隅田有_クロッシング

隅田有 挿画とともに自作を語る5:「PeRmanent ADdreSs LOST」

「PeRmanent ADdreSs LOST」の大文字部分は、ミルトンの『失楽園(Paradise Lost)』にかけています。イスラエルを旅行した際、パレスチナとの間を隔てる高い壁に衝撃を受けました。自分の育った街に分離壁が絶対にできないとは限らない。もしも壁ができたとして、私はそれに適応できるだろうか、と考えたことが詩を書くきっかけになりました。私が生きている間にも新しい国ができたり、新たな国境線が引かれたりしています。平穏な日常が狂って行けば、爪を剥がされるような目に、いつ出くわしてもおかしくないし、そもそも私の手足20枚の爪が一度も剥がされず、いまだに自分の身体にくっついていることは、大層有り難いことなのかもしれません。

「PeRmanent ADdreSs LOST」

ホンゴスアンチヨメの交差点を鬼の手を引いて渡る。歩幅の狭い彼は私と歩く際いつも小走りだ。かどのハンバーガー屋が存続していたことに感極まって、鬼にアップルパイを買ってやる。他のツノを持つ草食動物同様、彼もまたベジタリアンなのだ。揚げたてをサクサクと美味しそうに食べる。私はフィレオフィッシュ。油で口を濡らす。新政権発足以来我々の母語の使用には制限が設けられ、外食も億劫になった私たちは油っこい食べ物に飢えていた。

鬼と私は赤門の手前で旅券を提示する。東京大学一帯は飛び地の日本。すなわち今の私たちには「外国」だ。敷地内に移転した旧真砂図書館の蔵書を目当てに、半年掛りでビザと入館証を手に入れた。私たちは鬼の本を探す。
『泣いた赤鬼』(だけじゃなくてさ、もっとちゃんと探してよ)
『紅葉狩』(スイドバシーにあった能楽堂に見に行ったね)
『桃太郎』(も今どき滅多に見かけないもの)
時間を惜しんで書棚を往復しスキャナでデータを取り込む。合間に顔を寄せて懐かしいインクの匂いを嗅いだ。メモリに匂いは保存されない。

閉館のチャイムで図書館を出る。落第横町と呼ばれた通りには、呑み屋と中華料理屋とうどんカルボナーラの店があった。夕暮れの路地は今、国境の町らしく「日本土産」の露店が犇めいている。鬼は私にからかわれながらヤスリ付きの爪切りを買った。どこで暮らそうと爪は伸びるし、手足の爪を全部剥がされるようなことがない限り、私たちはこの先も爪を切り続けるのだろう。鬼はスプリングコートのポケットに、買ったばかりの包みを入れる。私を見上げた笑顔を縁取る影の濃淡。私はハっと息をのむ。影には刹那「本郷三丁目の夜」があった。

身元保証人となる親族を日本国内に持たない私たちに、二十四時間以上の滞在許可は下りない。国境が閉まるギリギリにイミグレーションを通過すると、途端に道路標識の文字が変わる。ホンゴスアンチヨメの交差点を、鬼の歩幅に合わせてとぼとぼと渡った。

菊坂の階段で虎猫をなでたり、弁当を作ってナイターを観戦したり、礫川公園のハンカチノキの開花を待つ日は、あっという間に別の日常に置き換えられた。病院は焼かれ壊滅したクゥアンダ川沿いは復旧の目処が立たず、日本側には分離壁が急ピッチで建設される。国境の外に分類された私たちは今後、徐々に姿を変えてゆくだろう(けれど何故?)。吸収される者として新たな名前を与えられ少しずつ言葉を手放しながら、静かに生き続けるだろう(どうやって?)。私は優しい鬼の手をぎゅっと握る(私たちはかつてもストレンジャーではなかったか?)。もう片方の手には澪標のようなメモリスティック。早くも遊離し始めたデータは失われるままに任せ、しばしの間、よそ者の時間を慈しむのだ。

隅田有 第一詩集『クロッシング』空とぶキリン社
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