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平出隆『私のティーアガルテン行』を読む(その4)

本書には実に多彩な人物たちが登場する。

前項に引いた水仙先生こと鳥山晴代先生のほか、小学校すら退学していながら五カ国語を操り植物学動物学に通じた博学の祖父・平出種作、音楽の時間にはてんで歌えないのに、休み時間になると初夏の蜂のような小さく、かつ力強い歌声を響かせる黒本君、平出少年が思わずそのまばらな顎髭に手を伸ばして触ってしまった(そしてそれを自若としていやがる風も見せず、触られるままに笑みを絶やさず、さらに遠くを眺めている様子だった)上級生、代々木八幡青年座劇場で、「昂然と、見ず知らずの19の青年(筆者である)に、いたずらをはたらいた」「小気味のいい大女優」、すべての虚飾から遠くあることを望んだ筋金入りの私(わたくし)小説家・川崎長太郎、(こういう本を出すために、われら、生きているんだね)と著者宛の葉書の余白に書き添えたフランス文学者出口裕弘……

著者は彼らを「知り合いの原型(ウーア・ベカントシャフト)」と呼ぶ。ヴァルター・ベンヤミンの『ベルリン年代記』という回想記に出てくる言葉なのだそうだ。ちなみに『ベルリン年代記』と、その双子の片割れのように書かれたもうひとつのベンヤミンの著作『ベルリンの幼年時代』の双方において、特別な記憶の場所として繰り返し登場するのが、本書の題名ともなっている「ティーアガルテン」なのである。さて、「知り合いの原型」とは、筆者自身の言葉によれば、

幾人もの貴重な知り合いによって生涯の迷路が築かれていくと、やがて知り合いの一人一人がその迷路のいくつもの入口となる、というものである。たしかに私もまた、自分にとって特別な存在と思える過去の精神に魅入られ、いまは死者となっている人々の痕跡をあちらこちらに探し歩いてきたが、その一人一人が、私の生涯という迷路の、いくつもの入口となっていくのかもしれない。(P20)

過去と現在、死者と生者の境を越えて、精神の地底に果てしなく広がる迷宮の、分岐点ごとに佇む石像のような人影。その横顔を記憶の炎がゆらゆらと照らし出している。まさに神話的な原型に直結するイメージだが、本書に数多く登場する人物像のなかでもっとも魅力的な者が誰かと言えば、これは迷わず著者本人であると断言できる。

このとき、私の中で殻が脱ぎ捨てられた。いつか燐寸箱をマイクに立ち上がると、知っている歌という歌が口三味線付きで次々に襲ってきた。他の客が帰り、ナインが歌い尽くしたあとも、声が掠れきるまで私は歌いつづけていた。聴衆となったナインは、こんな人だったのか、と腹を抱えて笑い、悶絶を繰り返していた。私が響たかしとなった、最初で最後のステージである。(P126)

「響たかし」なる人物が何者であるかは、本書を読んでのお楽しみである。あるいはまた、

先生は荒々しく立ち上がり、表に出ろ、と叫んだ。とっさに私も立ち上がり、この瞬間しかない、という実行を決断した。立ち上がるや恩師の胸倉をとると、そこからためらわず前へ踏み出しながら、背後の壁に身体ごとぶつけた。とたん、滂沱の涙があふれた。
 それでも、教え子は先生の襟元を締め上げ、そのまま頭を前後に揺するようにして、思い切り壁に、何度もぶつけた。
「なにいっているんですか、先生、なにをいっているんですか」(P240)

「先生」は出口裕弘、「教え子」は著者その人である。一体何が起こっているのか、それもまた読んでのお楽しみとしていただきたい。

超絶的な技巧と考え抜かれた戦略によって紡がれた文章の背後から、等身大の著者がそれらをすべて脱ぎ捨てて丸裸となるかのように立ち現れる。詩のなかでここまで自分を突き放すことは難しいだろう。けれどもそこに散文を導入することによって、他人の眼を持つことができる。えてして天上天下唯我独尊的なナルシズム(ルビ・ひとりよがり)に溺れがちな詩人という種族が、自らテキストの虚飾を脱ぎ捨てて、ひとりの人間としての生身を晒してみせる。それもまた、「詩人の書いた散文」の魅力の大きな要素であろう。

このほかにも造本のこと、写真のこと、現代ドイツの画家ゲハルト・リヒター(写真の趣味もそうだが、この画家も僕の一番のお気に入りなのだ)をめぐるLicht(光源から射す光)とSchein(大気や物質にあたって照り返す光)の考察など、書きたいことは多々あるが、これくらいで止めておこう。本書をまるまる引き写してしまうことになりそうだから。

たまたま昨日出かけていったミュンヘンの文学祭では、ポーランドを代表する詩人Adam Zagajefskiが詩を朗読し、「中央ヨーロッパ」という概念をめぐるディスカッションに参加していたが、彼は「詩とエッセイの巨匠」として紹介されていた。「エッセイ」という表現形式の持つ深みと広がりに、本書を読んでようやく気付き始めたところである。(了)

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