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三宅勇介インタビュー:AI編(その2)

四元: たしかに三宅さんが『歌論』のなかで紹介されているAI短歌を読んでみると、それが人間の詠んだ歌ではないと断言するのは難しいですよね。

誉められた仁王立ちする書き置きと色えんぴつに行く先見れば

金メダル空白がある悪夢から不思議な世界見てる時間を

                                        「短歌自動作成」anzenhyogo.comより
ぺらぺらの残りわずかな影になれ 給水塔は死んでしまった

とくべつなあなたの犬の過ちがいっぱい 雪の終わりでしょうか

                          「短歌自動作成装置『犬猿』(星野しずる)」より

たまたま手元に届いた詩誌「びーぐる」36号のゲラに、上田信治さんが俳句時評を書いています。そこで彼が『「分からない」俳句』と題して紹介している田島健一さんという方の作品と較べてみましょうか。

白鳥定食いつまでも聲かがやくよ

空がこころの妻の口ぶえ花の昼

なにもない雪のみなみへつれてゆく

                                                           句集『ただならぬぼ』より

田島さんがこれらの俳句を書く上で、はたしてAIを意識したかどうかは分かりませんが、これらの句の「分からなさ」には、どこかAI短歌に共通するものが感じられます。

あと最近では「偶然短歌」というものも流行っていますね。日常の言葉に偶然現れる5・7・5・7・7の調べを発見し、短歌として楽しむという動き。なかでもいなにわ氏というコンピュータープログラマーが日本語版ウィキペディアから五千首を採取したという「偶然短歌bot」は、僕も好きでフォローしています。

念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り(「盆踊り」)

正しいが、人々が持つ宇宙への夢に対する配慮に欠けた(「冥王星」)

実はこの「偶然短歌」というコンセプト、すでに十世紀にして紀貫之が『土佐日記』のなかで取り上げているんです。「住の江の松」の項、次のくだり。

「舟とく漕げ、日のよきに」ともよほせば、楫(かじ)とり、舟子どもにいはく、「御舟よりおほせ給ふなり。朝北の出で来ぬさきに綱手はや曳け」といふ。この言葉のうたのやうなるは、楫とりのおのづからの言葉なり。(略)聞くひとの「あやしく歌めきてもいひつるかな」とて、書き出だせれば、げにみそもじ(三十一文字)あまりなりけり。

船頭(楫とり)に舟を出すよう命じたら、船頭が部下の船乗りたちに、風がでないうちに綱手を引っ張れと言った。何気なく言ったその言葉が、なんとなく歌のように聞こえた。実際紙に書き出してみたら、ほんとうに三十一文字の和歌になっているではないか、というまさに元祖「偶然短歌」の場面です。

ここで言う「聞くひと」とは舟君すなわち紀貫之その人だと思われますが、彼が言う「あやしく歌めきて」という言葉が面白いですね。その「あやしさ」は二十一世紀のAI短歌の怪しさとも通じている気がします。ある形さえ与えてやれば、言葉(少なくとも日本語)はおのずとそこに詩的な磁場を発生させてしまうという、ほとんどアニミスティックな言霊の感覚……。

実は僕にも覚えがあるんです。数年前、現代版「新いろは歌」を作っていたときのこと、この場合は五・七のリズムの代わりに、「五十音すべての音を一回だけ使う」という制約が与えられていたわけですが、最初は不可能と思われたその作業が、やっているうちにどんどん出来てしまい、最後の方ではいつまでも終わらないのではないかと、そら恐ろしくなってきたのでした。

頭でっかち 公理を極めに 意味の裾(すそ)往(ゆ)けど 屁はひるぜ 法螺も吹く 女さえ眠れぬ 宜しや。

イカロスは 世智(せち)に背きて 上めざし 火まみれ 燃ゆる泡(あぶく)となり絶へぬ 余熱 親の祠(ほこら)を分けん 

歌人(うたびと)が 無言で下りる 山の辺(へ)に 名も知れぬ草 爪(つめ)毛(け)骨(ほね) 汗消え 破風(はふ)笑い よろず其方(そち)を見ゆ  
                   詩集『日本語の虜囚』より

その「そら恐ろしさ」というのは、いわく言い難いのだけれど、自分の人格がなくなって、日本語そのものが持つ原理と構造に操られているような感覚とでも言えばよいのか。もしかしたら、その「原理と構造」というのを「アルゴリズム」と呼び換えてもいいのかもしれません。そこに身を委ねさえするならば、もはや何を言っても「あやしく歌めいて」くるような……。

ずいぶん長くなってしまいましたが、ここでようやく次の質問です。こういう現象は、自由詩にも起こりうるのでしょうか。それとも形や制約あってこその話で、むしろ定型詩の本質を示す事柄なのでしょうか。逆に言えば、AIに自由詩が書けるのか?その場合の自由詩とは、本当に形が自由な詩であって、あるときは一行詩かもしれないし、次の作品は数万行に及ぶ長編詩かもしれない。そのようなものを果たしてプログラムすることが可能なのでしょうか?

