「地味」でありつづけようとする。ただ、その「地味」さは文字面とは異なり、享楽的な破壊衝動を含む。

最後に岡田が、ギタリストがギターを破壊する欲望について語っている部分を引用する。

岡田:あと、ジミ・ヘンドリックスとかスティーヴィー・レイ・ヴォーンみたいにギターを投げて破壊することもありますけど、あれはパフォーマンスである一方、ああしなきゃ出ない音があるんですよね。ギターを投げたときにしか出ない音というものには、ギタリストはみんな理解があると思う。それっておそらくギター特有の文脈で、ほかの楽器だとないですよね。

破壊したいんじゃなくて、そうしなきゃ出ない音があるという。フリージャズのギタリストの高柳(昌行)さんがギターを桜の木でしばくのも、壊したいんじゃなくて、本当にああしなきゃ出ない音があるからで。(★13)

岡田がギタリストとして身体の個別性、偶然性に身を委ねながらも「ギターをギターらしく鳴らす」ことができるのは、たとえばギターを破壊するという、精神分析的にいえば享楽を産み出す行動にも、「ああしなきゃ出ない音」という「ギターらしさ」を追求する「真面目さ」にある。地味で、真面目な破壊。それは岡田のギターに対する、日本語に対する、音楽に対する姿勢である。

★1:高橋健太郎、「岡田拓郎 x 葛西敏彦が語る、徹底的に人力で築き上げた『Morning Sun』の音世界」、OTOTOY、2020年6月25日(アクセス:2023年5月7日)
★2:同上
★3:柴崎祐二、「Okada Takuro オフィシャルインタビュー」、only in dreams、2020年6月18日、p.4、(アクセス:2023年5月7日)
★4:同上、強調は引用者
★5:同上
★6:Roland Barthes, "The Grain of the Voice" in "Image Music Text" (trans. Stephen Heath, Fontana Press, 1977), p.182、引用者訳(原文は、"The voice is not personal … it is individual.")
★7: ロラン・バルト、「声のきめ」、『第三の意味』(沢崎浩平訳、みすず書房、1984 年)、p.197
★8:同上
★9:同上、p.189
★10:Roland Barthes, "La Plaisir du Texte," (Éditions du Seuil, 1973), p.60-61, 引用者訳)(原文は、« Nul objet n'est dans un rapport constant avec le plaisir (Lacan, à propos de Sade). Cependant, pour l'écrivain, cet objet existe; ce n'est pas le langage, c'est la langue, la langue maternelle. L'écrivain est quelqu'un qui joue avec le corps de sa mère (je renvoie à Pleynet, sur Lautréamont et sur Malisse) : pour le glorifier, l'embellir, ou pour le dépecer, le porter à la limite de ce qui, du corps, peut être reconnu : j'irai jusqu'à jouir d'une défiguration de la langue, et l'opinion poussera les hauts cris, car elle ne veut pas qu'on « défigure la nature ». »)
★11:佐々木中、「宗教の享楽とは何かーーラカンによる「享楽の類型学」からーー」(宗教研究、日本宗教学会編、2007年6月)p.48-49
★12:柴崎、「Okada Takuro オフィシャルインタビュー」、p.6
★13:原雅明、「岡田拓郎にとって、音楽はどんなところから生まれ出るか?即興演奏とジャズ、ギター、言葉をめぐる対話」、CINRA、2022年12月4日、(アクセス:2023年5月7日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?