歌声、あるいは存在の手触り[V音Advent Calendar 24日目]
聖夜ァ!って書くと掛け声みたいですね。
ろくげんです。
その場の勢いで立てた『V音Advent Calendar』ですが、なんか強いマンたちが巨大感情を書いていて序盤の私の記事が浮いた感じです。
そんな中せっかく残っていた3枠目なので、ちゃんとVと歌について書こうかな。
2018年の良かったものまとめみたいな記事は『○○10選』という恒例行事として今年もはてブロのほうで書くので見てね。
みんなも書こう、『2018年○○10選』。
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Vtuberはなぜ歌うのか。
人々はなぜVtuberの歌を聴くのか。
さすがに問いが大層すぎて答えは出そうにありませんが、それぞれが自分なりに考えるための材料を抜き出してみましょう。
シロは「アイドルとして武道館でコンサートをすること」が夢だと宣言ながら生まれました。
富士葵は「歌を通じてみんなのことも元気付けられたら、葵も一番嬉しい」と活動をスタートさせました。
かしこまりは「一番好きなのはね、歌!」と自己紹介し、
おめがシスターズは「一番得意なのは歌うこと」と初めての動画から歌を披露、
田中ヒメは最初の動画からなんか歌ってたりしました。
キズナアイは、さまざまな壁を越えて「みんなとつながりたい」、そのための力として歌を選びました。
歌、歌、歌。
歌に憧れを象徴させる者もいれば、
歌を自分の一部と規定する者、
歌のパワーを発揮しようとする者もいます。
同じなのはそれが“歌である”という形くらいでしょうか?
Vtuberの存在は、
見た目を自由に変え、
名前を、種族を、能力を、出自を、性格を、
存在理由すら自由な意図のもとに築き上げ、そこに成り立っていて。
そうして自由に浮遊するばかりの存在であれば、
それは今までの世で「作品」と呼ばれてきた何かと区別できないかもしれません。
ところで、Vtuberとそうでない存在とで自由な意図の及ぶ範囲が決定的に違う中、両者の間にそこまで大きく隔たりのない要素がいくつか存在します。
そんな要素が、Vtuberが存在する実感を与えてくれるもの、言うなれば浮遊する存在を私たちの世界へつなぎ留めるアンカーになってくれるもののだとは考えられないでしょうか。
その要素の一つが声だとしたら。
例えば姿形を意図して設定することと比べて、
Vtuberでない私たちが意図して声を設定することと、Vtuberたちが意図して声を設定することに、大きな違いはないように思えます。*1
そんな私たちのよく知る声という要素は、私たちの世界における彼らの存在の《手触り》を与えてくれるはすです。
そして、歌。
なぜその曲を歌うのか、どうやって歌うのか。
意図をもって編み上げられる要素たちと、声という実感を伴う《手触り》の交点にあるのが、歌です。
そう。
Vtuberたちが歌う意味や理由は千差万別であっても、
Vtuberたちの歌声は私たちに《手触り》のある存在感を与えてくれるものだと、そう思えます。
まあ、ここまでの文章はこの1時間くらいででっち上げたものなんですが。
でも、Vtuberの歌に彼ら自身の存在証明のようなものを感じていたからこそ、
自分の感じた《手触り》を共有し正しさを確かめるために「イメージソング」を書いたのかもしれません。
それがくだらない理由か、大事な理由かは、2019年の自分が決めたり決めなかったりするとして。
今日のところは、
2018年の様々な人への感謝とともに
メリークリスマス
ろくげん
脚注
*1 ボイチェンバ美肉とかご認識システムとかについては長くなるので機会があれば話したり話さなかったりしましょう。