亀霊ブックジャケット

三宅勇介インタビュー:AIはどこまで詩に近づけるか?(その1)

四元: 三宅さんは最新詩集『亀霊』のなかに「三宅勇介の振りしたる人工知能による短歌」という作品を収めていらっしゃいますね。

焼き鳥の串突きつけて説教をするヒトの目の焦点合はず
その人の目をよく見ればその眼窩ぽつかりとしたる空洞なりけり
焼き鳥の頭部は透けてその脳に人工知能が埋め込めてあり
焼き鳥が短歌を歌へば五七調ならで二進法であるなり
短歌これ二進法で進む時歌やがて縄文語に近づく

「人工知能による短歌」、それも「三宅勇介の振りしたる」人工知能、というコンセプトで歌を詠もうと思われたのはどうしてですか?

三宅:ありがとうございます、人工知能と詩歌に関する問題を取り上げていただきうれしいです。四元さんが今、私の詩集から挙げてくださった歌、まあ、歌としては、あまり大したことはないんですが、ここでは少し完成度よりメッセージを重視したかったのです。この一連の歌は、今年の正月に「現代短歌新聞」に発表したものですが、同じ正月に、詩集未収録ではあるのですが、酉年にちなんだ一首と新春エッセイを、「うた新聞」に発表しました。これも同じテーマだったのですが、短いエッセイなので、書き出してみます。

昨今、人工知能の文藝や芸術への進出ぶりが話題である。つい最近までは、文人、芸術家にとって、差し迫った問題ではなかった、人類以外のものによる創作の意味というものを考えることは逆にわれわれ人類にとって創作とは何かを考える機会でもある。そういう意味で、私は現代歌人と人工知能による千五百番歌合わせを提案する。今のうちなら、勝てる、気がするなあ。笑

*鳥の脳よりも小さなわが脳で人工知能と歌合はせしたし

こんな感じの、やや挑発的なエッセイだったのですが、このエッセイの後半の「歌合」、簡単に言えば、双方に分かれた陣営が歌で試合をするというものですが、これを人工知能と人間で、もう出来る時代に来ているのではないか?という事の実現の代替案だったのが、『三宅勇介の振りしたる人工知能による短歌』という作品なのです。

そもそも、私が定型詩と人工知能による問題を考えたのは、詩集の付録である、『歌論』の中の『アンドロイドは電気短歌の夢を見るか?』という評論が最初でしたが、2012年の春ごろ、これを書いていたとき、たまたま報道されていたニュースに、東大入試に挑戦する人工知能、「東ロボくん」の話がありました。(結局、東ロボくんが東大入試に挑戦することを諦めたというニュースも最近聞きましたが。)このとき、評論を書くにあたって、少し、この研究機関に話をききたいな、つまり、東大入試を受けるなら当然、国語もあるだろうし、それに対応するアルゴリズムとか、どういう風につくるんだろうか、とか、一詩歌人の立場として、なにかお話を少しでも聞けたらな、と、ダメ元で、メールを送ってみたことがありました。もちろん、返事はなかったし、(そりゃ、まあ、一趣味人に付き合っている暇はないでしょうし、笑)それはそれでいいのですが、その当時から段々、定型詩人の最大の脅威は、21世紀においては人工知能ではないか、と思いはじめたのです。

今、定型詩人という言い方をしたのですが、じつは、自由詩においても、その脅威はあるのではないか、というのがぼくの感想なのですが、そのあたり、四元さんにもお聞きしたいところなのです。

ところで、最近見たテレビのバラエティの番組の話で申し訳ないのですが、人工知能の最近の高度な絵画作成技術、つまりレンブラントと同じ技術で絵画をかけるところまで来ていることの話の流れから、ある現役芸大生が、21世紀の芸術において、人間はもう2番でいいではないか、と発言したことに衝撃を受けました。まあ、テレビ番組の中の発言でもあるし、絵画における技術と、人間の精神とか、こころの問題は、まだ別じゃないか、という意見もあるだろうとは思うのですが、そうした事をさっぴいても、そうした「覚悟」というものを、ある冷めた観点とともに持っている芸術家もいるということに驚いたのです。

そしてこれは絵画界、芸術界における対岸の火事ではなく、詩歌、文学界においても同じ問題ではないか、と思うのです。

これも去年でしたか、おととしでしたか、星新一賞という文学賞に、人工知能が応募して、予選を通った、という話は話題になりましたが、このとき、またしても、私に閃いた事がありました。つまり、小説より、短歌や、俳句をなどの定型詩をつくるアルゴリズムの方がたぶんシンプルだろうと。そこで、またしても、一詩歌人の立場から、その研究機関にメールした事があります。

(ここで、誤解していただきたくないのですが、笑、私はけっして悪質な迷惑メール野郎ではなく、あとにもさきにも、この2回だけなのですが)

つまり、人間と人工知能で、簡単な歌合をやってみないか、というような内容だったと思います。私が考えていたのは、たとえば、春、夏、秋、冬をテーマに、人間と人工知能がそれぞれ短歌をつくり、どちらが作ったかはふせておいて、どちらの歌が優れているかを、読者に判断してもらう、というような事でした。これも結局、メールには返事もなく、(これも全く当たり前の話でなのですが、)実現しなかったのですが、その延長線で少し考えたのが、「三宅勇介の振りをした人工知能による短歌」と「人工知能の振りをした三宅勇介による短歌」はどちらがうまいのだろう、ということでした。つまり、あくまで思考実験ですが、ぼくのこれまでの歌を人工知能に読み込ませて、「三宅語法」に通じた人工知能が、あるテーマで歌を作った場合と、同じテーマで、私が人工知能になったつもりで(どんなつもりだ)歌を作るのと、どちらが歌として上手いのだろうか、という皮肉な話なのですが……。

しかし、それらは、あくまでも今のところ、実現できていないので、「三宅勇介の振りしたる人工知能による短歌」という短歌作品を三宅勇介が作る、というところに持っていったのです。でも、こう書いていると、段々、頭がごっちゃになってきませんか?(笑)

この詩集の作品では、人工知能がつくった歌が、だんだん縄文語に近づく、という無理な展開をしちゃっているのですが、今の時点で、人工知能の創作に対抗するには、われわれ自身が、もっと詩型というものを、過去に遡りながら、考察してゆく、疑ってゆく、という事が必要なのではないか、と思ったからなのです。たしかに、今、われわれが、人工知能がつくった短歌や俳句を、「短歌もどき」「俳句もどき」と馬鹿にすることは簡単です。(このあたりは、また「技術と心」というテーマがからんできそうですが。)でも、もし少し過激な言い方が許されるならば、人工知能に、「五七五」で俳句を作れ、あるいは、「五七五七七」で短歌を作れ、とコマンドして出来あがった「俳句」や「短歌」と、定型というものを全く疑わない、(なぜならそこに五七五七七があるから)、現代人がつくる短歌や俳句は、ある一面で切り取った時、本質としては同じではないか、という気がするのです。それこそが、21世紀に産まれた、新たなる定型詩論の核心なのではないか、とも思います。

(聞き手:四元康祐 この項続く)

三宅勇介:Yusuke Miyake 1969年東京生まれ。


『亀霊』しろうべえ書房
http://shirobeeshobo.wixsite.com/home1/hon

『棟梁』本阿弥書店
http://store-tsutaya.tsite.jp/item/sell_book/9784776806462.html

『える―三宅勇介歌集』
http://sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=436

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