三宅: 今、四元さんからいただいたご質問、たいへん色々な問題を含んでいると思います。最終的なご質問、「AIに自由詩が書けるのか」ということの前に、四元さんが挙げた様々な問題を私なりに考えてみました。まず、四元さんの紹介してくださった田島健一さんの俳句、確かにご指摘のように、非常にAI的ですよね、私もそんな感想を持ちました。そもそも、俳句、短歌、自由詩のどれがいちばんAIにとって作りやすいのか、ということをまず考えてみますと、もちろん作りやすいから価値がない、とかいう話ではまったくない、ということを大前提として述べるならば、素人の考えからいけば、まず、短く、季語を含む、という事を考えるならば俳句なのではないか、次に、同じ定型詩の短歌、それから自由詩ではないか、という事ですね。ただ、自由詩においては、アルゴリズムによっては、実は一番作りやすいのではないか、とも少し思ったたりするのですが。。(もちろん、それらは、あくまで、「俳句もどき」「短歌もどき」「自由詩もどき」にすぎないのではないか、という点は、今回はとりあえず置いておいて)

私の尊敬する俳人の加藤楸邨の有名な句で、大好きな句に、

鰯雲人に告ぐべきことならず

という句があります。この句の偉大さは疑いようもないのですが、ただその価値とは別に、「この句、AIにつくれないのかどうか?」という事を考えた場合、アルゴリズム的には結構シンプルで、季語がまず決まったら、そのあとの言葉の選択は確率の問題になってくるのではないか?という事なのです。俳句のAIとの親和性は、その俳句特性でもある、「二物衝突」にも原因があるのではないか、とも思うのです。二つの何か違うものをぶつけて、思いもかけない衝撃的な効果が生まれるのは、たくさんの秀句において、すでにわれわれが目撃してきて知っているとおりです。

また、違う例で言えば、加藤郁乎の前衛的な有名な句、そしてこれまた私の好きな句ですが、

漏斗す用足すトマスアクィナスを丘す

という、ある種ナンセンスな難解句なんかも、実はAIとの親和性はわりとあるのではないか、とも思ったりするのです。というのも、「言葉の選択とシャッフル」というアルゴリズムはそれほど難しいものではないと想像するからなんです。

それよりも実はAIにとって難しいのが、いわゆる平凡な句であったり、「ただごと歌」ともいわれる、日常の事を日記的に記すような短歌だったりするのではないか?と逆説的に思ったりするわけです。たとえばうまい例歌が思いうかばないのですが、仮に、或るおばあちゃんがお正月に孫にお年玉をあげたら喜んだ、という歌をつくるとしますよね。孫は小学生で、お年玉の額は5千円だとします。この歌をAIが作るにあたって悩むとしたら、小学生のお年玉というものがだいたいどのくらいなのか、という常識がない事に起因するのではないか、という想像できるわけです。5円や5百円じゃ、喜ばない。5万円や5十万はもちろんよろこぶだろうけど……まあ、あんまりないですよね。そのような逆転現象というか、言葉の選択のチョイスのセンスを磨き続けて、人間の叡智をきらめかせるような鋭い句や歌を目指してきた俳人や歌人にとっては受難な時代で、ありと普通で平凡な句ほど有り難くなってくるのでは?などという少し悲観的な予想もしているのです(ただ、今の時点では、楸邨や郁乎のような句を、AIが作るとしたら、成功率は天文学的に低い確率だとは思いますが)。

それから、四元さんが挙げられた、せきしろさんの「偶然短歌」や、いなにわ氏の「偶然短歌bot」などの試み、つまり、詩歌の創造に、ある種の偶然性を持ち込む、という方向性というものは、今、時代の流れとしてあるのかもしれませんね。今日のテーマの文脈に沿っていえば、「詩歌の創造の方向性において、人間がAIに近付いていく」という、これもまた一つの逆転現象とも言える面白い現象ではないか、と思うのです。中島裕介さんという歌人が、歌集『oval/untitled』において、携帯電話のキーボードの変換学習機能を使って短歌をつくる試みをしていたと記憶しております。これなんかも非常に面白い試みだと思います。これも「偶然性」を持ち込んだものですよね。

