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星野源さんのライブに行って楽しめなかった自分。

もし、この動画のリンクが切れていないなら、僕の拙い文章よりまずはご本人の発言を聞いて欲しい。

一応、見れなかった人のために一部を紹介すると、

思春期に毎朝鏡を見て変な顔だなと思ってため息をついて学校に行った。

親からはあなたは不細工だし、スタイルも良くないのだから人の3倍努力をしなさいと言われ、自信なんて持ちようがなかった。

自分というものが人より劣っているとずっと思って生きてきた。

あなたは、これを読んで今の星野源さんの発言だと知ったらビックリするに違いない。

僕の尊敬する星野源さん。

一時期は、ラジオを毎週聞き、彼の作る新曲を追いかけ、コロナ前には二回ほどライブにも足を運ぶくらいハマっていた。

なぜ、過去形にしたのか?

今でももちろん大好きであり、尊敬している。

ただ、僕は星野源さんを今でも心の中で応援しているし、また全力で応援する時が来るとは思うけど、その前にまずは自分をもっと応援しないといけないなと思ったのだ。

星野源さんは言うまでもなく国民的スターだ。

逃げ恥でハマったベタな僕は、源さんがガッキーと結婚したことが心から嬉しかった。それはドラマの役柄の影響もあるけれど、あのガッキーと結婚しても(非常に失礼な表現だが)全くおかしくないほどの人気者だからだ。

星野源さんの名前を知ったのは、本屋さんだった。

僕は本屋さんにしょっちゅう行くので、トレンド情報はかなりの部分が本屋さんに依存している。

一時期、やたらと彼の名前を見かけた。

表紙には、

眼鏡をかけた地味な風貌の男性が写っており、試しに著者の紹介を見ると俳優、文筆家、音楽家とある。

知らない。

誰?

そもそも僕はもう若い頃ほどヒット曲を知らない。

昔は毎週のようにTSUTAYAに行き、ヒットチャートの曲を片っ端から借りてはせっせとiPodに詰め込んで、時には100枚以上のアルバムを返しに行き、カウンターの上に山のように積み、店員さんが呆気にとられた事もあったほどだ。

今ではサブスクや無料動画で済んでしまうのだから笑い話にもならない。

そして、いつしかボーカル入りの曲をあまり聞かなくなった。読書をする時に周りの騒音を遮断するために何かのサウンドトラックを流す程度だ。

たまに聞くとしても昔のお気に入りの曲ばかりである。

だからその時は、知らない男性の本に僕は関心もなく、平積みに戻した。

きっとこの人は人気があるのだろうけど、僕の興味の対象ではない。

大体、俳優、文筆家、音楽家ってなんなんだ?

どれもあまりに大仰で、僕みたいな疎い人間でも知らないのだから、大して有名でもないのではないか?

少なくとも本に関しては人よりそこそこ読んでいるのに、文筆家とはなんなんだ?

胡散臭い。

正直にそう思ってしまった。

そんな僕が、である。

今では彼をとても尊敬している。

たまにラジオを聞いたりして、いつも通りに下ネタではしゃいでいるなとか、うわっ、またグサっとくるようないい事言うなぁ〜とか思ったりする。

星野源さんのエッセイ本『いのちの車窓から』が文庫化された。文庫化に伴い、加筆されたそうだ。僕は元の書籍を発売日に買っている。

匿名でツイッターをやっていたとか結婚前の新垣結衣さんに対する文章もあって素の源さんが読めて面白い本だ。

その中に「文章」という章がある。

子どもの頃から読書が苦手で、メールが下手。

自分の気持ちをうまく言語化できないもどかしさを抱えていたそうだ。

そこで、彼は文章を書くことを仕事にしようと考えた。

仕事にすれば嫌でも人の目に止まるし、プロの編集者から指導も受けられる。

最初は雑誌の欄外の一言コラムから始まった。

やがてそれは本になり、自分の想いをそのまま言葉にできるようになり、読書もするようになったそうだ。

僕は今では星野源さんの本をほとんど読んでいる。

思うのは、確かに文筆家だということ。

僕が星野源さんを尊敬するのは、思ったこと、やりたいことを、全て、するところだ。

「二兎追う者は一兎をも得ず」ということわざがある。

一つのこともちゃんとできない人は他のこともできないというたとえだ。

ここでちょっと面白い本を紹介したい。

僕の知っていることわざが世界ではどう表現されているのか?

