人間失格 太宰治と3人の女たち 感想徒然

「人間失格 太宰治と3人の女たち」を見た。
太宰ファンであるので義務だった。

感想は、良いか悪いかで言えば良かった。
これを観て、「蜷川実花は文学を舐めている」とかいうレビューを書いている人はその人こそ文学を舐めている、というか太宰を知らないのだろう。

蜷川実花の耽美な世界観は嫌いじゃないし(ファッションが何よりサイコーだった)、太宰の描き方も解釈違いというわけでもなかった。なので良かった。

凄いと思ったのは、やはり太宰治という作家のことだった。
それこそフィクションのような、劇的なことが繰り返し起こって、太宰はずっとインモラリストで、最低な人間で、取り巻く女たちがどんどん狂っていって、それが殆ど脚色が無く嘘ではない、というところが凄かった。あと、太宰と絡みのあった(私が)好きな作家たちが出てきて、「プリキュア オールスターズ」のような興奮があった。
内心「おおおお〜!安吾キター!いや藤原竜也確かにちょっと似てるけど!」
「はい三島キター!美化〜!でも似てる〜!きれ〜!!」
みたいな興奮があって良かった。これ見よがしで無事興奮した。

文豪たちの関係性萌えみたいなところあるので、そこをきっちり描いてくれていたのも良かった。「如是我聞」を描いていたり。
「ヴィヨンの妻」「斜陽」が出た当時の雰囲気なども、映像化されると妙にリアルで良かった。「当時って多分本当にこういう感じだったんだろうな」という、ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」を観たときのような気持ちになった。

これをきっかけに、太宰の作品を見つめ直している。その良い機会にもなった。

やはり太宰は、芸術至上主義で、自分よりも芸術が大切で、そんな自分に酔っていたくて、人は恋と革命のために生まれてきたのであるから、自殺をしてみたり、美女と心中をしてみたり、薬漬けになってみたり、左翼運動に夢中になってみたり、あらゆる中毒になってみたり、「キチガイを演じ、それを維持する」ことに徹した人だったのだ。全ては小説のために。そういう作家は日本文学史上唯一無二で、皆は自分の弱い所を太宰に重ねて感情移入をしたり、狂人というジャンルのエンターテインメントとして楽しんだりと、需要しか無い。唯一無二で需要がある、というのは、表現者として完全に勝利している。

或る評論家は、ある老大家の作品に三拝九拝し、そうして曰く、「あの先生にはサーヴィスがないから偉い。太宰などは、ただ読者を面白がらせるばかりで、……」
 奴隷根性も極まっていると思う。つまり、自分を、てんで問題にせず恥しめてくれる作家が有り難いようなのである。評論家には、このような謂わば「半可通」が多いので、胸がむかつく。墨絵の美しさがわからなければ、高尚な芸術を解していないということだ、とでも思っているのであろうか。光琳の極彩色は、高尚な芸術でないと思っているのであろうか。渡辺崋山の絵だって、すべてこれ優しいサーヴィスではないか。
何処どこに「暗夜」があるのだろうか。ご自身が人を、許す許さぬで、てんてこ舞いしているだけではないか。許す許さぬなどというそんな大それた権利が、ご自身にあると思っていらっしゃる。いったい、ご自身はどうなのか。人を審判出来るがらでもなかろう。
 志賀直哉という作家がある。アマチュアである。六大学リーグ戦である。小説が、もし、絵だとするならば、その人の発表しているものは、書である、と知人も言っていたが、あの「立派さ」みたいなものは、つまり、あの人のうぬぼれに過ぎない。

どちらも「如是我聞」での太宰の、委曲を尽くした志賀直哉と志賀文学を評価する者への文句である。気持ちがいい。私は志賀文学だって好きだ。志賀には志賀の良さがある。「和解」には救われた者も多い。高校の時の私も救われた。「小僧の神様」「城の崎にて」「清兵衛と瓢箪」等は芸術作品として秀逸の一言である。しかし太宰は何のリスクも取らず弱き者でもなく只立派な作品を書くお坊っちゃまを所詮は「アマチュア」と切り捨てるのだ。両者の文学に価値がある、と私は思っているが、この太宰vs志賀の構図は、両者とも大人気がなく人間味が溢れていてサイコー過ぎる。だから文豪の関係性萌えはやめられないのだ。私にとっての究極のフェチズムがここにある。

#太宰治 #日本文学 #文学 #近代文学 #人間失格 #志賀直哉 #映画 #小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?