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爽やかな五月に



 出勤するために朝早く玄関を出た時に、少しひんやりとした風が吹き抜け、そのときにふっと脳裏に立原道造の詩が浮かんだ。オレは高校生の時から立原道造が好きだったので暗唱できるソネットがいくつもある。オレがそのときに思い出したのはこの詩である。



爽やかな五月に


月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
私は どうして それをささへよう!
おまへは 私を だまらせた・・・・

「星よ おまへはかがやかしい」
「花よ おまへは美しかつた」
「小鳥よ おまへは優しかつた」
・・・・私は語つた おまへの耳に 幾たびも

だが たつた一度も 言ひはしなかつた
「私は おまへを 愛してゐる」と
「おまへは 私を 愛してゐるか」と

はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心を どこにおかう?




わかりやすい簡単なフレーズで綴られたこの詩はとても覚えやすいし、また青春のある一場面を切り取ったようなその情景は容易に想像できる。



「立原道造が好き」



という男はほとんどいないだろう。そういうわけでオレは、北海道でたまたま知り合った青年が自分と同じ銭湯に通っていて、自分と同じ学年で同志社大学の法学部に通うと知って驚愕し、意気投合しておたがいの部屋を訪問するようになった時、彼の部屋のペン立てに立原道造の詩が貼ってあったことにとても驚いたのである。


 その青年、S君はオレに多くの影響を与えてくれた。

 オレが1988年に「白夜特急」と名付けた北欧東欧放浪の旅に出かけたのも、きっかけの一つはまぎれもなく彼との出会いだった。

 もう一つ、不思議な縁だが、私が引き合わせた女性と彼は後に結婚している。



 信濃追分には立原道造が滞在したという油屋旅館が民宿となって現存している。このコロナ禍、今はどんな状況だろうか。また訪問してみたいのである。軽井沢にある堀辰雄文学館には立原道造関係の資料も展示されている。



 東京帝国大学工学部建築学科を卒業した立原は東大建築科在学中の3年間、辰野賞を連続して受賞した。24歳の若さで結核で亡くなった彼の最期のことばは「五月のそよ風をゼリーにして持つて来てください」だったという。



 高校の現代文の教科書には立原の『のちのおもひに』という詩が掲載されていることがあるが、オレはもっとわかりやすいこの『爽やかな五月に』を載せるべきだと思っている。



 大学で建築を専攻し、そしてすぐれた多くの詩を生み出した小田和正さんという方がいる。もしかしたら小田さんは立原道造の生まれ変わりだろうかと、どちらも好きなオレは勝手に思っているのである。

モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。