「二兎追う者は一兎も得ず」と表現している国は意外に多い。

古典ギリシア語、ラテン語から端を発しているようで、当然ながらその影響を受ける国も多く、

英語では、

He who chases two hares catches neither.

とそのままだし、ドイツ、フランス、オランダ、イタリア、ロシア、スペイン、メキシコ、中国、韓国、モンゴルでもほぼ同じ言い回しのようだ。

少し違った表現としては、

何でも屋は少ししかできない(ハンガリー)
二つの道はハイエナを困らせる(スワヒリ語)
二つの食卓で食べる者は窒息する(アラビア)
二つのスイカは一つの脇の下に抱えられない(トルコ)
金の馬を持っているなら銀の羊は探さない(チベット)
二艘の船にまたがって泡を食う(台湾)

などで、中には、

二人の妻を持つ男は部屋の隅で泣く(ネパール)

なんてのもあって面白い。

話を戻そう。

僕は、何か一つのことだけに全集中するのがいいとずっと思ってきた。

もちろんそれはある意味では普遍的なものだろう。

だけど、こだわり過ぎるのもよくないと思うようになった。

星野源さんはやりたいことを全てやる。

楽しんで、やる。

活躍している人の一部分だけを見て、僕はついこの世には完璧な人間が存在するのだと錯覚する。

僕のバイブルである『自助論』にはミケランジェロのこんなエピソードがある。

ある時、ベネチアの貴族がミケランジェロに自分の胸像を依頼した。
彼は十日でその像を造り上げ、代金を請求した。

これに対し、貴族は「たかだか十日で仕上げた作品にしては法外な代金だ」と抗議した。

だが、ミケランジェロはこう答えた。

「あなたはお忘れになっているのですよ。胸像を十日で造り上げられるようになるまでに、私が三十年間修行を積んできたということを」

レオナルド・ダヴィンチが、ピカソが、どれだけ多作の上に、言い換えるなら、どれだけ没にした作品の上に、名作と言われるものを生み出したのかを軽視してしまいがちだ。

最近読んだ木下勝寿さんの本の中にもこんな話があった。

木下さんが新入社員時代、今では社長を退任している創業者が訪問した。

自分よりも小柄で遥かに年配の白髪まじりのおじさんは、数々のビルを所有し、そのビルの一室で一介の社員として働いているのが自分である。

一体、自分とこの目の前の小柄なおじさんとは何が違うのだろう?

