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ファシズムの夏:その3 ウンベルト・エーコ 『永遠のファシズム』

『ぼくの兄の場合』を読みながらの日本滞在中、新宿紀伊国屋書店に秋山清の著作を買いに行ったのは、イタリア文学者の和田忠彦さんと対談をする当日だった。対談は「現代詩手帖」の主催によるもので、僕が去年に同時刊行した二冊の詩集『単調にぼたぼたと、がさつで粗暴に』と『小説』をめぐる話だったが、『単ぼた』の方は政治的なプロテスト・ソングという性格の詩集なので、自然と日本の近・現代詩における叙事的な詩、社会性や政治性の強い詩についての話となった。

まだ活字になったものを見ていないのでうろ覚えなのだけれど、司会役のFさんが、「総じて日本の近・現代詩にはそういうタイプの詩が少ないですよね」と言ったのに対して、僕は「少ないのだけれど、ない訳でもなくて、一昔前では金子光晴がいるし、最近の例では川口晴美さんの『Tiger is here』とか、新井高子さんの『ベットと織物』とか、個人の体験を下敷きにしながら社会全体の在り方に思いを馳せるような詩集もないわけではないんですよね」などと答えた気がする。だがそのときはまだ秋山清の本を買った直後で、カバンの中の紙袋に入っていただけだったから、彼の名前が意識に上ることはなかった。

和田忠彦さんは、対談の終わりに一冊の本を差し出してくださった。ウンベルト・エーコ著『永遠のファシズム』(岩波現代文庫)、翻訳はもちろん和田さんご自身である。

つまりその日僕のカバンのなかでは、ドイツの『ぼくの兄の場合』と、イタリアの『永遠のファシズム』、そして日本の『ニヒルとテロル』が同居していたことになる。戦後70余年を隔てて蘇る日独伊三国同盟!というのは悪い冗談として、それぞれ書かれた場所や時代は違うにも拘らず、その主題のなんと緊密に結びあっていることか。それは取りも直さず、ファシズムが今日的な問題であることを物語っている。

エーコの本のなかでは、表題作である「永遠のファシズム」が圧巻だった。「一九九五年四月二十五日、ヨーロッパ解放記念行事として、コロンビア大学イタリア・フランス学科が主催したシンポジウムにおいて、英語で発表したもの」だという。

エーコは原ファシズムという概念を、ナチスなどの全体主義的独裁体制と区別して次のような特徴を列挙してゆく。

1 原ファシズムの第一の特徴は〈伝統崇拝〉です
2 伝統主義は〈モダニズムの拒絶〉を意味の内にふくんでいます
3 非合理主義は〈行動のための行動〉を崇拝するかどうかによっても決まります
4 (原ファシズムは)批判を受け入れることができません
5 原ファシズムは、ひとが生まれつき持つ〈差異の恐怖〉を巧みに利用し増幅することによって、合意をもとめ拡充するのです
6 原ファシズムは、個人もしくは社会の欲求不満から発生します。
7 いかなる社会的アイデンティティーももたない人びとに対し、原ファシズムは、諸君にとって唯一の特権は、全員にとって最大の共通項、つまりわれわれが同じ国に生まれたという事実だ、と語りかけます。これが「ナショナリズム」の起源です
(中略)
11 〈一人ひとりが英雄になるべく教育される〉ことになります。神話学において、「英雄」はつねに例外的存在ですが、原ファシズムのイデオロギーでは、英雄主義とは「規律」なのです。その英雄崇拝は「死の崇拝」と緊密にむすびついています。
12 永久戦争にせよ、英雄主義にせよ、それは現実的に困難な遊戯ですから、原ファシストは、その潜在的意思を性の問題にすりかえるわけです。これが〈マチズモ〉(女性蔑視や、純潔から同性愛にいたる非画一的な性習慣に対する偏狭な断罪}の起源となります。ですが、性もまた困難な遊戯にちがいありませんから、原ファシズムの英雄は、男根の〈代償〉として、武器と戯れるようになるわけです。戦争ごっこは、永久の〈男根願望〉に起因するものなのです。
13 原ファシズムは「質的ポピュリズム」に根ざしたものです
14 現ファシズムは「新言語(ニュースピーク)」を話します

ナチズムが人種差別とアーリア主義という独自の理論を備え、非難すべき「頽廃芸術」を正確に規定し、潜在的意思と超人の哲学を備えていたのに対して、ファシズムは、思想的に脆弱であり、一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体であったとエーコは言う。

平たく言えば、ナチズムがドイツ的な厳密さを備えているのに対して、ファシズムはイタリア的ないい加減さを特徴とするということか。このいささかひねくれた見方は、戦前の日本の軍国主義と、現在の日本の保守勢力との対比についてもあてはまるのではないか。特に上記3や4は安倍政権の強引な政治手法そのものだし、12などは最近の杉田論文問題を想起せずにはいられない。

一方「移住、寛容そして堪えがたいもの」と題されたエッセイは、今から20年以上前に書かれたものだが、すでに難民問題を政治的な問題としてではなく、文明史の観点から論じている。

問題はもはや、チャドルをつけた女子学生がパリで受け入れられるか、ローマにいくつモスクを建てなければならないかを決断する(と政治家たちが信じたふりをしているような)ことではない。問題は、次の千年間に(予言者でないわたしにはいつと断定できないが)、ヨーロッパが多民族大陸に、あるいはそう呼ぶ方がよければ、「有色」大陸になるだろうということだ。もしあなた方が望めばそうなるだろうし、望まなくても、やはりそうなるだろうということだ。

エーコは、複数文化の対立が流血の事態をもたらす、それは不可避の事態であり長期にわたるものになるだろう、と断言する。そのうえで、これから五百年の歳月をかけて、わたしたちが未来のための計画を実行可能にするよう呼びかけるのだ。新しいミレニアムはまだ始まったばかりである。



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