紀貫之のころから、「偶然性」に対する興味を、人間は持っていた、というご指摘、大変面白いと思いました。その好奇心というか、遊び心が、このAIの時代に最接近しているのかもしれませんね。

四元さんの「新いろは歌」の試み、大変斬新だと思います。「五十音すべての音を一回だけ使う」というしばりを持ち込んで、自由詩をつくる、という発想がめちゃくちゃ面白い。そして、この『日本語の虜囚』から挙げられた詩、不思議なことになかば定型詩にも思えるのですね。こないだ、四元さんの主宰する、「JAPAN POETRY REVIEW」に、後期吉岡実論を、「詩型」の面から書かせていただきましたが、四元さんは現代において「自由詩と定型詩」という今日的な課題をもっとも実践されているのかもしれない、という感想を抱きました。そして、ルールやしばり、ということを持ち込めば持ち込むほど、実はアルゴリズムというものが作りやすく、AIとの親和性が生まれる、ということになるのかもしれませんね。また、「新いろは歌」をつくっていく上で、四元さんが捉えられてしまった、「空恐ろしさ」というものは、つまり、「日本語そのものが持つ原理と構造に操られているような感覚」というものは、創作において、少しSFぽくなりますが、「四元さんの人工知能化」ともいえる現象が起こっていたのではないか、とも思えるわけです(笑)。

四元さんの初期の詩集の『笑うバグ』の、「CAPM」、「負債の証券化について」や、「企業年金会計」などのいわゆる、(日本経済新聞連載「経済教室」より)シリーズってありますよね。あれ、ぼくは大変面白くて大好きなんですが、同時に、「新いろは歌」とは違った意味で、AIとの親和性を感じたりしてしまうのです。

それはどういうことか、というと、「経済教室」から引用されていたような文章が微妙なグラデレ―ションを経て、いつのまにか四元さんの詩に変わっていく、そのマジックタッチの見事さは、もちろん到底、今のAIレベルじゃ、表現できないわけですが、しかし、一見もっとも詩から遠そうな経済学用語が切り取り方によっては詩になりうる可能性みたいのも同時に提示しているとも思うのです。それこそ、「偶然短歌」のように……。

そこで、最初の問いに戻るのですが、「AIは自由詩をかけるのか?」という問題、普通に考えて、一番ネックになりそうなのは、「リズム」なのですが、つまり、そのリズムは、例えば長編詩においては、無限にあるわけで、どうやってつくるのか?という問題です。ただ、無限にあるということは、ある特定のリズムを設定してしまえばよい。そのあとは、俳句や短歌のように、「言葉の選択とシャッフル」を経て、眼の肥えた詩人のきびしい「選択」を、天文学的な低い確率の成功率(今の段階では)で通りぬければ可能、という事になる(「選句とは芸術である」と言ったのは虚子でしたっけ?)。

ただ、そのような複雑なアルゴリズムの前段階として、次のような事が考えられないでしょうか?つまり、今、四元さんの「経済教室の文章」からの「引用」のように、(実際はどこまで実際の引用なのが分からないのが四元さんの詩の面白いとこですが)、そして後期吉岡実の、詩における「引用」のように(この問題は改めて少し論にまとめようと思っているのですが)、もし、仮にすべての詩の文章を「引用」で作った自由詩があるとしたら、(ヴァルター ベンヤミンの言葉を想起させますが)それは現時点のAI技術においても十分に可能性があるのではないか?ということなのです。それこそが、俳句や短歌よりもじつは自由詩の方がAIが作りやすいのではないか、という最初の感想にもつながっているのですが、後期吉岡実の詩の中における「引用」は、偶然でもあり必然でもあった、と言えると思うんです。もちろん、吉岡はAIのことを意識などがしてなかった、と思いますが、ある種の詩における「偶然性」の効果というものを狙っていたはずだと思うんです。吉岡の「引用」問題を今日のアクチュアリティとして捉え、そして、その延長戦上に、四元さんや「偶然短歌」のような仕事を見ることができたとき、意外とAI問題というのは身近にあったのではないか、とも思えるのです。

(聞き手:四元康祐 この項さらに続く)

AIインタビュー初回分はこちらから。

吉岡実における「引用」についての三宅勇介氏の考察は、こちらから。




三宅勇介:Yusuke Miyake 1969年東京生まれ。

『亀霊』しろうべえ書房
http://shirobeeshobo.wixsite.com/home1/hon

『棟梁』本阿弥書店
http://store-tsutaya.tsite.jp/item/sell_book/9784776806462.html

『える―三宅勇介歌集』
http://sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=436

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