僕が英語に興味をもつ理由。

英語が話せる人が近くにいると、英語が話せない僕は「すごいですねぇ」というありがちなフレーズで話しかける。

そうやって話しているうちに(大抵は学生のアルバイトさんだけど)、自分とは違う理由で語学が好きなんだという気持ちになることが圧倒的に多い。

そもそも英語が話せる人は、言語をコミュニケーションツールとして捉えている傾向にある。

でも、僕は言葉そのものに興味があるので方向性が違う。たとえば過去に書いたこういう記事にそれは表れている。

そういうきっかけとなった本はこちら↓

出会いは大学入試の現代文。その一節に

ことばとは氷山の一角である。

というのがあった。たとえば「神」という言葉を使って伝わるものは国によって違う。だからそれを「神」と訳すだけで水面下の文化を知ったことにはならないし、思わぬ誤用をしてしまうかもしれない。

関西弁に「えらい」という言葉があるけど、これは「偉い」という意味もあれば「しんどい」というニュアンスもある。方言と標準語が異なる体験はみなさん覚えがあるのではないだろうか。

僕が英語に興味を持つのは、その言葉の水面下にある「文化」や「発想」だ。たまたま身近にあるのが英語というだけで、理解できるのであれば別にどんな言語でもいい。

もしできることなら全ての言語に触れて自分の中の辞書に書き込んで汚したい。

なぜその言語が生まれたかという背景には人の思考や思想がある。それを考察するのも大好きだ。

僕は話をするのが好きだけど、会話のキャッチボールは苦手だ。わりと話し上手だと思われることも多い。でも実際はそこまで話すのが好きではない。いや好きなんだけど、そこまで自信がない。

一方的に壊れたラジオのように話すのは無意識にできるけど、誰かが停止スイッチを押してもなかなか作動しない。気がつけばああ今日もえらい話しこんでしまったなぁという気持ちになる(えらいにはこういう使い方もあるのです)

話すことは楽しいけれど、時間とエネルギーの消費率が高い。時間が長くなるにつれ、無駄な言葉の重複が増え、時間の制約上、あれも言わなきゃこれも言わなきゃと頭の中がテトリスのような様々な形をした次ブロックで埋め尽くされ、長い棒は一向にやって来ない。

そして聞く方も大変だなぁと思ってしまい、隙間の埋まらないブロックでゲームオーバーを迎えるのである。

話しながらホントに相手は僕の話を楽しんでくれているのだろうかと考えたりもする。そうなると、当たり障りのない会話を続けている方が楽な気もする。

だから僕はこうして文章を書くのが好きなのだ。さらに公開することで読みたい人が読んでくれる、読みたいとこだけ読んでくれる(という錯覚に陥ることができる)文章の倉庫番が好きなのだ。

逆に本が好きなのも似たような理由で、本というまとまった形になっているものは気をつかわずに対話ができて楽しい。

読みながら「えっ?それはどういうことですか?」「へー、そうなんですね」みたいなつっこみを入れながら、時間と興味があればずっと読み続けられる。

もし合わないなと思ったら一時停止ボタンは作動するし、その本の中で解決しない気持ちは同じ著者の別の本や関連本で埋めることも多い。

確かに言葉とはコミュニケーションツールだ。伝達という意味で、会話という意味で。

もちろん言葉が全てではない。音楽も絵も他の何かも。

でも僕の中では言葉で考えることが最上位にある。絵も数字も苦手な僕にはこれから先もそれは不動だと思う。

難しい言葉を知っている人はすごいと思うけど、それよりも語彙の幅の方が僕には魅力的に思える。

ただ難解な言葉を使っている文章は面白みがない。でもまさにその言葉でしか表現できない言葉のパレットをつかいこなしている人は素敵だ。

そういう文章は面白い。たとえ小学生が知っているような言葉しか使われていなくても色彩が感じ取れれば、それは僕にとって読み続けたい文章である。

世の中にはたくさんの人がいて、たくさんの言語があって、たくさんの思いがある。僕が触れられるそれらは有限。毎日カウントダウンは止まらない。もっともっとたくさんの文章に触れて、もっともっと会話がしたい。

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