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映画「US」と小林敏明「故郷喪失の時代」(文學界 2019年6月号)

今ミュンヘンで公開中の映画「Us」(ドイツでの題名は「Wir」)は、ホラー映画の形を取りつつ、そして実際に観てみるとすごく怖いわけだけれど、現代米国社会への批評をこめた風刺劇でもある。

監督はJordan Peele。前作の「Get out!」もホラーにして社会風刺、怖くて悲鳴を上げつつも、鋭い批評性が感覚的な恐怖と絶妙のバランスをとって、観終わったあとには、なぜか爽やかで力強い印象が残るものだった。

前作が黒人に対する人種差別をテーマにしていたの対し、今回は貧富の格差、持つものと持たざるものの間にまたがる不平等を取り上げている。主人公の黒人一家は裕福な階層の側だ。

海辺の別荘で休暇を楽しむ彼らの前に、彼らそっくりの一家が現れて襲いかかってくる。それはいわば表の世界に生きる一家の影であり、裏側の世界に映った鏡像のような存在だ。実際映画では、この影たちは米国のいたるところに張り巡らされた地底の通路に棲息しているという設定である。

裏と表が入れ替わり、影が実体に成り代わろうとする。主人公の一家に突如降りかかったこの不条理を、社会全体に押し広げ、持たざる者の視点から見るならば、これはマルクス主義革命のメタファーであるとも言える。映画を観る私達が怯えるのは、私達自身が生きている現実にこそ圧倒的な格差と不平等が存在し、ある日突然貧富の立場が逆転する可能性に気づいているからに他ならないだろう。

しかも襲ってくるのは怪物でもエイリアンでもなく、襲われる側と同じ人間、人類という種族。つまりは「私たち」自身なのだ。

この映画を観たあとで6月号の『文學界』を捲っていたら、小林敏明の「故郷喪失の時代:第五回 故郷はどのようにして失われたか」という文章を見つけた。

原発事故による「ふるさと喪失」(そういう法的概念が実際の損害賠償訴訟のなかに登場しているのだそうだ)をめぐって、都市と田舎の経済格差の出現と増大の歴史、その背後にある「犠牲を必要とするシステム」を論じている。

高橋哲哉という、やはり哲学者の『犠牲のシステム 福島・沖縄』や田中角栄の『日本列島改造論』を引用しつつ、格差と犠牲のシステムがいかに連綿と現在に引き継がれ、いまこの瞬間も自分たちの生活が、電力供給にせよゴミ処理にせよ、持たざる者たちの犠牲の上に成り立っているか、と同時に、そのような犠牲がいかに社会の表面から隠蔽されているかということを、理路整然と解き明かしてくれる。

なかでも興味深いのは古厩忠夫というひとの『裏日本』という著作の紹介だ。その本によれば「裏日本」という言葉ができたのは日清戦争の頃であり、江戸時代までは日本に裏も表もなかったらしい。つまりそういう概念自体が、明治の近代化における産業革命の落とし子だったわけだ。

「表」の人々の豊かな生活のために、安い労働力を供給し、田畑を潰して工場を建て、時には危険な原発を誘致する「裏」の人々――まさに映画『Us』の世界そのものではないか。

ところで映画の冒頭近くで、「裏」の女が、「表」の女(主人公一家の妻)に襲いかかり、手首に手錠をかけて、リビングのコテーブルの脚に繋ぐというシーンがある。

映画のクライマックスになってその行為の意味が明らかになる。それは観てのお楽しみとして、現代の日本社会では、誰が誰に手錠をかけているのか。怖がっている場合ではないのだ。




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