与えられた24時間は同じであり、肉体的にも優位な自分。しかし、現実にはこの小柄なおじさんは大企業のトップであり、自分はその会社の末端社員である。

そこにあるのは思考だと木下さんは言う。

世の中には三種類の人間がいる。

1.成功する人
2.成功しそうだけれどしない人
3.成功しない人

2の中間にいる人は話す内容は1と同じだが、行動は3の人と同じ。どれだけ立派なことを話していても行動しなければ成果は出ない。

意識ばかりが高くて何も行動しないのだ。

いくらアイデアを思いついても、時間が無いから、お金が無いから、と言い訳にだけはクリエティブな力を発揮して行動に移さないのだ。

木下さんは職業柄、いろんな社長に会う機会があったので、思いついたことを話してみたそうだ。

すると次に会った時には、「君のアイデアのこれはよかったけど、これはダメだった」と言われて驚いたという。つまり、実行した上で返答してきたのだ。

成功する人はたくさんの失敗をしている。

失敗は試してみないと分からない。

成功は結果だ。

この本は今の自分から抜け出すために、頭の中の思考をインストールし直すための45の法則だ。

考え方のクセは簡単には直らないけど、直す方法はあるという本だ。

また話がずれてしまった。

二兎追う者は、追いかける意欲があるだけスゴイと僕は思う。

その意欲があれば一兎も三兎ももっと多くの兎だって追いかけられるかもしれない。

奇しくも来年の干支は兎だ。追いかける兎の数を増やしてみるのもいいかもしれない。

毎年正月になると多くの人が今年の抱負を決めようとする。

でも僕は、決めたままそれを成し遂げたことが無い。

なぜなら忘れてしまうからだ。

そして、実践しないからだ。

そもそも。

そもそも、一年の始まりだからと、誕生日やクリスマスのようなイベントの決まり事のように抱負を決めること自体が僕には合わない。

僕はこれまで人生の大半を惰性で生きてきた。

それこそ、意識ばかりが高くて特に何もしないまま年齢を消費してきた。

でも今は。

今はちょっとだけ変わっている。

僕は毎日目標を決める。

たとえそれがうまく行かなくても、ほんの少しでも今やりたいことをやる。楽しいことには苦しみも伴う。思ったよりもうまくいかない。

実際に文章を書いてみると、こんなつまらない文章を誰が読むのかと愕然とする時もある。

毎日の目標が無い人がたった一年に一回、目標を決めてもやるはずが無い。

普段やらない人が突然ジョギングを始めるだろうか?

そういう人も中にはいるだろう。

でも、僕はそういう人間ではない。

もし僕がジョギングをしようと思ったら、ちょっと駅まで走ってみて苦しさを感じないと楽しさも達成感もわかないと今は考える。

日々の継続はその先にあり、それが習慣となる。

noteでは毎日つぶやき更新をしている。たまにはこうして長めの文章を書く。もう3年ほど続けてきた。

そんな僕に、なぜあなたは毎日更新できるのですか?と聞く人がいれば、まずはその質問を今日のnoteに書いてみてくださいと僕は言うだろう。

noteに書く。

何かを毎日noteに書く。

それが続いただけだ、と。

でも私には書くことがありません。

続ける自信がありません。

とその人は言うかもしれない。

だったら、無理ですと僕は言う。

なぜなら、あなたはnoteに書くことが楽しくないから。

楽しいものは自然にやりたくなるものだ。

あなたが大好きなマンガは誰かが強制して読まされているものではないだろう。

僕がどれだけ面白いと思ったマンガでもハマらない人はいる。仮に読んだとしても面白くなければ苦痛を感じるはずだ。

ではなぜあなたは面白いと思ったマンガを読んでいるのかと振り返ってみて欲しい。きっとかなりの冊数に達しているマンガを読んでいるのではないだろうか。

そんなにたくさんのマンガをなぜ読めるのですか?

毎日更新の質問は僕にとってはこれと同じ質問だ。

そして、星野源さんがいろんなものに手を出して成功しているのもまた、始まりは同じではないだろうか。

たまたま(というのは失礼だけど)成功しているものが多いから彼は多才の人と評される。

しかし、今の彼はそんなにすぐに今の彼であっただろうか?

一番長い役者業であっても、確かに若い時から有名な作品に出てはいたけれど、知名度は全く無かった。

音楽も、文章も、ルックスも今ほどの評価は皆無だった。

僕は星野源さんの才能は努力の才能だと思う。

飛び抜けた容姿や才能を持つ者が目立つ世界において、彼は遅咲きだ。

しかし、今では誰もが知る有名人であり、才能の塊だ。

僕はライブに行った。

同じ空間に彼がいる。

好きな曲を笑顔で歌う。

巨大なモニターに映る彼はかわいくてカッコいい。

スターだ。

彼と僕の違いは何だろう?

