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北欧旅14【北欧旅番外編 最終章、北京へ】

ストックホルムからの帰国便は、北京でのトランジットに22時間かかることがわかり、急遽、中国のネット旅行会社に「8時間、日本語のできるドライバーガイドチャーターツアー」を申し込んだ。


北京空港に迎えに来てくれたガイドの陳さんは、実に巧みな日本語を操る。さっそく、舞い降りたこの巨大空港が、さらにターミナルビルと滑走路を急ピッチで建造中、成長期真っ只中であることを教えてくれた。


定番である「万里の長城」と「天安門広場」を8時間の制限時間内ギリギリで案内してくれることになった。北京市内は、柳絮(りゅうじゅ)と呼ばれる綿毛のような柳の種子が大量に大気中に舞う季節で、目に映る全てが霞んでいた。


巨大な高速道路を埋めるのは、ほとんどがヨーロッパメーカーの大型車。「本当の輸入車は、実は少ないんですよ。車体に表記されている車名が漢字で表記されているものは、エンブレムは欧州メーカーでも、実際は、中国国内の工場で生産されている国産車ですよ」と語る陳さんの車もVWエンブレムだったが、車名はたしかに漢字だった。


「万里の長城」到着。考えてみると昨日出航した「ゴットランド島」は、元来”ゴート族の土地”という意味。古代、中央アジアの騎馬民族、フン族(匈奴)の襲来により、国家が分断された民族の名を持つバルト海の孤島を騎馬民族の襲来におびえた西の果てとするなら、丸一日かけて飛行機でたどりついた北京は、その東の果てだった。


まったく同じ部族ではなかったにせよ、中央アジアの騎馬民族が闊歩した空間の広大さに脱帽。


中国も4連休の最終日だったそうで、北京に帰還する渋滞車線を横目に、路側帯もフル活用して、陳さんは天安門広場に向けて、車を飛ばす。今日で7日連続で日本人をガイドしているそうだ。


日本の四国の面積に匹敵する北京。その市内に入ると、巨大なメガサイズのアパート群が、高速道路脇に林立している。各部屋にエアコンの室外機が無数にぶら下がっている。一つでも通りに落下すれば、大事故になるだろう。電線一つ見当たらない美しい北欧の町並みを見続けたあとに目の当たりにした、その光景は、なんだか個人の生命が軽く扱われている象徴のように感じた。

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全くの偶然だったが、この日、天安門広場は、1919年の54運動からちょうど100年の記念日だった。「政府は、この日を利用し、盛んに100年前の青年たちの精神を忘れることなかれと喧伝していますよ。革命の精神で、残業手当もなしで勤労しようといわれてもね。」と、陳さんも苦笑していた。



祝日の天安門広場に入るのにも、人民軍によるパスポートチェックを受ける必要があった。赤旗がたくさん掲揚され、毛沢東と孫文の肖像画が、だだっ広い広場を挟んで向かい合わせで掲げられていた。ロシア革命の影響が主だったと言われる54運動だが、日清戦争終戦時、下関で締結された不平等な条約も端を発したきっかけの一つと言われている。


「今年も秋には軍事パレードがここで行われ、世界中から元首クラスが集まります。陸海空の全軍行進は圧巻ですよ。子供の時に私も親に連れられて見にきたものです。」とどこか得意げに語るガイドの陳さん。


天安門事件当時のことも聞いてみると「当時学生でしたからデモには参加しましたよ。しかし、あくまで中央政府の汚職に対する抗議活動の一環だったのです。それが、いつのまにか政府転覆を謀る運動へと主旨が変えられたので、その段階では、すでに多くの学生は脱退していました。」とにこやかに語りながら、プランターの花壇越しに天安門をとらえる、おすすめの撮影アングルを教えてくれた。

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私と同じ1970年生まれの陳さんは、北京の大学で4年間日本語を学び、その後4年ほど大阪と愛知でご家族で暮らした経験を持つ方で、現在大学に通う一人娘は、日本で生まれたそうだ。彼は、車が、中央各省庁ビル、政府系電力会社やマスコミ関係の集中するエリアを通過するたびに真新しい派手な巨大ビルを指さして説明してくれる。


「国家」という右肩上がりのマッチョを象徴する建造物や広場が、中国の「観光地」であった。一方、旅して歩いてきたコペンハーゲンやストックホルムそしてビズビーの広場は、すでにそこに警備に当たる兵士の姿はなく、市民のものとなって二百有余年の月日が流れていた。


図らずも「形あるものにしか価値を認めない」現物型社会(ハコモノ優先型)と「形なき」理念尊重型社会(環境保全型)、その両極を体験した旅となった。


おもえば、北欧各国の総理や元首の顔と名前を私は知らない。一方、アメリカ、日本、中国のトップの名前は、連日のようにテレビに流れる。「国家の顔」を必要としなくなったスウェーデンも、100年前は、極貧の酪農農業国で国外への移民流出を止められなかった。

しかし、革命も戦争も経ずに、彼らは、近代工業国として成功し、相互信頼を基盤とした公共システムをつくりあげ、家族・血縁主義発想の内向き幸福論から脱した。介護も教育も「家族の責務」という圧力からは解放されているため、多様な人々を受け入れる外向けに開かれた幸福論が成立しやすい。


北京空港近くのホテルへの道すがら、陳さんに北京ダックのレストランを勧められたが、旅疲れの胃腸に優しい夕食をリクエスト。すると、最後に地元のお粥店へ案内してくれた。北欧では決して味わえない、ショウガのきいた温かい出汁が香るおかゆが胃袋に染み渡った。味覚の「広場」の民主化(多様性)に関していえば、東アジアは圧勝だった。食への欲望は、同じ釜の飯を食う、内向きの家族主義と相性がいいのかもしれない、といい加減な理屈を思い浮かべながら、熱い粥を夢中でかき込んだ。

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