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小池昌代の〈詩と小説〉:『影を歩く』を読む

昨年末、小池昌代さんと公開トークを行う機会があった。それぞれの新刊を持ち寄って話し合うという企画。僕の本は『前立腺歌日記』、そして彼女の本が『影を歩く』だった。もっとも僕がドイツを出発する時点で『影を歩く』はまだ手元に届いていなかった。いま奥付をみると発行日は2018年12月11日となっている。最終ゲラをPDFで送ってもらい、僕はそれをiPadで読みながら日本行の飛行機に乗ったのだった。

『前立腺歌日記』は題名通り日記風の散文と詩歌が混ざりあったスタイルで、自分としては古典の再生というか、いったん枝分かれした詩と小説の再融合のつもりだったのだけれど、『影を歩く』でもさりげなく詩と小説は同居している。

冒頭に「対話 まえがきにかえて」という章が置かれていて、自分と影との関係について男女が話している。

「ただ、自分の影だけはどうしても踏めないのよ」
「それはその通りね。影は生きているみたい。殺そうとすると、いや、踏もうとすると、するっと逃げる。どうしたって捕まえられない」
「自分と影とは、そういう関係なんだな」

読んでいるうちに、自分と影の関係が、現実と詩の関係に思えてくる。現実の影としての詩。そして小説は、現実の影である詩の影。僕にはそういう図式が思い浮かぶのだが、小池さんはどうだろう?

『影を歩く』は四章に分かれて、各章の冒頭に詩が配されている。第一章の詩は「油揚げ」という題名だ。いかにも小池さんらしいな。彼女の詩にはいつも確固たる実生活の基盤がある。だがそれは詩の主題としてあるのではない。むしろそこから反撥して詩を展開するためのスプリングボードとして存在するのだ。生活を大切にしながら、常にそこから逃げ出すことを夢見ているのが彼女の詩の特徴だと思う。「油揚げ」もその例外ではなく、49歳で家出した女が登場する。その女に「あなた大丈夫?」と訊ねられて、「わたし」は思う。

今がそのときだと
わたしにはわかった

こういう刹那、小池さんの詩は往々にして燃え上がる。この詩では「つきあたりの家」がいきなり燃え始めるが、以前書かれた詩のなかでは交差点を渡る自分の髪の毛が燃えていたりもした。あ、だからこそ油揚げだったのか。

(この項つづく)



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