彼と僕はかつてそんなに違いがあったのだろうか。

大して変わらなかった時もあったに違いない。

たとえばお金の面で言えば、彼は売れない役者で、無理して部屋の中に不釣り合いな打楽器を置いて、食べる物も困りながら暮らしていた時代がある。

でも彼は、自分の好きなことを、やりたいことを、ただただやっていた。

時にはドームツアーを夢想したかもしれないけど、それは無理だなと苦笑しつつ、目の前の楽器を弾いて、奏でたいメロディを悔しい気持ちと共に作品に残していただろう。

あんなに素敵な歌声をしているのに自分の声が嫌いだったという。

ある時は妻夫木聡さん主演の映画『ウォーターボーイズ』でみんなの足を引っ張り、孤独感に打ちひしがれながらも、演技を続けた。

メールでさえろくに打てない自分にあえて文筆業を課してみた。

大病を患い、今までの自分を捨てて、周りへの感謝から生まれた『SUN』は一躍彼を有名にした。

今回僕は、電子版で久しぶりに『いのちの車窓から』を読んでみた。

追加されたあとがきには、有名になるにつれ疲弊した気持ちが赤裸々に語られている。

今の源さんは好奇心と勢いで興味がわくものは何でもやりたいというよりも、一つ一つの仕事にしっかりと取り組みたいと思っているそうだ。

これからも彼はたくさんの作品にいろんな気持ちを反映していくことだろう。

一方の僕は。

ライブで彼の姿を見た時、僕はあまりにも自分が情けなかった。

周囲の人たちはこんなにも笑顔と声援を送っている。

たくさんの人に喜びを与え、同じ曲を口ずさみ、会場中が熱気に包まれている。

天才と片付けるのは簡単だ。

でも、ステージにいる彼は同じ人間なのだ。しかも自分よりも若いのに数々の苦難を乗り越えて来た人なのだ。

別に僕は彼のような人気者になりたいわけではない。

若ければ嫉妬も夢想もしただろう。

でも、僕の気持ちはそこには無い。

彼の姿を初めて見た時、僕は泣いていた。

気づけば涙が出ていた。

それは感激からくるものであっただろうけど、ある意味では、自分がいかに自分の人生に向き合っていないのか、打ちひしがれた気持ちからくるものでもあったと思う。

結局僕は、楽しむために行ったライブを楽しむことができなかった。

自分が精一杯に生きて、束の間の息抜きとして彼を応援するほどに生きていないという現実を感じてしまった。

彼はなるべくしてスターになっている。

やりたいことのほんの少しだけを形にして、忙しいスケジュールの中で今自分ができるベストの状態に近づこうと賢明に努力している姿がまぶしい。

それは歌がうまいとか、ヒット曲であるとか、表面的なことではない。

目の前に、生きて、それを体現している人がいるのだ。

しかも、こんなにもたくさんの人と楽しい気持ちを共有しているのだ。

すごい。

自分には何ができるのだろう?

まずは弱い自分に対峙すること。

誰かを応援することで自分の応援席に座らないようにしていた自分をはっきりと認めること。

僕には何の才能も無いかもしれない。

このまま死んでも何も残すものは無いかもしれない。

でも、自分が面白いと思ったものを伝えることくらいはできる。

昔と違って、今はいろんな表現媒体がある。

noteもその一つだ。

YouTubeも音声配信も始めてみた。

大好きな読書も、誰かに伝えたい気持ちが強くなった。

ごくたまに僕が紹介した著者の方から感謝の言葉を頂くことがある。

あるいは誰かがスキを押して下さる。

もし、僕が紹介しなかったら僕はその時の嬉しさを感じることは無かった。

誰かが「ありがとう」と言う。僕もまた「ありがとう」と言う。

一人で生きているのではないと感じる。

誰かを喜ばせることくらいは僕にもできるのだ。

noteを毎日更新できるのはなぜか?

書きたいから書いている、というのはきっかけに過ぎない。

誰かが読んでくれる、感謝してくれる。

ここまで書いて、答えはそこにあると思った。

僕は星野源という人に出会えて良かった。

僕が心からライブを楽しめるように、僕はもっと自分を応援しようと思う。

そしていつか、心から応援できる自分になってライブ会場に足を運びたいと思う。

ありがとう、源さん。

僕はあなたの生き方を尊敬しています。




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